今日俳優の三浦春馬さんが自殺したとの報道がでた。
日本での自殺者は毎日30から40人出ていると言われるが著名人で特に若い方が自殺をすると世間にとっては衝撃的な出来事である。
そしてこういうニュースが出るたびに私は死というものについて多分他の人よりも考えてしまう。
そこで自分が何かを考えた証を残したいと思い立ちこのブログを始めた。
ブログのテーマは特になく私が日々考え書きたいと思ったことを自由に赤裸々に書いていこうと思う。
なぜ他の人よりも死について考えてしまうと思ったのかは、私が大学で哲学科を卒業であると思う。なぜ哲学科を選んだか?大まかに言ってしまえば私は常日頃ある違和感を感じながら生きていたからである。それがまさに「死」についてである。我々は誰一人として死んだらどうなるのかなんてわからないはずである。であるにもかかわらず当然のように平然と暮らし、平然と働き、平然と過ごしている。なぜ生まれてきたのか、何のために生きているのか、明確な定義をすることは不可能であるにもかかわらず淡々と暮らしている。私はたぶんその人間の矛盾が人一倍気になったのだろうと思う。哲学とはそういうことを考える学問であると思い哲学科に入ったわけである。
とはいえ常日頃からこんなことを考えている訳ではない。日常に流されるように普通に働き普通に暮らしている。ただ、今日のような報道があるととっさに死を自覚させられる。いつかは受け入れなければならない。その時まで後悔のないよう一所懸命楽しく生きるという人は多いが私はどうしても違和感を感じてしまう。
結局最終的に一人で受け入れなければならない死という得体のしれないものの前にはそんな考え方はそもそも無意味なのではないか。どうせ誰も明確な答えなど知りえない。楽しく後悔のないようという考えは結局最後は己の信仰に頼るしかないのであると私は思う。
そういった意味では私は自殺について否定も肯定もできない。なぜ生きているのかなんて生きている限りでは知りえないのだから。この考え方は楽観的虚無主義(optimistic nihilism)という類のものであると思う。
何が言いたいのかというと世間は死というものを真に受けすぎていると思う。誰にでも訪れるものだし残念だとか悲しいだとか言っても結局死んだ本人でしか向き合えない問題なのだから。人の死についてあれこれいうのは勝手で自分自身の死をないがしろにし過ぎているような気がしてならない。
自殺は法の下においては悪である。ただし本質的には善でも悪でもないのだと私は思う。世の中で生への執着ばかりが話題になるが死への欲望は少なからず誰もが持っている。死んだらどうなるのか?なんとなくだけど死んだから全身麻酔のように意識が消失してしまう気がする。全身麻酔の経験がある人はわかると思うが、あれは完全に自分が無になったように思う。夢すら見ない。何かその時間だけ自分が世界から消えたような感覚。私はいつか訪れるその時をただ待つばかりである。