奈良市立若草中学校 講演会『松永久秀と多聞城』 ─ 令和元年11月8日 ─ | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

前回の記事では10月26日に鑑賞しました奈良国立博物館で開催中の正倉院展を紹介しましたが、その日に奈良駅内でこのようなポスターが目に止まったのです。
 
 
松永久秀と多聞城というテーマで若草中学校で文化講演会があるというポスターに、非常に興味を持ちました。松永久秀は奈良の歴史を語るのに欠くことの出来ない重要な人物であり、多聞城とはその松永久秀の居城として奈良の歴史の上で極めて重要な場所。その多聞城跡が東大寺転害門からほど近い若草中学校だということを以前から知ってはいたのですが、何しろ公立中学校なので気軽に見学することも出来ず、このような機会を前から待っていたのです。
11月8日に開催されるというので、正倉院展を鑑賞した日から2週間に満たない、まだ正倉院展の会期が終わっていない短期間でもう一度奈良へ、この文化講演会の聴講に行くことにしたのです。
 
せっかく奈良まで来たので、若草中学校へ行く前にもう一箇所立ち寄ることにしました。奈良市二条大路の大型複合商業施設、奈良ミ・ナーラです。
 
 
自分にとっては耳慣れない商業施設ですが、要するに前の奈良そごう、イトーヨーカドー奈良店であります。奈良そごうは平成12(2000)年にそごうグループが民事再生法が申請されたのに合わせて閉店。続くテナントとなったイトーヨーカドーも業績不振を理由に平成29(2017)年に閉店となりました。相次ぐテナントの撤退に、まことしやかに語られたのは「長屋王の呪いだ」という噂です。
 
 
奈良時代前期の皇族の長屋王は天武天皇の孫で、元明天皇の義理の甥、元正天皇のいとこという皇位に近い人物であり、右大臣として朝廷において大きな存在感を持っていました。しかし自らの一族の血を継ぐ聖武天皇の政敵とみなされ、神亀6(729)年に藤原不比等の子である藤原四兄弟による謀略で無実の罪を着せられ、命を絶たされるという長屋王の変が起きました。
奈良文化財研究所の発掘調査で大量の木簡が出土し、昭和61(1986)年 奈良ミ・ナーラの建つこの場所が長屋王の邸宅跡であったことが確かめられたのです。長屋王邸は長屋王の変で長屋王が無念の死を遂げた正にその場所であり、相次ぐテナントの撤退にそんな噂がささやかれ、それはニュースで取り上げられるほどの有名な話にもなりました。
そんな良からぬ噂を払拭する意味でも、奈良ミ・ナーラには繁盛を期待したいところです。
 
小生がその奈良ミ・ナーラへ来た目的ですが、5階にある奈良市美術館を訪れることが理由でした。ここで『遊景写真倶楽部作品展2019』が開催されていると聞いたからです。会期は11月6~10日とわずか5日間だったのですが、ちょうど講演会の日が会期だったので、せっかくだからと寄せていただきました。
 
 
この写真展を知ったのは、すさたんさんのブログ『東大寺が大好き』からです。彼女のブログは奈良の美しい風景を一枚の写真で紹介するというスタイルで記事を毎回アップされておられまして、一枚一枚の写真から奈良への深い愛がよく伝わって来ます。
 
 
小生とすさたんさんの縁は、小生がmixi東大寺コミュニティの管理人をしていた頃からで、誰よりも東大寺に対して誰よりも情熱的だった彼女には、東大寺コミュニティを大いに支えていただきました。実際、小生がmixiを退会する時には、大切な東大寺コミュニティを引き継ぐとすれば すさたんさんしかいないと、すさたんさんに東大寺コミュニティの次期管理人になって欲しいとお願いをしたほどでした。
それからもう10年になりますが、写真展ですさたんさんが今での精力的に活動をされているのを見て、とても自分も刺激を受けたように思います。このタクヤNoteは今は更新が少なくなってますが、自分も「するべきことはこれだ」というものを見つけて、すさたんさんに負けないように復活しようと力を溜めています。
 
