東大寺修二会 十二夜行法(走り・香水汲み上げ・達陀) | タクヤNote

タクヤNote

元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

 

ここまで3月13日の記事『プロローグ』3月20日の記事『籠松明』4月1日の記事『初夜・神名帳・過去帳』と、平成24年3月12日の東大寺二月堂修二会お水取りの模様を紹介して来ましたが、4回目のこの記事が最後となります。
午後11時半ごろ、過去帳読み上げがようやく終わり、そして休憩も無く次の六時の行法『半夜の行法』が始まります。これは初夜の行法と同じ悔過の行法の一つですが、初夜の行法よりもかなり時間は短くなっています。
この行法中に午前0時を迎え、日付は3月13日となります。ずっと堂内で行法を見ていた小生でしたが、ここで堂外へ。トイレに行き休憩を取ることにしました。この時に本領を発揮するのが、二月堂の北側に建てられた北の茶所と北の参籠所です。

北の茶所は二月堂の休憩所として、二月堂参拝者の憩いの場となっている場所。普段からでも利用する人は少なくは無いのですが、この夜の賑わいは特別なものがありました。この夜は“お水取りうどん”“お水取り寿司”が売り出され、まるで人気の食堂のように賑わいになっていたのです。
明治2年に製造され、今も現役で使われている名物の釜が点されて、忙しそうにお湯が沸かされていました。

 

 

 

 

 

 


そして、北の茶屋の裏、二月堂エリアの一番北となるのが、北の参籠所です。覆廊の下の重要文化財の参籠所が練行衆の宿所であるのに対して、ここは参拝に来た信者や講の人たちに解放される施設であります。
普段はほとんど参拝客も訪れない本当に静かな場所なのですが、この夜は講の提灯が並び、修二会を裏から支える人たちの屯所として、一晩中、人が出入りしてるのです。
いずれも、修二会以外の期間とはまったくその雰囲気が違っていて、それは二月堂が眠っている姿であり、この夜が目を覚ました本当に二月堂の姿なのだと思いました。

 

 

 

 

 


トイレはこの北の参籠所の一角にあり、トイレを済ませて二月堂に戻りました。
そして、午前0時15分ごろに半夜の行法が終わりました。ここから始まるのが『走り』です。須弥壇の周りを走って回向(ぐるぐると回る)するという行です。天上界の一昼夜は娑婆の400年となり、天上界の時間に少しでも追い付こうと走って読経するというもので、修二会の中でも難行とされます。何しろ、練行衆が履いているのは差懸(さしがけ)と呼ばれる下駄で、それで全力で走られるのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 


差懸[近年] 奈良国立博物館 特別陳列『お水取り』<平成21年>図録より

 


最初はゆっくりと回っておられたのですが、徐々にペースアップしてやがて全力疾走となって行きます。堅い下駄で板の間の上を全力で走るのですから、これまでとうって変わったガタガタと騒々しい音が堂内どころか堂の外まで響き渡ることとなります。

小生はこの走りが行われたころに、それまで行法を見させていただいていた東側の外陣から、礼堂の方に移動をしました。走りが終わると、その直後から六時の行法である後夜が始まりますが、すぐに香水配りが行われると聞いていたので、香水をいただこうとこちらに場所を移したのです。
香水とは二月堂下の若狭井から汲まれた水のことで、修二会と若狭の神とのことは、先の記事の神名帳のくだりで少し説明させていただいております。
二月堂下の若狭井から香水を汲み上げるのはこの後なので、香水配りが香水組み上げの前と聞いた時には、正直「あれ?」と思いましたが、ここで配られるのは去年の香水ということらしいです。

二月堂の正面である内陣の西側の広い間が礼堂で、練行衆の姿は見えないものの、そこにはすでに多くの参拝者で足の踏み場も無いほどとなっていました。事前に「絶対踏んではならない」と注意を受けていた五体投地板を踏まないように気を付けて、礼堂の南側へ。礼堂の中央には練行衆では無い東大寺僧の長老とおもわしき方も入堂されていて、修二会でたった1回しか行われない香水汲みがもうすぐ始まるという特別な雰囲気がそのような形で表れていました。
小生は香水をいただきやすい場所に行きたかったのですが、何しろ参拝者の数が多くて礼堂のかなり隅の方に行くしかありませんでした。
香水配りは礼堂に集まった参拝者および、格子を通して局に集った参拝者にも配られ、局の参拝者は格子の隙間から手を伸ばして香水を求めます。しかし、礼堂にいながらも隅にやっと身を置いていた小生は、残念ながら小生は香水をいただくことは叶いませんでした。

