(短歌としては特に見るべき作品もないまま、のちに詩へと転向することになる。)やがて日露戦争が開戦し、戦時補充兵として召集され満州に渡った。明治三十八年から九年まで満州にいて、帰国後は再び進学校の学生となる。やがて牧師となりまた作家となっていく素地をここで養ったとされていて、詩人としての活動を展開していくことになる。和田義昭氏の文章によれば明治四十年の頃、短歌から詩へと転向していく。「書生はもう三十一文字やめ申し候、この頃は長詩(新体詩)のみ作りをり候、なかなかさかんなものに候、」と詩作への抱負を述べたことを記している。なぜ短歌をやめて詩作に変わったのか、その理由は書かれていない。短歌では自分の思いを実直に述べることが出来なかったのだろうか。その年の暮れには『文章世界』に次のような作品が掲載されている。まさに初期の詩作品である。

      葛蔦の一褸
        石の壁の
      上をひきぬたそがれ。

    あたゝかき光
    追ふなる陰の相
      たちまち冷えて
      吸はれ行く
      影よとまれ
      我が心
      あなや崩るる。
      花もなく葉も
   落ちはてゝ
      冬近きこぼれ日拾う
    恋いなればー恋は
    いだけど脈絶えて
    血の燃えぬ壁              (「壁」全行)

(つづく)

 山村暮鳥が群馬での生活を離れて東京築地聖三一神学校に入学したのは明治三十六年。入学の経緯については曖昧ながら、親しかったウオールの世話であったようだ。本人の「半面自伝」によれば「(進学校に入るまで)に自殺を図ること前後三回。学校では乾燥無味なギリシャ、ヘブライの古語学より寧ろ文学の方面により多くの生けるものを感じ、その研究に傾いた。」と 述べている。


 暮鳥は明治三十七年に岩野泡明、前田林外、相馬御風が創刊した短歌雑誌「白百合」に短歌を発表。これが文学活動の第一歩をしるすことになる。当時は木暮流星の筆名で掲載していた。その作品を右に記してみる。

 

   さらば君白衣さきてわれゆかん野にはいなごの餓のあるまじ
    名は知らず柩かく人髪白く泣く子にしむき竹の杖とる
   うけたまへわが霊神よかへしまつる落穂に足らふ鳥もある世ぞ
    秋が乗る天馬にやらめしろかねの倉にふさはん黄金向日葵
   母おいて小狗よぶ子のあとさきに絵日傘二つ何おもひ行く
   うらぶれて行く子いだきて彩霞(あやがすみ)いずか消えん果てをおしへよ
  あゝ恋いよ汝がうちすてし詩の子はいま太刀とりて馬駆り行く

 (以下続行)

 

亡き母が
いつもこの部屋で
目に悪い光りの痣をあびていた
ひとりの気ままな暮らしも
狭い廊下は昏く
下界との連絡口のように
ときどき濡れて光っている淋しさ


油断ならない気配も知らず
目も口も閉ざしながら
ピグマリオン効果を願っていたと思いたい


振り返る額の中は
立山地獄谷の白い吐息
氷河期の
生き残りの白に、忖度もなく
木彫りの鳥の悲鳴で
母は目をさます
雨上がりの午後の木漏れ日に縛られて