花の見ごろに誘われて、茨城県水戸市に歴史探訪にやってきました。
蒸気機関車とデカ盛りと道の駅を求めて毎週末、家族旅行しているのにキャンプ歴のない軽自動車キャンピングカー「eK-Camp(ROTUS(ロータス)RV販売 )」銀色テントむし乗りのnorizoです。
JR常磐線・水郡線の水戸(みと)駅の北口ロータリーから国道51号線を西へ出て銀杏坂交差点から北東の路地に入り、突き当りの三の丸交差点T字路を芳賀氏に入って道なりに進み、日本百名城のスタンプがある弘道館を背に県道232号線を渡るとその先両翼に広がるのが「水戸(みと)城址」です。
弘道館を背に橋を渡った先は教育に熱心だった水戸藩の意思が伝えられるかのように城跡が学校になっています。
橋の東詰めに「水戸城址」の石碑と解説版がありますので、ここを見逃す手はありません。
橋詰からさらに道なりに歩くと、北に水戸市立第二中学校、南に茨城大学付属小学校が見えてきますが、それらの学校の校門すらも城郭の様相をなしています。
そんな城郭の雰囲気満載の中学校の入口付近に水戸城と水戸藩の歴史を伝えてくれる「二の丸展示館」が設置されています。
ここ自体に駐車場はありませんが、弘道館付近には多くの有料駐車場がありますし、少し離れた仙波湖付近にも散策範囲に入れるなら、歩けない距離ではありません。(実際、歩いてきました。)
水戸城は那珂川と千波湖にはさまれた台地の東端に位置し、平安時代末期から鎌倉時代初期の建久年間(1190~1198年頃)に桓武平家の常陸・大掾(だいじょう)氏の一族である馬場資幹(ばばすけもと)が馬場城として築城しました。
室町時代の応永23年(1416年)、足利幕府に対抗した上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱に加担した大掾満幹(だいじょうみつもと)が足利幕府側の江戸通房(えどみちふさ)に敗れると、江戸氏の支配下となりますが、その江戸氏も有力武将であった佐竹氏とにらみ合うことになります。
天正18年(1590年)の 豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐で北条氏についた江戸重通(えどしげみち)は領有を失い秀吉に常陸一国を与えられた佐竹義重(さたけよししげ)・義宣(よしのぶ)によって籠城する馬場城を攻められ、文禄3年(1594年)に重通は敗走しました。
この際に佐竹氏は、馬場城を水戸城とし、城郭を西に拡大し、城下町を形成しました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川家康(とくがわいえやす)に味方しなかった佐竹義宣が秋田に入封になると、水戸城は東北をにらむ拠点として徳川家直轄の水戸徳川家として、以降明治時代を迎えるまでこの地を守ることとなり、幕末の戦乱を経て、今に数少ないその遺跡を残しています。
小さな資料館ではありますが、弘道館と合わせて見ておきたいスポットです。
水戸観光に出かけたら、一度はその歴史に触れてみてはいかがでしょう。
□水戸(みと)城址
茨城県水戸市三の丸2-6-8(二の丸展示館)
TEL:未確認
開館時間 9:00-16:30
休館日:年末年始(12/31~1/3)
駐車場なし
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2017/03/04 10:30 天候:晴れ
測定値:未測定(測定器具:エアカウンターS)
測定場所:駐車場GL約1000mm(腰高)