 

 

 

 

 

 

香水配り  奈良国立博物館 特別陳列『お水取り』<平成27年>図録より

 


この香水配りが終わったのは午前1時半。いよいよ14日間の修二会本行で一度しか行われない、香水汲み上げが行われます。これは若狭の神遠敷明神が若狭の水を二月堂まで引き入れたという、二月堂下の若狭井の覆屋として建てられた閼伽井屋から、霊験を持つ香水を汲み上げるという儀式。練行衆は香水汲み上げのためにお堂が出られるのです。
閼伽井屋(あかいや)は切妻造の小屋のような小さな建物ですが、お水取りでは最重要建築とも言ってよい意味を持ちます。そのために鎌倉時代に建てられた閼伽井屋は大切にされて、国の重要文化財にも指定されているのです。

 

 

 

 

 


小生も香水汲み上げを行う練行衆を追って、二月堂を出て閼伽井屋の前まで出て写真を撮ろうとしたのですが、何しろこの行法中はライトが落される上に、貴重な瞬間を一目見ようとする見学者やカメラマンが押し掛けていていて、当時の小生の撮影の腕前とカメラの性能では、とてもまともな撮影が出来ませんでした。

 

 

 

 

 

 


そこで、今年3月13日の深夜、新しいニコンのカメラを手に入れたこともあったので、3年前のリベンジという想いで、この香水汲みのみを写真に撮る目的で再び二月堂を訪れたのです。

以後このブログでの香水汲みの様子は、3年前では無く今年の様子を写真と合わせて紹介して行きます。

 

 

******************************

 

 

 

 

 

今年の3月13日に3年ぶりに深夜の二月堂に行きました。今年は二月堂内での修二会の行法の見学では無く、閼伽井屋の前で行われる香水汲みのみを集中して写真に撮るのが目的。そのために、夜中に大阪から奈良に着いた小生は、二月堂へと直行しました。
小生が二月堂下の閼伽井屋の前に到着したのは午前0時30分。深夜の香水汲みが始まる1時間も前でありましたが、すでに大勢の見学者やカメラマンでごったがえしていたのに驚きました。

 

 

 


修二会の行法の中でも、撮影許可が無くても撮影が出来るとあって、一年に一回のこのタイミングを多くのカメラマンが狙っていたのです。
そんな中、約一時間ほど待つこととなりましたが、この日は千葉県から来られたという女性と待つ時間話して時間をつぶすこととなりました。その女性は局での見学許可の徽章リボンを持たれていて、堂内での行法も見られていたというお話。自分が3年前に堂内で見学をしたことや、このブログのブロガーであることなどをお話しました。

走りの下駄の音が下まで響いてくる中、石段に明かりとなるかがり火が灯され、準備が進められます。

 

 

 

 

 


そして、午前1時30分、二月堂周辺の照明が一斉に消されて、周囲は夜闇に覆われます。いよいよ香水汲み、いわゆる『お水取り』が始まります。

 

 

 

 

 


ここからの撮影は、愛機であるニコンD7000の感度設定の最高であるISO6400での撮影となります。正直ノイズの不安がいっぱいではありますが、照明の消されたこの状況での撮影では限界までの高感度が必要。新しい愛機の性能を信じて、最高感度での撮影を挑むことにしました。
階段を降りてきたのは「水取り衆」と呼ばれる一団です。

 

 

 

 

 

 

 

 


