家事は仕事じゃないと言われると反感を持つ人と、家事を仕事と呼ぶことに違和感を感じる人がいると思う。
おおむね前者は女性、後者は男性が多いだろう。
既婚者を例として考える。
夫よりも先に起きて朝食を作り、夫が夕食を済ませてから後片付けに取り掛かる。
赤ん坊がいるなら、寝ている間でさえ子供が夜泣きすれば起きて乳を飲ませなければならない。そんなある専業主婦としては、24時間拘束そして無報酬のブラック企業に自分の生活を重ねてしまうのも仕方のないことだろう。
一般的なサラリーマンの夫側はどうか?
赤ん坊を抱えた専業主婦よりはいくらかマシなのかも知れないが、年下の取引先に頭を下げて回り、毎年いくらかでも昇給したり昇進することで家族の生活を楽にしたいと望んでいれば、同僚よりも多く働き、サービス残業や休日出勤で上司たちの評価を少しでも上げたいとその身をすり減らしていることだろう。
彼らからすれば、重労働とは言え、愛する家族のための家事はいわゆる「仕事」とは思えないだろう。
総じて言えば、どちらの見解も決して間違いではなく、どちらも正しい。
ゆえに互いがぶつかれば議論は平行線を辿ってしまう。
さて、僕は「そもそも」というワードが好きだ。
つい何かに必死になったり夢中になったりしている時に、「そもそも」何のためにそれを始めたのか?
できるだけこまめに、自分に「そもそも」を問いかけるようにしている。
そもそも何のために家事をしているのか。
自分や家族の衣食住を保つためだ。
そもそも何のために仕事をしているのか。
これも自分や家族の衣食住を保つためだ。
では、既婚者ではなく旅行好きの独身のフリーターならどうだろう?
茶碗を使ってごはんを食べ、もし明日も同じようにごはんを食べるなら、茶碗は洗うしかない。
風呂に入るとき、明日もキレイなパンツを履きたいなら、汚れたパンツは洗うしかない。
垢の浮いたバスタブに浸かりたくないなら、風呂も洗うしかない。
これは果たして労働と呼べるのだろうか。
家賃を払い、食費を確保し、ときどき一人で旅行に行ける程度にはアルバイトのシフトに入る。
社会から見て、これを仕事と呼べるのだろうか?
断言してしまえば、それは仕事でなく、単なる生活だ。
原始人が山に木の実を拾いに行くこと、住処にしている洞穴の中から害虫を追い出すこと。
現代人が用を足した後にお尻を拭くこと、伸びた爪を切ること。たまったゴミをステーションに持っていくこと。
それらは決して労働ではなく、単なる生活に過ぎない。
どこからが「労働」や「仕事」で、どこからが「生活」なのかと考えると、どうやら自分以外の誰かのために「生活」に必要ななにかを提供し始めると、人はそれを「労働」だと感じてしまうようだ。
家族のため。
会社のため。
社会のため…。
そのフラストレーションが溜まると、人は一様に、「オレすげーつらい」「アタシマジもう無理」と、自分の苦労を人に話したくなり、自分の苦労の対価を計算したくなる。
とは言え、そもそも、根源にあるのは、一人一人の「生活」であり、それは問題をどれだけ拡張していったところで変わりはない。
僕は提案したい。
会社勤めや家事や育児を、「仕事」と呼ぶことをやめませんか?と。
自分たちの衣食住を保つための単なる生活に、「仕事」だとか「労働」だとかの重苦しい名前をつけることで、わざわざ、みんな楽しいはずの人生に鋼鉄でできた足枷や鉄格子を作り上げていると思う。
朝5時に起きて夫の弁当を作ることも、毎日2時間満員電車の中で押しつぶされることも、爪を切ったり、お尻を拭くことと同じ、単なる生活のひとコマだと思えば、それほど苦にはならないと思う。…んですけどみなさんはどうですか?
「仕事」じゃなければ、派遣の家政婦さんほど完璧に家事をこなす必要もないし、旅行好きのフリーターと同じように昇給や出世と無縁にぼちぼち働くこともできる。
本来は、社会や家族から要求される仕事量をこなす必要もないし、ときどきは汚れたパンツをもう一度履いてもいいと思う。
「真面目」
「仕事熱心」
「子煩悩」
「愛妻家」
みんな、後付けで作られた言葉に支配され過ぎなんじゃないかなー。