前回からの続きです。
老師と知り合って今年で18年目…、そんな長い年月が経った今になって、100年以上前からの老師との縁(えにし)を知ることになった私です。
老師の前世の記憶の中に私もいたとの衝撃発言があり…。
私「え前世に私は横浜にいたのですか?」
老師「そうだよ。」
櫻子「私は前世でも日本人だったんですね?」
老師「そう。君は私の教え子だった。」
私「…お?え~っと…、むむむ…………なんの生徒ですか?やっぱり命理学の?」
老師「違うよ。普通の学校の生徒だ。君は家庭環境がよくなかったけれど、本当にとても真面目な生徒だった。」
(櫻子注:決して優秀とは言っていない)
私「100年以上前の横浜で学生…?家庭環境が悪いとはつまり貧乏あの時代にそんな家の子が通えるのは小学校くらいですよね?」
老師「なんの学校かは覚えていない。ただ、君の学費を出してあげたことを覚えている。」
…学費が要るとは昔の義務教育は尋常小学校までだったので、私がそれ以上の学校、つまり女学校などに老師の力を借りて進学したということなんだろうな…。
う~ん、横浜、ヨコハマ…。
私「それにしても横浜ですか…。私、横浜好きじゃないんですけど。」
実のところ、私は実家が神奈川県川崎市にあったので、横浜には今まで数えきれないぐらい足を運んでいます。子供の頃もよく行ったし、以前はパスポートの受取窓口も横浜だったんです。
それなのに、横浜については暗く重苦しいイメージしかありません。
別に嫌なことがあったとか全く思い当たらないのですが、快晴で雲ひとつない日でも行くとなぜか悲しい気持ちになるのが横浜なのです。
特に山下公園のあたり
皆さんご存じですか?横浜の観光スポット山下公園。
氷川丸が停泊している港に面した、とてもきれいな公園です。
私も横浜山下町あたりに来たときは、いちおう山下公園にも寄って散歩したりしていたのですが、どうも…楽しかった記憶がありません。
それで老師の話しを聞いてから、山下公園についても調べてみました。なんか当時の手がかりはないかしらと…。
そうしてわかったことは…、
「大正12年(1923年)の関東大震災の際、震源に近かった横浜は甚大な被害を受け、火事で一面火の海となり、山下町だけでも死者行方不明者2200名以上を数えた。当時、あまりに大量に出たガレキの処理に困ったため、沿岸部にそれを集めて埋め立て、後に山下公園として整備した。」
さて…トラックやショベルカーのない時代に、沿岸に埋め立てたのはガレキだけだったんでしょうかね…。
なんの根拠もありませんが、たぶん私は当時、沿岸に全てが投げ込まれる光景を見ていたか、自分も投げ込んでいたのではないかしら?…、あるいは自分自身の体もガレキとともにその海の底に??
この私のカラダの奥から湧きあがる山下公園への嫌悪感を考えると、おそらく前者だったような気がします…(死んでたらむしろ感覚はないはず)。
なんかね…、ネットで山下公園の写真を見ただけで、もう、いや~な感じがするんですよ。
それにしても、悲愴な歴史の場所というなら、広島原爆ドームや沖縄ひめゆりの塔にも行ったことがあるのに、どうして私個人としては山下公園のほうがずっと暗い気持ちになる場所なのでしょうね。
横浜について老師はこうも言っていました。
老師「最初に横浜に行った後、自分でもう一回行ってみたけれど、やっぱり長くいたくない場所だった。前世で横浜にいたときシガラミでもあったのだろう。」
…おぉ?老師!私も横浜が嫌いなんですよ~ということはということは~私たちは同じく関東大震災で悲惨な体験をしたとか
そこでまた後日老師に聞いてみました。
私「老師~、前世で私たちは横浜にいて、老師はホテル火災を憶えているんですよね?」
老師「そう。あたり一面焼け野原で。元は横に商店もたくさんあったんだけど。」
私「そんなにめちゃくちゃな火事ということは、きっとそれは1923年(大正12年)の関東大震災ですよねっ」
老師「いや、大震災の記憶はない。」
…あれ前世の記憶に関東大震災はないの?
じゃあ…私が老師に教えてもらっていたのはいつのこと
この話し続く
来週中の「いつか」更新すると思うので、来週また覗いていただけると嬉しいです。
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