先頭は『呪師松明』と呼ばれる割竹を組んで作った松明で、蓮根と形が似ていることから『蓮松明』とも呼ばれることも。紡錘形で、太さ30センチ超、長さ2メートルにも及ぶ大きなもの。抱えて降りるのは呪師童子で、その後ろに続いて頭巾のような『呪師帽』をかぶっているのが、練行衆四職の一人である呪師。香水汲みはこの呪師を主役として進行されます。
呪師の後ろには練行衆の平衆の内の、北衆之二以下5名。さらに堂童子、駈士、庄駈士らが追随します。

 

 

 

 

 


この香水汲みの儀式が始まると、石段の南側のテントの中で待機していた楽団が雅楽の演奏を始めます。
そして閼伽井屋へ向かう途中で、呪師とお付きの5人の練行衆は石段を外れて、二月堂下の芝生の中に入ります。二月堂正面に立つ良弁杉の足元に建てられた興成社で祈りを捧げるためです。

 

 

 

 

 


興成社での祈りを済ませると呪師は再び石段に戻られ、そして若狭井のある閼伽井屋へと向かいます。いよいよ練行衆が閼伽井屋の中へ、香水汲み上げ(お水取り)が始まります。

 

 

 

 

 


閼伽井屋の中に入るのは呪師と追随の童子だけ。練行衆を含む、他の誰も閼伽井屋の中に入り若狭井に近づくことも出来ません。また、閼伽井屋の中に松明や燈明を持ち込むことは出来ず、真闇の中で香水汲みは行われるので、その所作は誰一人として“見る”ことは出来ないのです。
その間、付き従う平衆5人の練行衆や堂童子らは、閼伽井屋の前で待つことになります。

 

 

 

 

 


呪師が若狭井から汲みとった香水は、閼伽桶に入られ白布が被せられます。そして担台という天秤棒で、二人の庄駈士が担いで石段を二月堂へと登って行きます。
先頭は講社の人が赤い狩衣姿で、御幣と
楚(すわえ・供物の小枝こと)を持って先導します。そして白い自丁姿の人が護衛として担台を担いだ庄駈士に付きます。
担台に榊飾りが付けられるのは、神事であることを意味していて、修二会では「神と仏が交感する」などと言われる一場面です。

 

 

 

 

 


香水が石段を登りきったころを見計らって、閼伽井屋にいた練行衆たちが法螺貝を鳴らして合図をします。四職の和上と大導師は二月堂の内陣で待機をし、小綱役の人を介して十一面観音に供えられます。
香水汲み上げではこの作法が、三往復行われます。一回の汲み上げで閼伽桶が二本積まれた担台を二人担ぎ上げますので合計四本、それが三往復しますので、合計12本…つまり一荷汲み上げられます。
この夜は大桶に移されて内陣に置かれ、翌日に鋳銅製の香水壺に入れられて須弥壇下に供えられます。
香水壺には前年以前の香水も蓄えられているので、奈良時代より千三百年、薄まりながらも受け継がれているとされているのです。

 

 

 

 

 


そして、三回目の香水汲みが終わると、担台を担いだ庄駈士の後を呪師童子がまた呪師松明を抱えて続き、そして呪師の練行衆も二月堂へと戻って行くのです。こうして午前2時半、約1時間半の香水汲み上げが終了しました。

 

 

 

 

 


雅楽が演奏される中で行われた、香水汲み上げ。時代が平安まで遡ったような行事だと評する人もいますが、小生には時代を遡るというよりも、人の領域以外の世界を見たような印象でした。
しめ縄で結界が張られて、その先にあるのは仏や神の領域の世界。小生の目は、人の領域を飛び越えて特別なものを見たという感想を残したのです。
こうして、再び照明が点灯された二月堂下で、小生はここで知り合った千葉の女性とあいさつを。彼女は局に戻られて、小生は電車の駅へ向かい、始発を待つこととなりました。

 

 

 