奈良ミ・ナーレの奈良市美術館で写真鑑賞をした後は、いよいよこの日の目的である若草中学校へ向かいました。奈良ミ・ナーレからどういう交通手段で行くか選択に少し悩みましたが、最寄りの奈良交通の宮跡庭園バス停からぐるっとバスが出ていて、そこから県庁前バス停まで乗り、下車1㎞北に歩きました。時間が気になったのですが、ミ・ナーレから奈良県庁は共に大宮通りだったのが幸いし、バスに乗ってから30分程で若草中学校に到着出来て一安心でした。
 
 
多聞城跡である若草中学校は東大寺の転害門から平城宮を東西に結ぶ佐保路と呼ばれる旧道沿いにほど近い丘陵の上にあります。講演は午後1時受付開始、午後1時半開演というスケジュールでしたが、小生は1時前には到着していたので、まず若草中学校のすぐ前にある、若草公民館に立ち寄りました。
 
 
公民館の前に「多聞城の資料あります」と書かれた張り紙が貼ってあったので、ちょっと話を聞こうと立ち寄ったのです。公民館におられた係の方は親切で、無料の資料と代金は志しというパンフレットを置いておられたので、数百円のお金を置いて両方を戴きました。無料の資料はタイトルが『多聞城』、代金は志しのパンフレットはタイトルが『幻の城 多聞城』(以後引用はこの名称で記載します)。ここで戴いた二種類の資料は、このブログ記事を書くのにとても役に立ちました。
 
 
そして係の人に「今日は中学校で、多門城の講演会があると聞いたのですが」と話をしますと、係の人は「ああ、それは地元の人向けに開催されるものなので、おそらく地元の方しか参加できないです」という説明が。これは、もしかしたら講演会を聞くことは出来ないかも。それがルールならやもうえないと思いながら、とりあえず行ってみることにしました。
 
若草中学校は公民館から200mほど北。校門には講演会を案内する大きな立て看板が立てられていました。
ここの校門前は平成23(2011)年に若草山山焼きの撮影をした思い出の場所であります。しかし、有名な歴史の舞台であった多聞城跡とは言え、公立中学校の校内ということでその中に入るというのは、当然これまでありませんでした。今回講演会の会場ということで、初めて多聞城跡の中に入らせていただきました。
 
 
講演が始まる午後1時半まで少し間があったので、多聞城跡である中学校の校内を少し見て回りました。
まず、校門を通ると、すぐ右手に夥しい数の石仏や多宝塔などの石造物が。『多聞城有縁無縁供養』と呼ばれるこれらは、校舎や体育館建設の時に建築現場から掘り出されたもので、一まとめにされて供養されています。おそらく多聞城の石垣や石敷きなどの建材として使われていたのでと考えられており、これらも多聞城の遺構の一つとされています。資料などに書かれていたので、小生は以前からこの石造物群の存在を知ってはいたのですが、今回はじめて間近でお参りすることが出来ました。
 
 
石造物群を横手に正面を向くと、目の前に現れるのは校門から校舎に続く『七十五階段』と呼ばれる高さのある急な石階段です。ここの生徒はみんな、このキツい階段を毎日登って通学しているのでしょうね。
そして、その脇には『多聞城跡』の石碑が立てられていました。
 
 
石段を登ると学校の校舎です。本館の入口から中に入ると、受付の上に『多聞山城縄張推定図』と記された図が掲げられていました。かつての多聞城の造成された地形図です。校内にこんな図があるとは、やっぱりすごい学校です。
 
 
校内を一通り見て回りましたら、参加出来るかわからないと思いながら、講演会が行われる体育館の方へと行きました。入口にも講演を案内する看板が立てられており、小生はとりあえず中に入らせていただきました。
 
 
体育館の中には、たくさんのパイプ椅子が並べられ用意がされていました。小生は入口を入ってすぐの受付に寄らせていただき、公民館で聞いた「講演会は地域の人たちのためで、地域以外から来た私は参加出来ないということでしょうか?」と、無理なら帰りますという意思を伝えながら話をししました。
 
 
小生の話に受付の人は少し相談をされた様子でしたが「こちらの講演会は地域の者でなくても、どなたでも聞いていただくことが出来ます」と、参加を親切に認めていただきました。来て良かった。来た甲斐があったとやっと思うことが出来ました。
 
