昼食会の帰りは、エメラルドヒルを通り抜けてニュートンへ。
戦前ババたちの住んでいた家が今でも残っているエリアです。
若かった頃、ここの入り口にあるPeranakan Placeでお茶を
するのが大好きでした。ナシルマも売ってた記憶がある。
日曜日の夕方だからか、人影が見あたりません。
左奥の白い建物は、元々はChinese Girls Schoolでしたが、
つい数年前までChatsworthというインターがありました。
門がある三階建ての家。きれいにリノベーションしてますね。
両脇は門に中国風の屋根がありますが、真ん中の家は英国風。
三軒まとめてGoh Kee Hoonという人が建てたんだそうです。
1905年ですから、明治時代の終わりかな。
上から見ると、真ん中の家(41番)だけ裏庭まで建物が続き、
左右の家とつながっている。ああ、中に入ってみたい(笑)。
私の大好きなスキ間を埋める家がここにもある!
角地ではないけれど。いろいろと変遷があったようですね。
奥に引っ込んでいるのは、前庭を作りたかったからかしら?
なぜなら。向いの家たちのDrivewayってとても長いのです。
Emerald Hill Road をどんつきまで進み、左折してから
向かったのは、Cainhill Road。
この本の表紙の場所(Cairnhill Rd)に来てみたかったのです。
慰安所について書かれた、昨年NUSから出版された本です。
慰安所@Cairnhill Rdについては、建国の父リークアンユーや、Singapore Chinese Girls School の元校長がすでに90年代に
証言したのですが。2013年8月に韓国で出版された「日本軍
慰安所管理人の日記」が現在では重要な資料とされています。
朴という韓国人が慰安所@Cairnhillの日々を記したものです。
ここからScots Rdとの交差点までが日本軍によってブロック
され、慰安所や料亭が並んでいたエリアだったそうなので、
この通りに沿って歩いてみることとしました。
左端のつけたし部分には日本料理屋さんがありました。
私の好きな道なりにサイズの変わっていく家。
ということは。元々の道は曲がっていたということになる。
88番の家。菊水倶楽部があり、朴さんが寝起きをしてた家。
とても可愛らしい家ですが、これらの家々に慰安婦がいたと
思うと、ハウスウォッチングをする気にはなれませんでした。
この家には、日本国の副領事が住んでいたこともあります。
古い地図を見ると、大きなバンガローが並んでいるので
それなりの格式があった住宅地なのだったのだと思います。
なお。Cairnhill Rdで右折せず、直進すればオーチャード。
高島屋横からCTEへ行く道が、この道とぶつかるあたりに
豪邸があって、私はそれを見るのが好きでした。
Tan Ching Tuangマンション。中国から戻ってこれなかった
Tan Kah Keeから、OCBCの頭取が購入したんだそうです。
今はコンドミニアムの敷地内にあり、恐らくクラブハウスと
なっているのでしょうね。
こちらは建築中のコンドミニアムのクラブハウス完成予定図。
現在よりも美しく生まれ変わるので、よいのかもしれませんが。
Cairnhill Rd沿いには、まだ数軒のバンガローが残っています。同じような運命を辿ることになるんだろうなあ。