******************************


以上が今年の香水汲み上げ(お水取り)の様子でした。3年前もまったく同じでしたが、今年はこれに集中をして見に行ったので、落ち着いて見れたように思います。

さて、また3年前の修二会の話に戻ります。今年は最後まで見た香水汲み上げでしたが、3年前は次の行法も見たいと思い、途中で二月堂へ戻りました。二月堂では外陣から正面の礼堂に場所を定め、そこで最後までいることとしました。
香水汲み上げが終わると、途中までだった六時の行法である後夜の行法が続けられます。礼堂側の内陣は格子になっていないので、行法を直接見ることは出来ず、板の間に座り、ただ声明を耳で聞くこととなります。
初めての堂内での修二会行法を見て知ったのは、修二会は見て楽しむというものでは無いということです。長い時間、二月堂で行法に立ち会っている内に、修二会というものが暗い堂内では視覚だけで得るものは決して多くは無いということ、目と耳の両方が同等に感覚が鋭くすると、普段とは違う意識が生まれて、見たり聞いたりするというよりも、感じるもの、体感するものであると知ったような気がします。

そうして、大勢の参拝者が集まりながらも練行衆の声明以外の声はまったくしない二月堂の堂内。午後3時をすぎたあたりで、声明や鳴り物が急にリズミカルなものに変わったのです。小刻みなリズム、ピー・ピー・ピーと3拍で笛が鳴り、練行衆の足音もそれに合わせてリズミカルなものに変わったのです。
それを聞いて、いよいよ十二夜の行法のクライマックス『達陀』(だったん)が始まったのだとわかりました。始めは興味を持って見るという気持ちだった小生でしたが、このころには「行に参加している」という敬虔な気持ちになっていたように思います。
礼堂から内陣は、戸帳という布で隠されて、燈明の灯りに照らされて練行衆の影が映るのを見るしか、その姿を確かめることは出来ません。しかし、その光と影の行法には得も言われぬ幻想的な雰囲気があふれていました。
そして、堂童子が戸帳の布をねじり回して、礼堂から内陣の荘厳が垣間見えます。これを『戸帳巻き上げ』と言いまして、修二会の見どころの一つとされます。

 

 

 

 

 

 

 

戸帳巻き上げ  奈良国立博物館 特別陳列『お水取り』<平成27年>図録より

 


戸帳が巻き上げられると、内陣中央からいきなり何かを礼堂の中央にバシャッと撒かれてびっくりさせられます。撒かれたのは芥子役という練行衆が撒いたハゼの実です。
そして、いよいよ火天という役の練行衆が重さ40kgはあるという大きな松明を持って登場します。ここでは松明を持つというよりも、床を引きずってくるという感じ。もちろん床板は木で、見ていて普通に「燃えるだろう」と驚かざるを得ない様子となります。

 

 

 

 

 

 

 

達陀・松明加持  奈良国立博物館 特別陳列『お水取り』<平成21年>図録より

 


しばらく内陣の中にいた火天役の練行衆は、やがて礼堂へと出てきます。もちろん赤々と燃え上がる松明を床に引き摺ったままです。
そして火天の役はこの松明を揺すり、礼堂の床に火の粉をまき散らすのです。その床一面に散らばった火の粉に、水天の役である練行衆が灌水器で水を掛け、そして堂童子がすばやく火の粉を片付けるのです。礼堂の床の一部が開くようになっていて、床下の火壺に火の粉を片付けることが出来るような仕掛けがあるのです。しかし、わずかでも火が残っていれば、国宝のお堂が火災となる恐れがあります。火の粉は礼堂だけではなく、内陣の小観音厨子の置かれた須弥壇まで飛んでゆくのも見えて、火の始末を確実に行わなければならない緊張感が見ている我々にも伝わって来ました。

このような豪胆な火と水の行法である達陀は1時間弱で終了。時計を見ると午前3時半となっていました。おやっと思ったのは、達陀の終わりと共にまわりの参拝者が一斉に立ち上がり、ぞろぞろと外に出だしたのです。日程表によると、このあと六時の行法の最後、晨朝があるはずなのですが、参拝者は達陀を見終えると満足されて、その多くが帰宅されるのです。
小生もここで二月堂を後にして、始発電車が出るのを待って帰宅となりました。

mixiで東大寺にずっと関わってきた小生にとって、この夜は本当に特別の時となりました。これは正に一生の経験として記憶に残り、これからも語って行くことになるだろうと思います。

 

 

 

 

 


アクセスカウンター
コーヒーメーカー通販ホームベーカリー通販デジタルブック