こうしてパイプ椅子に座って、講演が始まる午後1時半を待つことになりましたが、ずっと気になっていたのはパイプ椅子の多さです。見たところ1,000脚は並んでいまして、これだけの人数の参加者があるのかと疑問に思っていたら、その理由はすぐにわかりました。
 
 
若草中学校の生徒がぞどんどん入って来られ、パイプ椅子にクラス順に座りだしたのです。その数からおそらく全校生徒。講演の観客のほとんどは子供達で一杯になり、これまで小生が参加した講演会とはずいぶん違った雰囲気の講演会となりました。
 
そして午後1時半になり、講演が始まりました。体育館は暗幕が引かれ、暗くなった館内の中、スポットライトが演台を照らします。紹介を受けて壇上に上がられた講師は 北村 雅昭 先生。どなたかと思いましたら、元・若草中学校の教師で、現在は多聞城研究家として活動をされているということ。
 
 
壇上に上がられた先生が最初に話されたのは「一般のこられた賓客の方にお話ししますが、本日の講演は中学生向けの内容となっておりますので、ご了承ください」でした。
北村先生は大学講師とかの方では無く、あくまでもアマチュアの研究家で、講演会は中学校の授業の一つとして開催だったのです。そして、その他の見学者はその中学校の授業を参観させてもらっているということなのでした。小生も奈良駅のポスターを見て来たので、講演がどういう意図で開催されたのか理解せずに来まして、現場で「そういうことだったのか」と、はじめて解ったのであります。
そのため講演は学術的で専門的な内容では無く、きわめて平易な言葉づかいで子供たちの興味を呼ぶような内容となっていました。このブログ記事もその雰囲気を出来るだけ伝えたいと思うので、その講演会通りに中学生も楽しめる内容にしようと思います。
 
北村氏の講演は、まずは多聞城を築城したという松永久秀という人物の人となりのことから始まりました。講演では松永久秀がどんな顔だったか、スクリーンに絵が映し出されました。おどろおどろしく恐ろしいその絵に、子供達からざわめき声が聞こえました。
 
 
歌川国芳の浮世絵、太平記英雄伝からの引用です。北川氏はこの絵は江戸時代に描かれた絵で、後の時代の書物には“稀代の悪人”として伝えられてることを語られ、この何とも恐ろしい肖像画はその悪人のイメージを絵にしていると言われました。
しかし、近年の研究によって、松永久秀は本当に稀代の悪人なのか、あらためて再評価するべきではという研究者からの意見が多く出ていると言われました。そして続いて、こんな絵もあると次のスライド画を映されました。
 
 
このイラストが出て、中学生たちはツボにはまったのか、クスクスと笑い声が聞こえました。
松永久秀はなぜ稀代の悪人と言われるのか、そして何故今、それが再評価されるようになったのか。まずは松永久秀という人物についておおまかに知っていただきたいので、辞書に書かれている松永久秀の解説を引用します。
 
1510~77(永正7~天正5)戦国時代の武将。┃下克上の代表的人物とされる。三好長慶に仕え、天文年間(1532~54)には家宰として主家を凌ぐ権勢を得る。大和の信貴山に城を築き、長慶の妻を娶って弾正忠に任ぜられ、霜台(弾正台の唐名)と称される。1559(永禄2)筒井・十市・小泉らの大和の国人と戦い、奈良北郊の眉間寺山に多聞城を築く。'60弾正少弼。長慶の勢力を奪おうとして'63長慶の嫡子義興を毒殺。長慶の弟十河一存の子義継を嗣子に擁立して権勢をふるう。長慶の死後、'65三好三人衆とはかって将軍足利義輝を京都の二条第に襲って自害させる。'67三好三人衆および筒井順慶と戦い、東大寺に放火をして大仏殿等を焼く。'68織田信長が足利義昭を奉じて入京するとこれに降る。以後信長に従って石山本願寺攻めなどに参陣したが、'77(天正5)にわかに叛いて信貴山城に帰る。同年信長の子信忠を将とする軍に攻められ、城に火を放って自刃した。
[コンサイス日本人名辞典 三省堂編修所編]
 
