昨今は、自分を磨く、自分を輝かせる、といった言葉がたくさん見受けられます。
自分という主語が大きくなるのはいいことなのか、わたしはこの年になって自分なりに答えをだしました。
易経の卦に風沢中孚という卦があります。心の中に誠実さ、真心、信念、正しい志が充実しているときは、自然に人に影響を与えている、という意味が込められています。
自分の言葉は自分の身から出るものですが、自分の発している言葉にも陰と陽があります。同じ言葉の中にも発する人の心次第で全く違う意味がたくさんあります。言葉だけを捉えてもわからないことの方が多く、それが原因ですれ違っていることもしばしばです。
わたしたち自身が自分の言葉を発するときに注意するように、人が発する言葉にも注意を傾けて真意を考える、ということもまた誠実さのひとつだと、わたしは最近思うのです。
主語が大きくなることは大変素晴らしいことだと思いますが、《自分》という小さなものだけに囚われてしまうと、自分という世界の中だけにしか影響をもたらしません。
その小さな影響力は、多少は自分を快楽的にさせるものかもしれませんが、自分という枠からはみ出した自分、という無限大の可能性のある素晴らしい自分を知らないで生きているということです。
少々もったいないな、と思います。
世の中にはたくさんの言葉があります。同じ言葉でも意味はそれぞれ違います。
今は、みんなが一生懸命自分の仕事、意見、主張を大声で張り上げ、認めさせようとしている姿を見るたびに、わたしも自分の憤りを主張し、そしてそれを非難していることに対して恥ずかしい気持ちになります。
わたしが人に対してもう少しやさしい世の中を望む時、無意識にも自分のことだけを考えて他人をないがしろにしてしまう人たちに憤りからつい、批判の声を漏らすこともあります。本当はだまって自分のすべきことだけをしていればいいのです。
わたしたちが我慢して、忍耐して、それでも前を向いて歩いているとき、その姿を見ている人が必ずいるのです。わたしは自分の弱さから、そういう小さな裏側の働きより自分に一生懸命です。批判めいたことを幾度となく発することしかできなくなった時、それは無意味で自分を不幸にするとわかっていながらやめられないのです。
SNSやネットに蔓延する人を非難したくなる人たちも、自分という小さな世界の中でさえ、自分を認めてもらえない、自分の考えていることに寄り添ってもらえないことに対する憤りを抱えていると思うと、少々胸が痛みます。
わたしは、そういう気持ちを少なからず持っているはずです。認めてほしくて仕方がなかったのかもしれません。
でも、実際のところ私は自分をすごいと思ったことを一度もないけれど、私をすごいという人がたまにいるのです。何がすごいのか私にはいまいちピンときませんが、案外、実はみんなわたしを認めているかもしれないのです。
わたしは、いつも人が自分より優れている、という感覚から抜け出せていないから、そういう自分の反対の心、つまり自分はすごい大層な考えを持っている、という巨大なエゴの心から悪口を言うことで何とか自分を繕っているのだと思います。
そして、わたしが常々考えてきた易の思想、哲学を共有する相手がいないこと、理解してくれる相手がいなかったからこそ、分かり合える友達を見つけるよりも、悪口という安易な方法で仲間を増やそうとしていたのかもしれません。
本当の強さとは、自分が本当に真理だ、間違いないと思ったことを、ただひたすら人の目を気にすることなく相手に伝え、分かり合える友達を前向きに探すことができる。わたしの人生にはその覚悟がなかったのです。
悪口でつながりあう友達よりも、分かり合える友達を増やしたほうが絶対にいいのです。自分が何を養い、何を育てるか、という自分の軸を決める問いは必要で、その問いに対して答えを持っているのにやめられない自分から勇気をもって手放しせねばならない時があります。
多くの人は自分に弱いから、悪口のつながりが心地よく感じます。それは一見、仲がよさそうでありながらも、分かり合えることがない関係である場合もしばしばです。
わたしはこの年になって、自分が悪口を言って喜ぶよりも、自分が描いている未来を喜んでくれて分かち合える人とたくさん繋がりたい、という思いでいっぱいです。
だから、わたしはそういう人を増やすためには強くならなければならないのです。
悪口は、自分の弱さを表します。多少の愚痴はストレス発散になります。
ですが言いすぎると「誰も言うことを信じてくれない」となるのです。
自分を強くすることも、養うことも、実は忍耐が必要です。
わたしたちの現代社会は、インスタントラーメンのように早く、すぐ、効果が出る、という風を好みます。
しかしながら、自分を弱いと知ること、自分の脆いところを知ることで人は強くなります。自分を知る、ということは時間がかかることです。
我慢しなくていい、なんていうことはなく、(必要以上の我慢はいらないが)実際のところ、痛い思い、つらい思いをしなければ自分というものを知ることはありません。人生を完ぺきにしあわせだけにする、ということは自然の摂理にはないからです。
この世の中を易経がない世界で生きてきた頃を思い出すと、本当にしていいことと悪いこと、道理が行方不明で人生を無駄にしてきたと思うこともしばしばです。
実際に自分を死ぬとき後悔せず、人生を振り返ったときに思うことは《あの苦しみがあって、今のしあわせがある》と思えることがしあわせではないか、と思いました。
今、あなたは自分に何を養っていますか?
自分の心に忠実になる、ということは、自分の心と向き合って、痛みを乗り越えて、勇気をもって自分を薄くして、本当の自分の中心にある信念、誠実さ、そういうものを自分に持っていると知ってはじめて自分に正直に、忠実になれるることであると思います。
それを見つけるまでが大変で苦痛ですが、人は必ず乗り越えられて、強くなります