皇統モデルは葛城王朝  白村江敗戦後論⑨  室伏志畔  | 越境としての古代

越境としての古代

 日本古代史は東アジア民族移動史の一齣であり、それは長江文明を背景とする南船系倭王権と韓半島経由の北馬系王権の南船北馬の興亡史で、それは記紀の指示表出ではなく、その密やかな幻想表出を紡ぎ、想起される必要がある。

皇統モデルは葛城王朝 白村江敗戦後論⑨  室伏志畔 



(北九州市八幡西区香月の葛城王朝の地、手前が葛城山、後方が金剛山)



越境としての古代-葛城山と金剛山
 
天武崩御直後の686年の大津皇子の変に続く696年の高市天皇の暗殺は、神武から第二代綏靖への皇位継承に見られた手研耳命の変に、その先例を見ることができる。この神武は東征した神倭磐余彦ではなく、九州の原大和の倭(やまと)に天神降臨した饒速日命で、その妻子もそれに順じる。
 その神武である饒速日命の媛蹈鞴五十鈴媛である伊須気余理比売を手研耳命が娶ったことは、皇位継承を語るものだ。その手研耳命に対し、媛蹈鞴五十鈴媛の皇子・神渟名河耳命が反旗を翻した。兄の神八井耳命を差し置いての皇位の簒奪に加え、『古事記』はさらに彦八井命を記す。私は肥後一の宮・阿蘇神社の淵源にある草部吉見神社の祭神として彼があることを知り、その妃が草姫(日下姫)であることは、彦八井命も神八井耳命も、媛蹈鞴五十鈴媛の御子ではなく、委奴国の八井姫の皇子とするほかなかった。


饒速日命皇統の継承順位
 

 神武と記載された饒速日命の皇妃とその皇子は次の通りで、その出自王統と皇位継承順位を数字で示すと、


一、皇后・吾平津姫―①手研耳命(出雲・高神系)
二,妃・八井姫―②彦八井命、③神八井耳命(委奴国系)
三,妃・媛蹈鞴五十鈴媛―④神渟名河耳命(出雲の事代主命系―夷系)
四,夫人・天道日女命―⑤高倉下命(天香具山命)


となり、第二代綏靖天皇として即位した葛城王朝の創始者・神渟名河耳命は出雲・高神系の手研耳命に大逆し、委奴国王統系の彦八井命と神八井耳命を押さえ、高倉下命を抱き込み皇位を簒奪したのだ。それに対し彦八井命は正統皇統を肥後で主張したところに朝敵・熊襲の誕生があった。
 すでに持統・不比等は、大津皇子の変によって、九州王朝の藤狩りと物部狩りによって、出雲系と饒速日命系勢力を高市の軍を動かし粛清した。その高市皇子の皇位継承順位を、今の学者は大和中心に考えるため、尼子姫を卑母とし、倭国王統を下支えした高神皇統系にある高市の九州王朝での継承順位に気づかない。その順位を無効にするには、葛城王朝がしたように、先在した王統・旧皇統を廃絶に追い込むことなしにはありえない。この高市の登場による高神皇統の大和での実現は、その暗殺によって暗転し、連動して宗像海人族としての安曇族の盛衰もあったので、安曇族が信濃山中に大挙、蝟集する不思議もそこに生まれた。


 倭根子(やまとねこ)の和風諡号問題
 

 天智が中大兄皇子とは別に、葛城皇子と呼ばれ、持統に続く文武・元明・元正の天皇の和風諡号に葛城王朝に出現した倭(日本)根子が復活し、平安京を開く桓武からも四代にわたり日本根子の和風諡号が復活したことは、日本国皇統は再出発に当たり、常に葛城王朝をそのモデルとしたことを語る。しかし、歴史学会はこの葛城王朝を架空とするお粗末な実証史学にあるなら、九州王朝説においても倭国から日本国への転換を禅譲とする平和ボケが蔓延しつつあるのが、現在の九州王朝説の危機的状況を語っている。(2011.07.12)