北村先生が講じられたのは、信長が言い放ったという有名な松永久秀が行ったという三悪事…
  1.主君を殺した
  2.将軍を殺した
  3.大仏を焼いた
 
についてでした。北村先生はこの中で、大仏を焼いたという事象について特に詳しく説明をされていました。戦国時代に大仏殿が焼け落ちた東大寺大仏殿の戦で、大仏殿を陣にしていた三好勢を攻める松永勢の兵火で大仏は焼けたと言われていますが、東大寺僧の寅清が書いた『寺辺の記』という文書に「三人衆(三好衆)が中門堂と西の回廊に火をかけ大仏殿・回廊が焼けた」という記述があることを取り上げ、松永久秀が大仏を焼いた大悪人という評判は否定的な証拠もあり決して確かではない。久秀を悪人と安易に誹るべきではないと強調をされていました。
 
そして話は多聞城についてになりました。多聞城は東大寺の西、興福寺の北、北村先生は「聖武天皇・光明皇后陵、多聞山、善称寺山という3つの山の上に築かれました。遠くからは3つの山がポンポンと並んでいる様に見えたでしょう」と説明されていました。多聞山は現在の若草中学校校舎、善称寺山は運動場となっています。
 
 
松永久秀がこの場所を居城に選んだ理由について、東大寺や興福寺を眼下に見下ろす立地であると話をされました。確かに校内からは南に興福寺五重塔、東に東大寺大仏殿の眺めがとても良いのです。
 
 
 
この時代大和国を統治していた、最大の荘園を誇っていた興福寺をはじめとする大和の寺を見下ろす多聞山だったのです。松永久秀は多聞城で寺院勢力に睨みを付けていたというわけです。
 
お城についての話となって、北村先生は「みなさん、お城と言うとどのような姿を想像しますか?」と質問され、続いて2枚のスライド画像を投影されました。下の画像は投影されたものと同じではありませんが、イメージとして貼ります。
 
 
左:長野県千曲市 荒砥城 画像引用:Wikipedia  
右:安土城天守閣(宇田妙子 画) 画像引用: 滋賀県安土 文芸の里HP 
 
日本人も外国人も日本のお城と言われて思い浮かぶのは、右の画像。天守閣に代表される屋根瓦の乗った漆喰の壁の建物に石垣でしょう。
しかし、これは近世城郭と呼ばれる様式で、ある城郭が造られる以前の城は中世城郭と呼ばれる様式でした。中世城郭とはどのようなものかと言うと、左の写真にあるような土で築いた土塁に土に直接柱を立てる掘立柱に板壁、屋根には瓦は葺かれず板がむき出しの“板葺き”だったのです。
それがある城が造られたことにより、日本の城郭は我々にはお馴染みの近世城郭へと移って行ったのです。
 
近世の城と中世の城の比較 画像引用:幻の城 多聞城
 
上の表の赤い線が引かれたその日本の城の歴史の転換と言われるのが、先に画像で紹介をした、織田信長が天正7(1579)年に完成したという滋賀県の安土城。一般的に織田信長が日本の城を実用的な砦から、政治を行うランドマークとしての壮麗な施設へと目的を変えたというのが一般的な説です。
そして、松永久秀の多聞城は永禄7(1564)年に完成したと記録されていまして、これは安土城が完成する15年も前なのです。もしも、安土城が最初の近世城郭であるとすれば、それよりもずっと年代が遡る多聞城は、板壁や板葺き屋根、土塁などの中世城郭ということになるはずです。
しかし、文献や発掘調査などから、多聞城はそのような中世城郭では無かったことが明らかになったと北村先生は話をされます。北村先生は多聞城の復元推定図を投影し、多聞城のかつての壮麗な様を紹介されます。
 
