高市天皇の死とかぐや姫  白村江戦後論⑧ 室伏志畔  | 越境としての古代

越境としての古代

 日本古代史は東アジア民族移動史の一齣であり、それは長江文明を背景とする南船系倭王権と韓半島経由の北馬系王権の南船北馬の興亡史で、それは記紀の指示表出ではなく、その密やかな幻想表出を紡ぎ、想起される必要がある。

高市天皇の死とかぐや姫 白村江戦後論⑧ 室伏志畔 


            (小川光三著『大和の原像』より↓)
越境としての古代-原・春日信仰
 三輪山に昇る太陽信仰が春日信仰で、夏至線に大和の本来の開拓者(それを神武陵に比定した)、冬至線に鏡作神社を配置し、三角縁神獣鏡が量産された。

686年の大津皇子の変は持統と不比等の策に高市皇子が乗り、軍を動かし大和勢力を粛清したことで、高市の天皇への階梯は用意された。それは天武・物部体制が、多大な九州の犠牲の上に進行した反動で、大津皇子の即位は、さらなる大和中心の展開を予想される以上、宗像君徳善の尼子媛の御子・高市の焦燥は強かったことによろう。尼子媛は宗像海人族の姫の意で、天武が大海人皇子で、その背景に海人族が控えていたように、高市の背景に宗像海人族を見亡ければならない。彼らが共に軍事に明るかった理由で、倭国王統の継承順位からすれば、高市の皇位継承順位は侮れない。
 

春日信仰と伊勢神宮


 草壁皇子の死の翌690年に高市天皇は誕生したが、『日本書紀』はそれを持統の陰に隠した。その即位期間(690~696)に伊勢行幸を見るなら、伊勢神宮は、初め天武の受容した畿内大和の三輪山に昇る太陽信仰である春日信仰として構想を見たが、高市は高神海士族の天照(饒速日命)信仰に改変、伊勢神宮を立ち上げた。しかし、日本国は実質上、宇佐神宮を皇大神宮として尊んだため、伊勢神宮は明治になるまで皇室に顧みられることはなかった。
 加えて藤原氏は倭の五王の姓で、天武に流れた藤姓を簒奪して藤原氏を名乗り、大和の信仰である春日信仰までを自家に簒奪し、近江朝から百年した768年に藤原氏の総社として春日大社を奈良に立ち上げた。  その高市即位期間を『日本書紀』は持統のそれとし、文武への禅譲を造作するが、その裏に696年の高市天皇の暗殺が隠されている。高市の陵と見られる高松塚の漆棺から高度の鉛が検出されているのは注目すべきである。その遺体の頭骨の盗掘による紛失は、それが政治的盗掘で、その悪意は高市の御子・長屋親王一族の729年の藤原氏による抹殺へ連なり、高神皇統の根はついに断たれた。

  かぐや姫の月昇天

 

『日本書紀』は高市の薨去を、持統九年(696)の7月と記し、次に褒賞記事を連続させる。それが高市の死に関わるなら、8月の多臣品治の長き奉公と不破の関を守ったことを上げるのは、この不慮に死に対し東国の安曇族(海人族)の動きを封じ、都の不安を一掃したことに関わろう。9月に若桜部朝臣五百瀬の長き奉公に報いたとあり、10月に、倭国のラスト・プリンセス・かぐや姫(姫島の乙女)と天皇との仲人をした「色好み五人」の報償記事を置いたのを見れば、かぐや姫の婚姻相手の帝は高市天皇で、その急死に破談の原因はあったのだ。それが高神皇統と倭の五王の藤王朝の婚姻であることは、さらなる倭国王統の保証となり、高市後の軽皇子の即位を望む持統と不比等の焦燥は深かった。 かぐや姫を九州から大和に迎えた不比等をはじめとする丹比真人、阿部御主人、大伴御行、石上麻呂の五人は、今後の政局にとって、高市がかぐや姫を迎えることでさらに権威を強めるのを危惧し、軽皇子(文武)を天皇に迎えることによる得失を秤にかけ、談合して高市暗殺に乗り出したかに見える