人生の「折り合えなさ」の問題

 

最近YouTubeに上がっていた太田上田が面白い内容だったので最近考えていた芥川龍之介とトルストイに絡めてまとめた。

世の中は太田光のような「疑わずにはいられない人」と上田晋也のような「疑わずにいられる人」という2種類の対比が印象的。濃淡はあれど結局人間はこの2種類に分かれると思った。

 

 

以下まとめ。

 

太田上田の悩み相談で、16歳の女性視聴者から重い相談が寄せられていた。

「人間が生まれてから死ぬまでの限りある人生とは何なのか」
「なぜ生命は存在するのか」
「人間の存在意義とは何なのか」

そういう、いわば思春期に一度は触れてしまう根源的な問いである。

この問いに対して、太田光は自身の16歳の頃を振り返る。
当時の太田はどん底の状態にあり、チャップリンに憧れていた。しかしその憧れすら、まっすぐには受け取れなかった。

自分は本当にチャップリンが好きなのか。
本当に人を笑わせたいのか。
それとも「チャップリンを理解できる自分」「天才だともてはやされる自分」「名声を得る自分」に憧れているだけなのではないか。

そうやって自己を疑い始める。

さらに太宰治を読んだことで、自分の中のいやらしさ、俗物性、自己愛、名声欲への自意識が肥大していく。
純粋に何かを好きでいるつもりでも、その奥にある承認欲求や自己演出が見えてしまう。
すると今度は、「自分は純粋でありたいと思っている自分に酔っているだけではないか」という、さらに一段深い疑いに落ちていく。

自己への疑いが止まらない。
感情のすべてに注釈がつく。
好きだと思っても、「好きな自分が好きなのでは」と疑う。
苦しんでいても、「苦しんでいる自分に酔っているのでは」と疑う。
純粋でありたいと思っても、「純粋でありたいという欲望そのものが俗物的では」と疑う。

これは思春期の自意識の典型でありながら、同時に、そこから抜け出せない人間にとっては一生続く問題でもある。

太田がそこから抜け出すきっかけになったのは、偶然美術館で見たピカソの『泣く女』だったという。

世間が評価している難解なものを、自分にも理解できた気がした。
その瞬間、自分にも確かな感受性があるのだと思えた。
「自分の感覚は完全な嘘ではない」と思えた。
それが少しずつ回復につながっていった。

一方で、上田晋也はまったく違う。
上田は「自分はプロレスが好きとか、そういう純粋な感情だけで、そこまで考えたことがなかった」と語る。
太田はその純粋さを羨ましがる。
最終的に太田は、「名声も欲しい。天才とも思われたい。でもやっぱりチャップリンもピカソも本当に好きだった」という、自分の中の矛盾に折り合いをつけていく。

この話は、一見するととても良い話である。

純粋さと俗物性は両立する。
名声欲が混ざっていても、好きという感情がすべて偽物になるわけではない。
人間は矛盾した存在であり、その矛盾を引き受ければいい。

そういう話として受け取ることもできる。

しかし、自分にはここに少し引っかかりが残った。

太田の話は、「人生の意味がわからない」という16歳の相談への答えのようでいて、よく考えると少し違う。
太田が語っているのは、人生の無意味さそのものではなく、自己への疑いである。

「なぜ生命は存在するのか」
「限りある人生とは何なのか」
「生きる意味とは何なのか」

という問いに対して、

「自分の感覚は本物なのか」
「自分は純粋なのか」
「自分は俗物なのか」
「自分の好きは本物なのか」

という問いへ移っている。

つまり、存在論の問いが、自己認識の問いに置き換わっている。

これは別に悪い意味でのすり替えではない。
太田にとっては、おそらく実際にそういう回路でしか生き延びられなかったのだと思う。

「人生に意味はあるのか」という問いは、解けない。
しかし「自分にも何かを感じる力がある」「自分の感受性は完全な嘘ではない」と思えた瞬間、人は世界との接点を取り戻すことがある。

ピカソの『泣く女』は、太田にとって人生の意味の答えではなかった。
それは、「自分の感覚を信じてもいいかもしれない」という、自己不信からの一時的な救済だった。

しかし、それはやはり人生の無意味さそのものへの答えではない。

ここに、16歳の問いに囚われ続ける人間と、どこかで折り合いをつけられる人間の差がある気がする。

人間には、大雑把に分ければ二種類いるのではないかと思う。

ひとつは、留まり続ける人間。
もうひとつは、流れていける人間。

上田晋也のような人は、良い意味で「一次的な好き」に乗れる。
プロレスが好き。面白い。楽しい。
そこで止まれる。

もちろん上田にも悩みはあるだろうし、単純な人間だという意味ではない。
ただ、少なくとも太田が語るような「好きな自分を好きなだけではないか」「この感情は本物なのか」という無限反省には、そこまで絡め取られていないように見える。

一方で、太田のような人間はそこに留まり続けてしまう

何かを好きになる。
するとすぐに、その好き自体を疑う。

自分は本当にこれが好きなのか。
好きな自分を演じているだけではないか。
純粋な感動だと思っているものに、承認欲求が混ざっているのではないか。
人と違うものを理解できる自分でありたいだけではないか。
そもそもこの苦悩すら、自分を特別だと思いたい欲望ではないか。