多聞城復元推定図〈イラスト・香川元太郎 理工学社『復元図譜 日本の城』〉 画像引用:幻の城 多聞城
 
北村先生が紹介したのは、ポルトガル宣教師・アルメイダが本国に報告した多聞城について書かれた書簡です。
 
家をはじめ櫓や城壁の壁は、とても白く明るく輝いていた。また、すべての家屋と城壁の屋根は、美しく快いさまざまな形をした、指二本の厚さのある黒い瓦が葺かれていた。宮殿の部屋の壁には、日本と中国の古い歴史物語が描かれ、それらの絵のまわりの空白部分はすべて金箔が貼られていた。
宮殿の多くの建物の中に、他に比べさらに精巧に作られた四プラザ半四方の一室があった。美しく心地よい木目がついた黄色の木材でできており、澄み切った鏡のように思われた。さらに、宮殿内の庭園や樹木は、最高に美しいというほかない。
世界中にこの城のように善且つ美なるものはないだろう。だからこそ、日本全国より、この城を見たいがために訪ねてくるものが多い。
[『耶蘇会士日本通信』より抜粋 文書引用・幻の城 多聞城]
 
近世城郭の特色である瓦屋根と白壁の記述があります。また、興福寺塔頭の多聞院僧・英俊が記した『多聞院日記』には「天正7(1579)年、多聞城の石垣を大和郡山市の筒井城へ運んだ」という記述があるところから、多聞城には石垣もあったと唱える研究者もいます。
そしてアルメイダの報告には樹木が美しい庭園や、金箔貼りの壁画(襖絵?)、さらには四プラザ四方の一室とは能舞台と考えられ、多聞城が戦のための砦としてだけではなく、豪華な迎賓施設であったと記録されているのです。
 
北村先生はさらに「多聞城には近世城郭のシンボル、天守閣と呼ぶべき建物がありました」と、講演を聞く子供たちを驚かせます。『多聞院日記』には「天正5(1577)年、多聞山 四階やぐらを解体し安土城へ運んだ」と書かれていると話され「多聞城には四階建ての櫓があった。天守閣という記述はありませんが、後の時代の人が見れば天守閣と呼ぶであろう建物が多聞城に建てられていたのです」と述べられました。
 
多聞城 四階やぐら(天守)復元図〈イラスト・伊藤展安 学習研究社『戦国の城』〉
 
近代の発掘調査では、これらの文献の記録を裏付けるような遺物が出土しています。本丸跡から建物の礎石が見つかり、多くの屋根瓦も発掘されました。戦後間も無い昭和22(1947)年に第一次発掘調査が行われているのです。
 
 
左:多聞城建物礎石〈多聞廃城跡発掘調査概要報告・多聞城跡検出遺構平面図〉 画像引用:幻の城 多聞城
右:多聞城跡出土瓦 平成27年秋季特別展『近世奈良の開幕・多聞城と郡山城』資料 画像引用: 奈良文化財研究所HP 
 
戦後間間も無くの調査は文化財保護法が制定される前で法令の義務は無く、ブルドーザーで地盤が崩される中、中学校の職員が工事の合間に行うというものだったそうです。
この中学建設の工事の結果多聞城の遺構はほぼ壊されてしまい、本丸などが造られていた地盤は数メートルも削られてしまいました。北村先生によると学校の西側に隣接する光明皇后陵付近が本来の多聞城の地盤の高さであり、その境にある土の壁が中学校が建設された時に掘られた跡なのだそうです。
 
 
北村先生は織田信長が多聞城入りした時、側近として柴田勝家や明智光秀も随行したことを話しをし、さらに松永久秀が多聞城で開いた茶会の記録の中に千利休の名前があり「あなた方の学校には、戦国時代そのような歴史上のスーパースターが大勢訪れていたのです」と、ロマンをかき立てる話をされていました。
 
講演が終わり、北村先生は二人の生徒代表の男女から、花束と感謝の言葉を贈られていました。
松永久秀と言えば、東大寺大仏殿を焼いた奈良の人にとっては悪の権現みたいに言われることが多いのですが、北村先生は松永久秀を郷土の英雄、優れた文化人としての面を一貫して伝えられていました。
その評価はともかく、歴史上の重要人物であったことは間違いなく、そして多聞城は戦国史においてとても重要な場所であったことは確かであり、かつてのその歴史上の重要な場所に今、自分たちの学校が建っているというのは、他の人たちは経験し得ないすごいこと。やはり奈良に住むということは、歴史の重さを身近に感じながら暮らすということなのだと改めて思いました。
 

 

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