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Luke & Soleil Company

Never let the light of hope fade in your heart!

「執着」(シュウジャク・シュウチャク):強く心をひかれ、それにとらわれること。深く思い込んで忘れられないこと。

広辞苑にはこう書かれている。

FBでは多くの人がコメントやメッセージを寄せてくれる。私の仕事の性格からか、異郷の地の異性は意外と執着心が強いような気がする。

私は英語でのコミュニケーションはなんとかできるけれど、スペイン語やフランス語となると、たちまち頭が痛くなる。

多くの人がコメントを寄せてくれるのにできるだけ返答していたのだけど、思いが伝わってくる分、正直、わたしの頭はキャパを越えオーバーヒートしてしまって、返事するのが億劫になってしまった。

ある時、私がpreciousと交際しているという宣言を敢えてしたのにも関わらず、しつこく関わろうとしてきた人たちを制限してしまったら、直接メッセージを送られてきて、

自分の何が悪かったのかという・・・これにはもうお手上げ(笑)

今日も同様のメッセージをもらった。3人目になる・・・私たちは友達ではないのか?と問う。会ったこともないのに・・・ふぅ~、疲れる(-“-)
これまでのように言葉を交わしたい・・・?・・理解できなくもないが、どうして婚約者のいる身分の人間とFBという公共性ある場で、そんなことをしたいのだろうか?と疑問ばかりが浮かんでくる。

なぜ私が拒否しているかというと、はじめは私の友達と言いながら、だんだんと私の最愛のLukeという表現にエスカレーションし、毎日のように頻繁に私のウォールにポストしてくるようになるからだ。年上の女性だからと言っても、これはpreciousに対しても気持ちの良いものではない。

残念ながら、このような自分本位の人間、独占欲の強い人間は私の最も好きではない人たちだ。きっとこれからも関わることはないだろう。

不安の取り巻く世界にあって、何か正しい、信頼の寄せられるものがあるのだとしたら、一体何なのだろう?

自分の胸に手を当て自分の存在を確認すれば、それ以上のものは無いはずだと思う。

その自分も信じられないのであれば、何らかの治療が必要だと言わざるを得ない。




日々の診療から・・・


人間というのは、自分の悪いところばかりを見てしまうものだ。

人が人になっていく(成熟していく)過程で、

似たような経験をしながら、通過していく幾つかの課題がある。


先日、思春期の男子がヘソの形の相談で父親と共に来院した。

看護師の申し送りの通り、一瞥したところ異常はなさそうだ。

もし軽度の臍ヘルニアがあれば、消化器外科にコンサルトしようと考えていた。


視診、触診ともに異常がないことを伝える。

強いて言えば、開口(臍の直径)がやや大きいとは言えても、異常ではない。

父親は息子の横でどういう訳か、小さくなっているように見える。

息子はふてくされて、あまり私の顔を見ようとしない。


どうも、自分のヘソの形を親のせいにしたいようだった。

一言、「どうしてこうなったんですか?」と発した瞬間、

「親のせいでも、誰のせいでもない。これは君の体の成長に伴った変化で、

 異常でも何でもないのだよ」

いつものように、私は少々血色ばんでいたみたいだ^^;


しかし、理解できないようで、まだふてくされている。


君はなぜ異常でないものを異常にしたいんだ?

もしかして、このことで悩んでいて他のことが出来ないとしたら、

君は大切な時間を捨てていることになる。

もっと他にやりたい、やるべきことが沢山あるだろう?


悩みとは自分が作るものだ。

これは異常とは言えないのだよ。だから悩むべきものでもない。

いいかい、プロの言葉を信用できなくなったら、それこそ問題だ。


男の子を見ていると、自分の息子のことを思い出していた。

思春期真っ盛りの男子。家庭内で何か満たされないものがあるのだろう。

年頃になると、自分の肉体の形状が平均でないと、心を病んでしまうことすらある。

あざ、傷跡、皮疹など、自分ではどうしようもない状況は、

より深刻な問題になりやすい。


先日、Journal of Investigative Dermatology誌のオンライン版にも

つぎのような記事を目にした。


18~19歳の若者4,744例を対象に、湿疹の有病率と自殺念慮、精神衛生問題および社会的機能との関連を調べた結果、有病率は約10%であり、湿疹を有する若者は自殺念慮が、とくに男子で高いこと、また湿疹を有する男子では恋愛経験がない割合が高いこと(30%、オッズ比1.92)などが明らかにされた。ノルウェー・オスロ大学のJon A Halvorsen氏らによる住民ベースコホート研究の結果で、著者は、「思春期後半の湿疹は、自殺念慮や精神衛生問題と関連しており、一部の社会的機能との関連も認められた。今回の結果は、湿疹を有する若者に対する精神衛生問題に取り組むことの重要性を示すものである」とまとめている。これまで、湿疹を有する若者と心理社会的問題との関連はほとんど検討されていなかった。