こうなると、感情そのものに安住できない。

思春期には多くの人が一度こういう場所に行く。
しかし、多くの人はその後、生活の中で自然にそこから離れていく。
受験、仕事、恋愛、結婚、子育て、趣味、人間関係、日々の疲労。
そういうものが、問いを薄めていく。

だが、薄まらない人間もいる。

16歳の問いが、そのまま人生の奥に刺さり続ける人間がいる。
それは大人になれないということではない。
社会的に未熟という話でもない。
ただ、問いが終わらない。
自己や世界を疑うことから、完全には降りられない。

自分はおそらく、そちら側の人間である。

この問題を考えるとき、トルストイと芥川龍之介の関係を思い出す。

トルストイは『我が懺悔』で、知性によって人生を突き詰めた果てに、深い絶望へ落ちていく。
名声もある。財産もある。家庭もある。作家としての成功もある。
それでも「いずれ死ぬなら、すべては何のためなのか」という問いから逃れられなくなる。

トルストイは最終的に、民衆の信仰や素朴な生の中に救いを見出そうとする。
知性で解けない問いを、生活と信仰の側へ戻すことで乗り越えようとする。

しかし芥川には、それが嘘に見えたのではないかと思う。

本当に信じたのか。
それとも、信じることにしただけではないのか。
絶望に耐えられなかったから、信仰という物語に退避しただけではないのか。
救いを得たのではなく、救われたことにしただけではないのか。

芥川は、トルストイの救済にさえ疑いを差し込んでしまう。

ここが恐ろしい。

普通なら「救い」として機能するものが、さらに疑いの対象になる。
信仰も、生活も、素朴さも、折り合いも、すべてが「自己欺瞞」に見えてしまう。

太田は、自分の中にある名声欲や俗物性を認めたうえで、「でもやっぱり作品も好きだった」と折り合いをつけた。
それは太田にとっては本当だったのだと思う。

しかし、折り合いをつけられない人間もいる。

「名声欲もある。でも好きも本物だった」
という言葉に対して、

「そう思いたいだけではないのか」
「そういうことにして生き延びただけではないのか」
「矛盾を引き受けたというより、矛盾を美化しただけではないのか」

と感じてしまう人間がいる。

これは正しい・間違っているの問題ではない。
感じ方の問題である。

ある人には成熟に見えるものが、別の人には降伏に見える。
ある人には折り合いに見えるものが、別の人には誤魔化しに見える。
ある人には生きる知恵に見えるものが、別の人には真実からの撤退に見える。

自分はおそらく、後者の感受性が強い。

AIからはそれは

「真実を全部抱えたままでは人間は生きられない、という真実を受け入れること」

によって解消するだろうという表現を得た。
しかし、それには違和感があった。

自分が言うなら、こうなる。

「真実を全部抱えたままでは人間は生きられない、という「現実」を受け入れること」

「真実」と言ってしまうと、それ自体が一段高い場所に回収される感じがある。
まるで、「人間は弱いという真実を受け入れることもまた深い真理なのだ」と、苦しみを哲学的に美化しているように見える。

しかし「現実」と言い換えると、救いの匂いが消える。

そこにあるのは納得ではない。
敗北である。

本当は全部見ていたい。
本当は誤魔化したくない。
本当は目を逸らしたくない。
でも人間の身体と生活はそれに耐えられない。

これは「だからそれでいい」ではない。
ただ、「結局、人間はその程度の器なのだ」という冷たい現実である。

「問いとの距離感を変えることでしか楽にならない」という表現にも、自分は違和感を持つ。

それは結局、自己欺瞞的に生きろと言っているように聞こえる。

問いを背景に置く。
生活に戻る。
距離を取る。
折り合いをつける。

そういう言葉は、一見すると穏当で成熟している。
しかし、自分にはどうしても、「苦しいから問いの強度を下げましょう」と言っているように聞こえる。

本当は問い続けるべきなのに、生活できないから薄める。
真実に耐えられないから、距離を取る。
絶望すると壊れるから、日常へ戻る。

それを「成熟」と呼ぶこともできる。
だが、自分には「自己欺瞞」と見えてしまう。

これはおそらく、説得でどうにかなるものではない。

「それは自己欺瞞ではない」
「人間には生活が必要だ」
「問いを抱えたまま生きればいい」
「不完全さを受け入れよう」

そう言われても、救われない。

むしろ、その言葉自体に誤魔化しの匂いを感じてしまう。
それらは全部、生きるために真実の要求水準を下げているように見える。

そして、その見え方を変えることは難しい。

だから、この問題は論理では解決できない。

「生きるためにはある程度の誤魔化しが必要だ」という命題は、おそらく現実としては正しい。
しかし、それを聞いて「なるほど、では誤魔化して生きよう」とはならない。

問題は、その命題の正しさではない。
その態度を自分が許せるかどうかである。

許せない人間がいる。
少なくとも、簡単には許せない人間がいる。

だからどれだけ説得力のある人生論を持ってこられても、最後にはこう感じてしまう。

それは結局、生きるために目を逸らしているだけではないか。

そしてこの問いは、かなり強い。
簡単には潰せない。

ただ、ここで一つだけ言えるとすれば、自己欺瞞を完全に否定することもまた難しい。

人間の感情は、最初から混合物である。

純粋な愛情にも、自己愛は混ざる。
善意にも、自己満足は混ざる。
創作にも、承認欲求は混ざる。
信仰にも、逃避は混ざる。
思想にも、ポーズは混ざる。
感動にも、「感動できる自分でありたい」という欲望は混ざる。

