「最もよく詩の特質を発揮した詩編」として「だんす」を揚げて、その詩について読みを試みている。

  あらし
  あらし
    しだれやなぎに光あれ
   あかんぼの
  へその芽
  水銀歇私的利亜
    はるきたり
  あしうらぞ
  あらしをまろめ
  愛のさもわるに
  烏龍茶っをかなしましむるか
  あらしは
  天に蹴上げられ   (「だんす」全行)

   なんとなく優雅な姿態を駆使した若い女性の軽快な舞踏の場面を想像させるが、この作品については朔太郎の懇切丁寧な解説にあたっていただく方がいかもしれない。
 よく知られている詩としては、「風景 純銀もざいく」があるいわゆる「いちめんのなのはな」この詩の表現については、伊藤信吉がつぎのように表している。
 「作者はここであきらかに印刷効果を計算にいれており、活字印刷のない時代には絶体に考えること
のできない試み」「視覚性を端的に利用」した、として次のように評している。

   この「純銀もざいく」というサブタイトルは、この詩の表現方法の説明といってよくそれはモザイ   クのように手工芸的に一つ一つの言葉をはめこみ、「人工的」に詩を組み立てるということ。こま   でくると詩は歌われるものではなく、意識的、方法論的に構成されるものになった。したがって
      「風景」のような作品は、その試みの新規さや衣装のあたらしさに意味がある。「目で見る詩」の   発見である。

 右のことばは特に斬新で新鮮な評言いうわけでないが、一つの見識として掲げた。最後に個人的にある啓示のようなもの感じ取った作品を掲げたい。

  岬の光り
  岬のしたにむらがる魚ら
  岬にみち尽き
    そら澄み
  岬に立てる一本の指 (「岬」全)

  岬の空がすんでいる風景はなっときできる、なぜ空が澄んでいるかといえばそこに一本の指が天をさし起立している、この指は灯台の比喩とみられるが、岬の灯台の孤独な存在が天に向かって強い意志を示している。詩は死者への伝言のように。山村暮鳥の言葉への純粋な精神が光っている。

 

 

  紛れもなくこれまでの詩の表現に対する挑戦であった。「解らなくなればなるほど解るのである。解らなければなるほど真である。解らなくなればなるほど光るのである。」と暮鳥の詩に対する考え方を端的に表現したものだが、室生犀星は、その難解性について序文に書いている。(ここでは省略翔する)
  ただ「すべての日本の詩人に比類なき新鮮なる情景である」また「恐るべき新代生活者が辿るものまにあの道」であるというが、それは必然的に読者の理解を拒絶することになる。
  朔太郎は、当初は「象徴派中でも最も端的な象徴派」という意味で詩の極端な象徴主義こそ「未来派」の芸術でなければならぬと規定し、、そのような詩人として村山暮鳥をあげる。のちのちには離れていく朔太郎であるが、暮鳥の出現の詩史的意味を評価する。しかし全面的に暮鳥の詩を評かしていたわけではなかったようだ。
 暮鳥の詩論である「言葉に非ず、形象である。それが真の詩である。」を引用しながら朔太郎はそこに疑問を呈している。「私はこの説似たいしては七分通り賛成三分透り反対である。」と暮鳥の詩論が進みすぎているということに賛意を保留したとみた方がいいようである。「最もよく詩の特質を発揮した詩編」として「だんす」を揚げて、その詩について読みを試みている。

 暮鳥の詩論である「言葉に非ず、形象である。それが真の詩である。」を引用しながら朔太郎はそこに疑問を呈している。「私はこの説似たいしては七分通り賛成三分透り反対である。」と暮鳥の詩論が進みすぎているということに賛意を保留したとみた方がいいようである.

   暮鳥の言葉(詩)は、暮鳥自身が最大の愛唱歌としている旧約聖書の詩編を貫く神が万物に与えている賛歌、暮鳥に「詩僧」とよばせたせいフランチェスコの「兄弟なる太陽」の歌と何処かでむすばれているとおうことかもしれない。私はキリスト教には無縁なのでもっと詳しく理解することが出来ないのは残念である。

 

 

  竊盗金魚
  強盗喇叭
    恐喝胡弓
  賭博ねこ
  詐欺更紗
  ?職天鷲絨
    姦淫林檎
  傷害雲雀
  殺人ちゆりつぷ
    堕胎陰影
  騒擾ゆき
    放火まるめろ
    誘惑かすてえら。(「藝語」全行)

   詩集の冒頭におかれたるこの作品は、読者におおいに愕きで迎え入れられ、ほんの僅かの喝采の他は批難囂々集中し、大胆な言語構成に多くの読者は戸惑いを隠せなかった。
 一語一語の意味は明瞭で了解できても正に「藝語」という「うわごと」「寝言」として了解不能という
烙印を押されかねない作品であえると、おおかたの批評には、暮鳥もすっかり肩を落としたようであった。新しさと冒険への意欲は、ときには無理解な声を大きくすることがある。やがて乱暴な罵声にかわることもある。

 一行二語の上の段は、「竊盗」「強盗」「恐喝」等の名詞は問題ないが、そのしたにつらなる「金魚」「喇叭」「胡弓」とのむすぶつきをどうよむか。映像よりも音声に求めるイメージとの言葉を結びつきによってもたらされるもの。詩人内部における必然性があるのだろうが、読者にとっては了解不能であったのだろう。朔太郎の詩集もまだ発刊されていない時期、言葉の音楽性を感じることにも読者は未成熟な部分があったのだろう。キリスト教の悪と善を具現化しようと試みたとも言えるし、暮鳥自信は難解な感想のなかで「まことの芸術」は、「哲理」も「道徳」も超越し、奇蹟に根ざした「宗教」である、とまでいって常識を否定している。しかし当時の読者には受け入れがたいものがあったということだろう。