【交通事故、そして絶望の淵から】
業務中の交通事故と、再び突き落とされた現実前回は、救急搬送された私が、Uber Eatsでスマホの充電器を確保したところまでお話ししました。今回はその続きを、そして私の過去とこれからについてお話ししたいと思います。仕事中の事故、そしてそのまま緊急入院2025年7月某日。私はA社での配達業務中に交通事故に遭い、そのまま救急搬送されました。着替えも持たず、雨に濡れた仕事着のまま病院のベッドへ。スマホの充電器だけは何とか確保したものの、頭に浮かぶのは山積した現実の問題。中でも気がかりだったのが、掛け持ちしていたB社への連絡です。B社には副業していることを伝えていなかったため、事故の報告も慎重にならざるを得ませんでした。「休み中に交通事故で緊急入院しました。まだ診断は確定していませんが、わかり次第ご連絡します」これが、精一杯でした。私はかつて9年間生活保護を受給していた経験者です改めて、自分の置かれている立場をお話しします。私は精神障害者保健福祉手帳2級を持ち、生活保護を、2012年から2021年まで9年間受給していました。現在は、障害厚生年金2級とパートをしており頼れる親族も、友人もいません。それは、自ら縁を断った結果でもあります。「知り合いに頼れなかったの?」と聞かれることもあります。でも、あの頃の私は“死ぬ覚悟”で生活保護を申請しました。落ちぶれた姿を見せて、惨めな思いをしたくなかった。それが本音です。生活保護のリアル ~ネット情報とのギャップ~ネットでは「生活保護は勝ち組」「働いたら負け」などと語るインフルエンサーもいます。ホリエモンやひろゆきの発言などがその典型です。でも、現実の生活保護はそんなに甘いものじゃない。彼らは現場の苦しみを知らず、“安全地帯”から好き勝手に語っているに過ぎません。実態を知らない人間が発信する「上っ面だけの情報」。それがどれだけ誤解と偏見を広げているか、当事者でなければ分からないでしょう。カップ麺から始まる再出発とネットカフェ生活受給当初、家賃50,000円(8,000円は手出し)に住み、家具はニトリで最低限揃え、食事はカップ麺からのスタートでした。電子レンジすらない。光熱費を払えば、食費はあっという間に底を尽く。わずかなお金を貯めて中古のiPod touchを手に入れるまでは、近所のネットカフェが情報収集の場でした。決して美味しくない無料の昼食で空腹をしのぎ、必要な情報をネットから探し出す日々。それでも、腐らずに生き抜こうとしました。民生委員とのバトルと「西成」への引越し生活保護受給には、民生委員との接触が避けられません。その中で出会ったのが、まるで“上から目線の女帝”。元教師を名乗るその委員は、私のプライバシーに土足で踏み込み、学歴マウントを取りながら、私は凄い。従兄弟は、東大の研究員等。アホな振りして聞き流してましたが、何故生活保護になったのか、まるで刑務所から出所した前科者のような取り調べに。話してくる雰囲気から察するに、下世話な話題欲しさに取材するタブロイド誌ようなネタを探しを暇つぶしに、権威をチラつかせ、受給者をいびって民生委員をやってる感100%を醸し出してきたので、もうその下りに辟易。お腹一杯。流石にムッとした私は、こっそり録音を開始し、冷静に切り返しました。「それは貴女じゃなく、貴女の従兄弟の話ですよね?」と核心をついた返し。すると逆上した民生委員は「保護を取り消すぞ!」と脅してきました。「区役所から挨拶に行くよう言われて来ただけ。 何がしたいのか。理解に苦しむ。」と冷静に対応。この一連の対話、発言はすべて録音済み。もう帰れ。と言われ帰路についた。翌日、市会議員の先生に先述した経験と、録音データを聞いて西成区役所に持ち込み、問題となり、民生委員は否認。証拠の音声データによって、聴取が始まり他の受給者も同様の被害かある事が発覚。結果、この民生委員は解任(クビ)されました。---なぜ西成に住んだのか〜“当たり外れ”の選別と葛藤の果てに〜私が最初に保護されたのは、大阪市中央区でした。たまたま支援依頼を受けた役所のOBが、天下り先のNPOの方でとても親切に対応してくれた。まず、腹減ってないか。昼飯食って一緒に考えよう!元気だしやと、近くの定食屋で、お昼ご飯をご馳走してくれた。どれくらいの残金があるか?犯罪歴がないか?資格持ってるか?等、簡単な質問をまとめて、中央区役所の福祉課へ連れていかれ、NPOの方が概要説明し、役所方がすぐに手配。