あまり深く考えなくともよいことでも、自分だけの殻に閉じこもっていると、

大概はマイナスに捉えている。

これは私も同様。誰にでも認められることだ。

どんなに恥ずかしいと思っても専門家の扉を叩く勇気までは失わないでもらいたい。

悩んでいるのは自分だけ、ひとりだけというものではない。

必ず似たようなことで悩んでいる人がいるものだ。

そのような人の存在を知ることだけでも、救われることがある。

医学に限らず、その道のプロに相談をすることは、とても大切なことだ。

肉体を露出する機会が増えると、自分の体の特徴が気になる季節にもなる。

特に下着に隠れる部分の内容で悩んでいる若い人たちは意外と多い。

他と比べられないという意見もあるけれど、

多くの場合、異常ではない。

私は仕事柄、人種を問わず人の体の全ての形態を診てきたつもりだ。

それは多種多様であって、正常と異常の境界線はなかなか引けないものだ。

機能異常が認められる場合は、その先を検討しなければならないが、

そのようなケースはなかなか稀であることが多い。


このように書くと、LUKEの診療科は一体なんだ?と思われるでしょうが、

それは秘密です(笑)

ご想像にお任せ^m^ウシシ




"Draw in a way without boundaries" - 境界を描かないということ - FBより


私たちは「境界」という概念を持っている。私の診療も外来の異物との免疫反応や防御反応に代表されるように、その境界での出来事が最大の関心事であることはいうまでもない。巨視的な世界においても領土や宗教といった境界というものは現に論争の中心となっている。つまり内と外、自分と他との関係性はあらゆる問題の端緒となり得る。


たまに絵を描く機会があるせいか、過去の芸術家が遺したものに接すると、当時の作者の心情がそのひと筆、ひと筆から伝わってくることがある。同じ線を同じように描こうとしても、至難の業である場合がある。ちょっとした心の動揺(心的反応)が反映されていたり、そこに強い精神性を感じ取れるときは、とても嬉しいものだ。


今から10年ほど前に慢性疲労症候群の診断を受けた際は、自分のそれまでの仕事を辞めざるを得ないと真剣に考えたものだ。基礎医学のエデュテイメントというコンセプトで、自分のもう一つの専門であった解剖学を3D アニメーションにしようと、デジタルの専門学校に通っていたときのことを思い出すことがある。しかし当時の私は家族のために収入を優先しなくてはならず、自分の新しい夢を断念せざるを得なかった。幸いにも体調が時間と共に回復し、また同じ仕事に復帰することができ、現在に至っている。


しかし、そのときドローイングの指導を受けられたことは大変貴重な経験だった。裸体のデッサン、クロッキング等の実習では、東京芸術大学の講師のアドバイスを受けられ、それまで見えなかったものが捉えられるようになったように思う。


「境界を描かないようにしなさい」これは、講師が私の作品を見ながら私にいつも言った言葉だ。今でも私の胸に深く刻まれている。職業柄、境界を明瞭に描く癖が自分の絵に強く反映されていたのだと思う。当然、平面に三次元を描くのであるのだから、テクニックは必要だった。その基本が私にとっては「境界」を描かないことだったのである。物が存在するということは、必ずその物以外の存在が対象を引き立てているものだ。境界を敢えて線描せずとも、面を連続して描くことにより、結果として境界つまり輪郭が描かれているというのが、講師の言いたかったことだ。


講師が参考にするよう手本に差し出したのがDürerの作品だった。巨匠たちの迫ってくる迫力を絵に感じ取ると、神に許された人々なのだと感嘆してしまう。「境界」を描かずに「境界」を描く。これは私の永遠のテーマであり、作品の宇宙と精神との連続性を明らかにする鍵なのだと、今では考えている。




LUKE