飛鳥 壁画公開〈後編・高松塚古墳壁画〉 ─ 平成29年7月18日 ─ | タクヤNote

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今年7月18日行きました、飛鳥の彩色壁画見学巡り。前回に書いた8月2日の記事では午後から見学したキトラ古墳の壁画公開を紹介しましたが、今回は午前中に見学した高松塚古墳 壁画修理作業室のレポを記事にします。
本当は両方の壁画レポを一回の記事で上げたかったのですが、HTMLのタグの文字数がいっぱいになってしまい、やもうえず二回に記事を分けることとなりました。
 
前回の記事の冒頭に書きましたように、最初に近鉄飛鳥駅に到着したのは午前9時でした。駅を出て、県道209号線を途中で曲がらず、まっすぐ高松塚古墳に向かって歩くと、600メートルほどで高松塚古墳がある飛鳥歴史公園 高松塚地区に到着です。
 
高松塚古墳のある所は、キトラ古墳と同様に『高松塚周辺地区』として国営の飛鳥歴史公園として整備されています。ここは飛鳥歴史公園としては最も駅に近く、電車で飛鳥を訪れた旅行者にとって最初に立ち寄るポイントとなっていることもあるため、飛鳥全体を紹介する施設『国営飛鳥歴史公園館』が設営されており、中には飛鳥地区全体のジオラマが展示されています。
 
 
キトラ古墳の壁画とは、11年前、飛鳥資料館で初めて白虎が展示された時に既に見ていますが、高松塚古墳壁画を見るのが今回が生まれて初めて。古代史ファンである小生には、胸が高鳴る時間となりました。
高松塚古墳…それは古代史ファンにとって特別な響きを持つ言葉であります。
橿原考古学研究所によって行われた発掘調査によって、石室から極彩色の壁画が発見されたのは、昭和47(1972)年3月のこと。正に世紀の大発見として、日本列島に古代史ブームを巻き起こしました。
 
高松塚古墳壁画発見を伝える新聞記事
朝日新聞 昭和47(1972)年 3月27日
 
高松塚古墳 極彩色壁画が発見されたニュースが夜を騒がせた時、小生はまだ小学生でしたが、このニュースに触れた印象は今も鮮明に記憶に残っています。思えばこのニュースが、小生に古代ロマンへの魅力に火が付いた最初のきっかけだったかも知れません。
 
高松塚古墳 保存寄付金付特殊切手(1973年)
それだけの、古代史ロマンにとって特別な高松塚古墳壁画でありましたが、キトラ古墳のように石室から剥がされるようなこともなかったこともあり、一般に公開されることは無く、空調管理機器に守られて墳墓の中で保存されてきました。
「決して見ることは出来ない、古代史ファン最大の宝物」
それが高松塚古墳壁画でありました。その流れが変わったのは今世紀になってから。平成12(2001)年、壁画に大量のカビの発生が確認され、そのことが平成16(2004)年に朝日新聞が報じたことで、問題が世に広く知られることとなりました。
そして、平成17(2005)年、文化庁は高松塚古墳石室の解体修復作業という方針を決定。平成19年(2007)年には修理作業の為の建物が完成し、石室は解体されて建物の方へ移されました。そして2年後の平成21(2009)年10月に第一回の壁画一般公開が行われ、今回の公開は重ねて18回目。小生は今回初めて足を運んだのです。
 
飛鳥歴史公園の高松塚地区は、県道209号線が分断する形で北西と、南東に地下連絡スロープを挟んで分かれています。
特別史跡の高松塚古墳は南東側の一番端。かつては墳丘に竹藪が茂る、それぞれ石室につながる前室と空調装置のある機械室の入口となっている上下に二つのドアがシンボルでした。小生にとって高松塚古墳と言えば、この風景というイメージでした。
 
石室解体前の高松塚古墳(画像引用:高松塚古墳壁画館パンフレット)
 
しかし、久しぶりに訪れた高松塚古墳の様子はかなり変貌していました。その変貌ぶりに「本当にここは高松塚古墳か?」と、戸惑ったくらいでした。
 
 
2007年からの石室解体搬出と発掘調査によって、墳丘を覆っていた竹林はすっかり取り払われて、石室を守っていた空調装置も撤去されてドアも無くなり、築造当時の二段墳丘が再現されて芝生が植えられてキトラ古墳と同じになっていたのです。
築造1300年となる高松塚古墳ですが、小生には壁画が発見されて45年の間の変化に驚かされることとなりました。
 
