このブログを書き始めたきっかけは順風満帆に見えた三浦春馬さんの自殺の衝撃であり、それを契機に死について何か考えを残しておきたかったからでありやはり自殺についてよく考えている。多分私は死や自殺について考えている時間が平均的な人よりも長いのだとと思う。今日も物思いにふけていたので自殺について文章を記しておく。

『真に重大な哲学上の問題は自殺だけである』というようなことをアルベール・カミュは言った。あらゆる宗教は自殺を否定し生物学的にも自殺をする生物は人間だけであるとされる。カミュによれば「妄信」によって救われる人は「哲学的自殺者」である。なぜ人間だけが「死」を考え自殺を選択するのだろうか?「自殺」とは自ら死を選択する行為であるが同じように自ら死を選択する行為である「尊厳死」という言葉もあるのでまずは自殺と尊厳死の違いを明確にしておきたい。

自殺と尊厳死の違い

①支援の有無:自殺は自らの手で命を絶つ行為であり、尊厳死とは自らの手による行為ではなく他者に認められた上で他者の援助によってなされる。

②死の原因:自殺とは衝動的な部分が強いように思える。衝動的に行ってしまう行為とは例えば衝動買いだったり、衝動的にギャンブルで大きな賭けをしてしまったり、衝動的に恋に落ちたり・・・一瞬の感情によって実行したものの後々考えれば後悔してしまうような行為である。一方で尊厳死は衝動的な部分が弱い。末期的な病気や疾患、重度の身体的障害など、死を迎えることが避けられない状況で死を選ぶ事のみが苦しみからの解放=幸福と認められる状況においてのみ医療的措置によって死を迎えることが許される。この「許される」という言葉はいかにもキリスト教的な表現に思えるが。

要するに精神的、社会的なストレスなど治療可能な「精神的な問題」が原因と判断された場合は自殺と判断され、末期的な病気や疾患、重度の身体的障害など治療が不可能で死を選ぶ事が幸福と他者(法律)に判断された場合は他者の支援によって尊厳死が認められるのだと思う。重度な統合失調症など不治とされる精神疾患の場合は「精神的な問題」=「末期的な病気や疾患」と判断されるケースもある。いずれにしろ自らの判断で死を選ぶという行為が正当化されるには厳格なプロセスがある。

「自殺」であるのか「尊厳死」であるのかは判断は置いておいて結局のところやはり自らの死とは極めて「個人的な問題」であると思う。それらを日常的にあまり意識せず生きることが出来る人がいる一方で死ぬことばかりに囚われ続ける人間もいる。どうでもいいどうしようもない事ばかりに囚われる人。私はどちらかというとその部類であると思う。死ぬことに囚われ自殺したい人間はやはり精神病と判断される。多くの哲学者がそういった精神病によって最終的に自殺に至っていると思う。彼らの死は治療可能である「精神的な問題」を起因とした衝動的な自殺であったのだろうか?

社会はあらゆる手段で「生きる意味」を身に着けることを強要してくると感じる。生まれ落ちた瞬間からどのようなものであっても何かしら生きる指針のようなものを身に纏い続けなければならない。カミュによれば「妄信」で救われる人は「哲学的自殺者」である。私はそうなるのが嫌でありやみくもに宗教的解釈などを妄信して自殺を否定したくはないのだが、結局はただの俗物であり人生の大抵は「哲学的自殺者」になってしまっている気がする。それを少しでも回避したくて繰り返し何度もこういった文章を書いているのだと思う。