西成区の救護施設へ行くよう、地下鉄の切符代を貰い、引き継ぎ対応を受けたNPOの方にお礼し、頑張るんやぞ!と励まされ、一時的に保護されたのは、西成区にある救護施設「三徳寮」──。ここから先の“進路”は、役所の面談と審査によって3つに分かれます。この「選別」が、当時の大阪市の福祉制度の現実でした。---■ 震災後の生活保護 “振り分け制度”の実態当時2012年は、東日本大震災の直後。全国的に生活保護の申請が急増していた時期です。当時大阪市では、申請者を次の3つに分類していました。---1. 「当たり」:居宅型生活保護敷金・礼金・引越費用など、生活保護法に基づいたフルサポート。大阪市が完全に生活を立て直す支援をしてくれる、理想的なパターン。2. 「ハズレ」:家賃補助のみ「住所は貸すから、自分でなんとかして働け」というスタンス。家賃補助は出るが、生活費は自前。ほぼ“自活”が前提。3. 「大ハズレ」:救護施設へ“左遷”僻地の救護施設に送られる。若くて働ける人、あるいは面談で失敗した人、最低限の食住の提供と、自立支援。いわゆる審査落ち。---私は、中央区役所でこの選別のための面談を受けました。一方、三徳寮では、申請中の人々がフロアごとに“ランク別”で分けられていたのです。最初は皆、2階の「待機フロア」で共同生活。そこでは、色んな暗黙のルールや情報交換がされ、「誰が当たりか、ハズレか」といった噂話が絶えませんでした。そんな中支援員の方から、精神が疲弊していた私を見かねて、障害施設もあるよ。と福祉課がわざわざビデオを持ってきましたが、場所が滋賀県。せっかくの申出ですが、丁重にお断りした---救護施設に数週間、面談、審査が進み、正式に「居宅型生活保護」に決定。当たり組になった。決まったとき、役所の職員から最初に言われたのは──> 「このことは絶対に他の人に言わないでください」「救護施設の方の指示に黙って従って」と念押しされました。まぁ言うつもりはなかったが、そのネタの風評をする奴、一喜一憂する人に巻き込まれたくなかった。役所から救護施設三徳寮へ戻る帰路中、昔のアメリカ縦断ウルトラクイス番組のテーマソングが脳裏に流れたのは今でも覚えてる。三徳寮に戻り理由を知り聞いて、驚いた。かつて、救護施設で「当たりだった」と自慢した人が、ハズレ組の恨みを買い、殺されたという過去があったらしい。なるほどね。その後、救護施設の方から当たり組は、そっと2階から3階以上の別フロアに移るよう施錠されたエリアに移されます。2階の人との接触は制限され、「外との連絡」も制限。ある意味、“希望”と“恐怖”が入り混じる、奇妙な待機期間でした。---■「中央区に住みたい」──でも物件が見つからない正式に居宅型の生活保護が決定されると、大阪市が定めた家賃上限(当時4万2千円)以内で、自力で物件を探す必要がある。中央区は、難波、心斎橋、日本橋等働き先が探しやすいから住みたかったが、流石、人気だけ合って家賃が合わない。居宅する上で様々な選択肢がある。1.自前で探す。2. 救護施設と提携している不動産屋の紹介3.市営住宅の抽選に当たるまで救護施設で待機4.大阪府内の別の自治体へ移管。当時ネットの情報が、希薄でそんな選択肢がある事を知らなかったし、聞かされなかった。1.1択のみ。条件に合う物件は見つからない。となると、選択肢は2つ。保護費を手出しで予算をあげ利便性(中央区など)を取るか家賃と現実(西成など)を取るか---元・不動産業界にいた私には、「ここしかない」という現実は理解できました。それでも、中央区に未練があり、自腹を切ってでも戻れないかと業者に頼み込みました。しかし紹介されるのは、西成区内のグループホームやドヤ、いわゆる“タコ部屋”ばかり。その環境に、猛烈な拒否反応が出ました。---でも──現実は、私に妥協を迫ってきます。最終的に、私は西成を選ばざるを得ませんでした。---■心のギャップは埋まらないかつて、高級マンションに住んでいた自分。その記憶と、今の現実とのギャップに、心がなかなか追いつきませんでした。頭では「仕方ない」と理解していても、心が「納得」するには、時間が必要だった。「分かってる。でも、気持ちが追いつかない」この気持ちは、同じ経験をした人にしか、きっとわからない。---このようにして、妥協に妥協を重ねた結果私は西成に住むことになりました。それは、「選んだ」のではなく、「選ばされた」選択。ただ一つ、はっきり言えることがあります。──あの時、自分の意志を手放さず、妥協しながらも抗ったからこそ、今があるということです。---次回へつづく。---