そして、壁画の見学へ。高松塚古墳そのものがあるのは公園の東南の南端。しかし、見学の受付は県道208号線を挟んだ北西側にテントが立てられて設営されていました。
 
 
ここで、パソコンプリンターでプリントした参加証を渡すと、ひもの付いた札をいただけます。…つまり、キトラ古墳とまったく同じでありまして、場所は違えど結局同じ文化庁の事務で行われているのを、こういうあたりに見ることが出来た気がします。
しかし、キトラ古墳とは明らかに違ったのは見学者の人数。
受付が終わると、見学希望者が案内されるのは受付テントが立てられている後ろの建物、セミナールームで、本来は飛鳥に関する講演など行われる小さな集会室のような施設。
セミナールームで何をするのかと思ってましたが、ただ集められて椅子に座ってるという感じ。後ろに高松塚古墳壁画の画像がタッチスクリーンで表示される大型モニターなどもありましたが、結局ここは前のグループが壁画を見学している間、その次のグループが待つための前室のような場所のようでした。
小生がセミナールームに入った時の参加者は20人を優に超えていたのです。時間が違うこともありますから一概に比較はできないかも知れませんが、キトラ古墳の時に一緒に待った参加者が3人で、やはり高松塚古墳の人気は絶対的とこの時にも実感をしました。
結局我々のグループはこのセミナールームで15分ほど待ち、呼ばれた時には午前10時前になっていました。我々のグループはセミナールームから外に案内をされたのです。
「どこに連れていかれるのだろう」と分からないまま列を作って歩くこと約100メートル。
 
 
飛鳥地区全体を紹介する国営飛鳥歴史公園館の横をすり抜けると、その先に蓮池に接する建物が見えました。それが現在、高松塚古墳壁画を収蔵し、修理作業が行っている『高松塚古墳壁画 修理作業室』なのです。
その建物を前に「高松塚古墳壁画は、今こんな所にあるんだ」と、感慨深くなりました。
 
 
本来は壁画の修理作業をする目的の建物ということで、見学は南西側の正面からでは無く、裏側になる北東側の見学者用の入口から見学用通路に入ります。入り口前には荷物の預かり所としてテントが立てられ、ここで大きな荷物などは預けることになります。カメラバッグなどを持っていた小生はここで荷物を預けて身を軽くして、いよいよ壁画と対面です。
 
 
案内されたドアを入ると、中は幅2メートル弱、長さ10メートル強くらいの廊下。そしてその廊下の片側が3面の大きなガラス窓となっており、そしてその窓の向こう側には壁画修理作業室となっていました。いよいよ、長年の夢、高松塚古墳壁画が目の前に現れます。(撮影禁止なので、文章などで解説します)
 
修理作業室は120畳くらいの広さでしょうか。一見した印象は「手術室のようだ」でした。二重壁構造で外気と完全に遮断された室内は、まるでクリーン・ルームのような清潔な感じで、そしてその中には、部屋いっぱいに分解された石室が。
高松塚古墳の石室は17個の切り石を組み合わせて造られていて、作業室では17個の石材がぞれぞれ別々に置かれていました。
 
画像引用:高松塚古墳壁画 修理作業室公開 冊子より
 
もちろん写真撮影は禁止。まずは、今回戴いた冊子に載っていた写真をここに貼ってみます。
 
画像引用:高松塚古墳壁画 修理作業室公開 冊子より
 
しかし、実際の作業室と冊子の写真と見比べて「あれ? 違う」と思いました。この写真はちょっと前の写真だったのではと思い、家に帰ってからネットで調べたところ日経新聞の記事を見つけたので、そちらに掲載されていた写真をUPしてみます。これが小生が見た修理室の姿です。
 
 
冊子の写真は壁画の石材はアルミ合金製の台の上に乗せられていますが、小生が実際に見た石材は、さらにアルミ合金のフレームに周囲を囲われ、クランプ金具でがっちりと固定されていたのです。
冊子が作られてから、さらに石材の保護方法が変えられているということで、壁画の保存や修復は常にリアルタイムで工夫がなされているのを肌で感じることが出来ました。
 
そして、壁画であります。飛鳥美人の名で知られる西壁女子群像が部屋の右の端に置かれているということで、見学者の多くは3つの窓でも一番右に集まってました。
その壁画ですが、人物の身長は35センチメートルほどと決して大きな物ではありません。その壁画を広い部屋に置かれている物を離れた場所から見るということになります。
しかも、壁画が置かれている床面は、見学者の立つ床と同じ高さ。見学者は壁画を水平方向から見なくてはいけないということになります。
CGで再現すると、正面から見た女子群像はこんな感じでしたが…
 