完全に透明な動機だけで生きている人間など、ほとんど存在しない。

だから、「混ざっているから偽物だ」と判定すると、すべてが偽物になる。

これは芥川的な視線である。
恐ろしく鋭いが、そこまで行くと、あらゆる救いが機能しなくなる。

一方で、「混ざっていても本物だ」と言うと、それはそれで自分には甘く聞こえる。
本物だと思いたいから、混ざっていることを許しているだけではないか。
人間の弱さを美化しているだけではないか。
そう感じてしまう。

この板挟みから出られない。

結局、自分のような人間にとって問題なのは、「自己欺瞞なしで生きられるか」ではないのかもしれない。
おそらく、それは無理である。

しかし、「自己欺瞞なしでは生きられない」と認めること自体も、真実への裏切りに感じられる。
ここが苦しい。

つまり、

人間は真実だけでは生きられない。
しかし、真実だけでは生きられないことを受け入れることも、真実への裏切りに感じられる。
その不快感は消えない。

これは救いではない。
構造である。

ここで「でもそれでいいんだよ」と言ってしまうと、また誤魔化しになる。
「不完全でいい」「人間らしくていい」「それも含めて真実だ」と言った瞬間に、美化が始まる。

だから、より正確に言えばこうなる。

折り合いをつけられる人間はいる。
折り合いをつけた方が生きやすい。
おそらく社会的にも健康である。
しかし、折り合いをつけること自体が自己欺瞞に見えてしまう人間もいる。

その人間にとっては、楽になる方法はほとんどない。
できるのは、誤魔化しているという嫌悪感を消さずに、それでも生活を続けることくらいである。

これは全然きれいではない。
救いにもなっていない。
しかし、自分の感覚にはこちらの方が近い。

「折り合いをつける」と言うと嘘になる。
「受け入れる」と言っても嘘になる。
「救われる」と言うともっと嘘になる。

せいぜい言えるのは、

折り合いがつかないまま、折り合いがつかない人間として生きる。

それくらいだと思う。

太田光は、自己への疑いと俗物性と純粋さの間で、なんとか折り合いをつけた。
上田晋也は、おそらくそもそもそこまで留まり続ける必要がなかった。
トルストイは信仰や民衆の生活に救いを見出そうとした。
芥川は、その救いにさえ嘘を見てしまった。

自分は、どちらかといえば芥川的な疑いに近い場所にいるのかもしれない。

救いの言葉が救いとして聞こえない。
折り合いの言葉が折り合いとして響かない。
生活へ戻ることが、成熟ではなく撤退に見える。
問いとの距離を変えることが、知恵ではなく自己欺瞞に感じられる。

それでも、人間は身体を持っている。
腹が減る。
眠くなる。
金が必要になる。
誰かと話したくなる。
孤独に耐えられなくなる。
社会から完全に切り離されると苦しくなる。

真実だけでは生きられない。
だが、その現実を受け入れることすら気持ち悪い。

ここにどうしようもなさがある。

たぶん自分は、16歳の悩みから卒業できなかった人間なのだと思う。
いや、卒業したくなかったのかもしれない。
「大人になる」とは、多くの場合、問いを薄めることでもある。
だが、その薄まり方にどうしても誤魔化しを感じてしまう。

だから、自分はまだ16歳の問いに留まり続けている。

人生とは何なのか。
なぜ生命は存在するのか。
自分の感情は本物なのか。
生きるための折り合いは、単なる自己欺瞞ではないのか。
人間はどこまで真実に耐えられるのか。
耐えられないなら、それはただの敗北ではないのか。

この問いに、明るい結論はない。

ただ、少なくとも一つ言えるのは、こういう問いに囚われ続ける人間がいるということだ。
そして、その人間にとって「折り合いをつければいい」「距離を取ればいい」「生活に戻ればいい」という言葉は、必ずしも救いにはならない。

むしろ、その言葉の中にある優しさや実用性や成熟の匂いこそが、自己欺瞞に見えてしまう。

それは正しいか間違っているかではない。
そう感じてしまうという問題である。

だから結局、残るのはこの地点なのだと思う。

真実を全部抱えたままでは人間は生きられない。
だが、だからといって真実から目を逸らすことを肯定したくもない。
その矛盾に折り合いがつかない。
そして、折り合いがつかないまま生きるしかない。

これを救いと呼ぶことはできない。
成熟とも呼びたくない。
ただ、現実として、そういう人間がいる。

自分はたぶん、16歳の問いに留まり続け死んでいく側の人間である。