トルストイの著書に「我が懺悔」「懺悔」という本がある。トルストイが50歳前後に書かれた本でこれでもかというくらい人生の無意味さについて突き詰めている個人的にお気に入りの作品。あまり人気がなくて最近は現代語訳は出版されていない。日本語訳は1950年くらいに出されたものが最後?で読みにくいが、慣れれば単純かつわかりやすい内容であると思える。

なぜあそこまで人生の無意味さを突き詰めた人間が最終的には宗教的に生きるに至ったのか?個人的には一生謎だと予感している。が、これを読むと彼の一生を通じて彼の中での宗教と哲学の対比みたいなのもが垣間見れる。が、暗い作品勝つ意味のない内容と捉えられているようであまりにも人気がない。とにかく資本主義的でないからだとも思う。

そんな中ふとしたきっかけで芥川龍之介「河童」を読んでいるとトルストイに言及すると共に「我が懺悔」を匂わせる記述を発見した。

主人公が迷い込んだ河童の世界では「近代教」「生活教」と呼ばれる宗教が主流である。(河童語だとQuemoocha、chaは英語のism(主義)でquemooの原形quemalの訳は「飯を食ったり、酒を飲んだり、交合を行ったり」する意味)

この「生活教」はそのまま資本主義、快楽主義に当てはまるとは言えなさそうであるがニュアンスは似ていると感じる。その「生活教」の聖徒の一人としてトルストイが挙げられ以下のように説明される。

「この聖徒は事実上信ぜられない基督 (キリスト)を信じようと努力しました。いや、信じているようにさえ公言したこともあったのです。しかしとうとう晩年には悲壮な嘘つきだったことに堪えられないようになりました。 この聖徒も時々書斎の梁に恐怖を感じたのは有名です。けれども聖徒の数にはいっている位ですから、勿論自殺したのではありません」

この中の「晩年には悲壮な嘘つきだったことに堪えられない」という部分がまさに「我が懺悔」を指していると思う。誰かこれを指摘している人はいないかと検索してみたが残念ながら私の探した限り見当たらなかった。ただ、当時の芥川龍之介みたいなひともトルストイの「我が懺悔」に思う所があったということが発見できて嬉しかった。

トルストイは「生活教」の聖徒となっている。つまり最終的には資本主義的に生きたという解釈。ほかにもニーチェが「生活教」の聖徒として挙げられているのも興味深い。曰く彼は自身の唱える超人になれずに狂った=「生活教」(資本主義的)に生きた。だからこそニーチェは現代でも人気哲学者なのだろうか?私が哲学科の学生時代から感じていた世の中がニーチェ像に抱いている違和感(=ニーチェは特別で決して宗教家ではない的な風潮)を突いてくれた気がした。他にも私にはよくわからない歴史的人物の名前が色々出てくるので色々掘ってみるのも面白いかも。

また、この「河童」という作品他にも色々と凄い。

「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけです。(尤もあなたがたはその外に遺伝をお数えなさるでしょう)」という河童のセリフや「悪遺伝子を撲滅する為の遺伝的義勇隊」は遺伝子で人生が決まる現代の「親ガチャ」的な雰囲気だったり、労働がなくなれば殺処分されて食べられてしまうがそれを仕方のないものとして受け入れている河童社会の様相がどこかAI時代における労働の消失による人間的に生きることの不要性みたいな所を予言しているような気がしてならない。まさにまんま「信仰」「虚無」「遺伝子」などという現代を生きる私が日々考えているテーマが散りばめられていて驚いた。そこまで古典とも言えないがやはり人類は普遍的なテーマを繰り返し考えている気がしてならない。

特に芥川龍之介のファンという訳ではないが来年没後100年記念で改めてこの作品がもっと注目されることを願う。間違いなく心に刺さる孤独なおじさんは増えているはずである。誰か共感してくれる人がいたら嬉しい。