 
小生の見た、作業台の上に置かれている女子群像の見え方は、本当にこんな感じでした。
 
 
現地ではオペラグラスの貸し出しもあって、見学者にとても配慮がありましたが、それでも距離も離れている上に水平に置かれていて、決して壁画が見良いとはいえない状況でありました。
実際、受付横に立てかけられた看板にも、次のような挨拶文が書かれていたくらいです。
 
 
だからと言って、博物館での展示のようによく見えなかったことへの不満はまったく無かったというのが率直な感想であります。
何しろ、今回の特別公開はあくまでも『高松塚古墳壁画公開』では無く『高松塚古墳壁画 修理作業室公開』でありますから。壁画はまだ修理作業の途中であり、決して展示が満足に出来る状況では無い。それをあえて修理中の状態で公開している訳ですから、博物館の展示と同じというわけにいかないのは、ごもっとなことなのです。
それに、ことさらに現物で無くても、高松塚古墳壁画とはどのような物なのかなど、古代史ファンなら十分に知っている。
どうしても、キトラ古墳の壁画公開と比較してしまうのですが、高松塚古墳の壁画は四神(朱雀は失われましたが…)に人物像、さらに日像・月像・天井の天文図と、すべてを一度に見学することが出来た。たとえ距離が離れていて、水平方向からの見難い状況であるにしても、ファンにとっては「高松塚古墳壁画のすべてを、本物を生の目で見れた」ということに価値がある…という感想を持ちました。
 
高松塚古墳 壁画修理作業室(画像引用:高松塚古墳壁画館パンフレット)
 
見学時間はきっかり10分。見学時間終了を知らせるアラームが鳴り、古代史ファンにとっての夢の時間は、あっという間に終わったのでした。
 
高松塚古墳壁画の本物と接するという貴重な時間を過ごしたその後は、何しろキトラ古墳の壁画公開の参加申し込み時間は午後4時20分、時間はたっぷりあったということで、高松塚古墳に隣接する『高松塚壁画館』にも行ってみました。
 
 
高松塚壁画館は、公開することが出来ない高松塚古墳壁画のことを体感するために造られた展示館。高松塚古墳の極彩色壁画の発見から4年後の昭和51(1976)年10月のオープンで、キトラ古墳四神の館がオープンした昨年がちょうど開館40年となる、飛鳥では老舗となる展示施設であります。
その展示内容は日本画の専門家によって、高松塚古墳壁画を本物と同じ絵の具を用いて本物そっくりに模写した物。汚れや損傷まですべて忠実に再現し、限りなく本物に近い壁画のイメージを写し取っている摸写画なのです。
本物そのまま再現した絵。赤外線調査などによって、欠損した部分を補った絵。そして本物と同じ花崗岩の石の上に、漆喰を塗り描いた女子群像。そのほか復元石室や、副葬品のレプリカなどが展示されていました。
 
高松塚壁画館 平面図 (画像引用:高松塚古墳壁画館パンフレット)
 
 
高松塚壁画館 館内
画像引用:明日香村観光ポータルサイト 旅する明日香ネット http://asukamura.com/?page_id=35
 
小生が前にここを訪れたのはいつのことでしょうか。高松塚古墳地区を訪れることはあっても、高松塚壁画館に入るのはもしかしたら開館間もない頃、小生が中学生くらいの時まで遡るかも知れません。しかし、その時の記憶は鮮明に残ってまして、展示内容が昔そのままで変わっていないのに驚きを覚えたのであります。
そして、展示施設としてとても優れていると、今回見学して改めて実感した次第であります。
 
こういう壁画の展示施設で見学者として何を望むか。結局は見学者はあくまでも「本物を見たい」というのが望みであり、どうしても本物が見れないのであれば、出来る限り本物を見たのと同じ感想を持てる展示を望むということになるわけです。
40年も前に開館し、ほぼ展示内容が開館から変更の無い高松塚壁画館の展示はローテクそのもの。キトラ古墳の四神の館のような高画質ハイビジョン映像のような最新テクノロジーがあるわけではありません。
しかし、見学者が展示館に希望するのは、あくまでも本物。そう思った時本物と同じ岩絵の具で本物と同じように人の手で描いた壁画館の複写画に比べると、どれだけハイテクを使って、どれだけ細密に映像を映し出しても、モニター画面を通しての展示となっているキトラ古墳 四神の館には“本物を見た”という感覚とは、どうしても程遠いものとなってしまうのです。
 
キトラ古墳の展示館も合わせて見学するという経験を経て、高松塚壁画館の価値を再発見したような気がしました。
 
高松塚壁画館 館内(現状複写画)
画像引用:明日香村観光ポータルサイト 旅する明日香ネット http://asukamura.com/?page_id=35
 
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