蒸気機関車とデカ盛り


今回やって来たのは北関東自動車道の壬生(みぶ)インターから南の日光街道沿いをちょっとだけ市街地に入った「壬生町城址公園(みぶまちじょうしこうえん)」です。
駐車場も整備され、大手門も復元された立派な公園で、中には歴史民族資料館や公民館が併設されています。

大手門は模擬らしいのですが、立派です。
壬生(みぶ)と言っても、京都で新選組が屯所(とんしょ)としていた「壬生村(みぶむら)」とは関係がありません。
しかし、以前から栃木県に「壬生」と言う地名を見つけたときから新選組とのかかわりを探していました。
すると、流山で近藤勇が捕縛された後、新選組隊士が訪れている形跡を見つけたのです。

新選組は鳥羽伏見の戦いで敗戦し、関東に戻り、勝海舟からの命令で甲府攻めを行った後、流山で隊長たちの行き先が別れます。
局長の近藤は捕らえられて東京都板橋へ、土方歳三は旧幕府軍と共に宇都宮へ、永倉新八と原田左之助は靖共隊(せいきょうたい)を立ち上げ旧幕府軍への参加を志します。
原田は靖共隊の発足後、江戸を発ってから近藤奪還のために(?)江戸に戻り、その後彰義隊(しょうぎたい)に身を投じます。
その際、共に靖共隊を立ち上げた永倉が、旧幕府軍宇都宮攻略の別働隊として攻め込んだのが今回訪問しているこの「壬生城」だったのです。
説明が長いですね(笑)
現在は公園として整備され、地域の人たちの憩いの場として人気のスポットです。

本丸にいたる橋や石垣も復元されていて、美しい風景が広がります。
建築物は復元されていませんが、公園内の所々にポイントが隠れています。
復元されたお堀の中にはたくさんの鯉が泳いでいますが、その中に何匹か「金色の鯉」が泳いでおり、子ども達はしばらくその鯉たちを眺めていました。

橋を渡り本丸エリアに入りすぐの左手の林の中にひっそりと「壬生領榜示杭(みぶりょうぼうじくい)」があります。
江戸時代に建てられたと言われる表示杭で、数少ない当時から存在するアイテムです。

公園を散策したら無料の「歴史民族資料館」で歴史の勉強も出来ます。

城跡としてのイメージで訪れましたが、古墳時代や中世の歴史も含め多くの資料と解説で栃木県の歴史を詳しく伝えてくれています。

幕末、永倉らが請け負った壬生城攻めは、新政府軍の兵力の増強により失敗に終わることになります。
それでも「壬生浪士組」が同じ地名の「壬生」を攻めていたと思うと心が痛みます。
この城を攻め切れなかった永倉も、さぞ悔しかったことでしょう。
しかし、ここで兵を引いたために、永倉自身も生き残り、後に「 新撰組顛末記
雨で公園内の散策をする時間が減ってしまいましたが、併設の図書館でのんびりと読書まで楽しんでしまいました。
栃木県に関する資料も多く、入り口には壬生城の復元図もあり、1階の勉強スペースのすぐ脇には新選組や幕末に関する資料も多く取り揃えられていて、ついつい時間がたつのを忘れて読みふけってしまいました(笑)
norizoもすでに四十を過ぎましたが、まだまだ勉強したくなることが多く、出かけることも楽しくて仕方がありません。
栃木県は、これからもnorizoのココロとカラダを潤わせてくれるヒーリングスポットであり続けてくれるようです♪
どこまで心に残るかはわかりませんが、子ども達がこれからも一緒に旅を続けてくれると嬉しいですね。
□壬生町城址公園(みぶまちじょうしこうえん)
栃木県下都賀郡壬生町本丸1-8
駐車場あり
※広島にあるのは「壬生城址公園」
大きな地図で 銀色テントむしの「新選組!」ゆかりの地 を表示
…地図が「禁止タグ」になってしまって表記できません。
地図入りフルバージョンは「FC2版銀色テントむし660」でご確認ください。
ワンポイント(城郭放浪期HPより)
寛正3年(1462年)壬生胤業によって築かれた壬生古城が始まりとされ、壬生古城は壬生城の北にある壬生氏と鳥居氏の菩提寺常楽寺の西にあったといわれる。
戦国史
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、壬生義雄は義弟皆川広照らとともに北条氏に味方して小田原城に入城したが、義雄は小田原で病死、嫡子なく壬生氏は断絶となり所領は没収された。
北条氏にかわって徳川氏が関東に入封すると結城秀康が城主となり、江戸時代になると目まぐるしく城主が入れ替わった。
幕末史
1868年5月4日(慶応4年4月12日)、近藤総長を捕縛された新撰組の隊士など下総市川の国府台大林寺に結集していた旧幕府側の歩兵隊約2,000人は、徳川政権の聖地日光廟で決戦を行うため北上を開始した。
この歩兵隊は精鋭伝習隊を中心とし、これに歩兵第七連隊や桑名藩隊、回天隊、新撰組などが参加、軍総監と軍参謀をそれぞれ大鳥圭介と土方歳三が務めていたとされる。
旧幕府軍は下総国松戸小金宿で大鳥率いる本隊と土方率いる別動隊の二手に分かれ、宇都宮城を東西から挟撃するため、それぞれ下野国壬生・鹿沼および真岡へと向かった。
宇 都宮城を攻略した旧幕府軍は江戸を後発し既に壬生周辺や今市(現・日光市)周辺に進軍して来ていた永倉新八ら新撰組や郡上藩兵および衝鋒隊、そして下野国 に侵入していた会津藩兵と連携して壬生城攻略を企て、1868年5月13日(慶応4年4月21日)に宇都宮城を出立、翌5月14日(慶応4年22日)未明 に新政府軍安塚陣地に総攻撃をかけた。
連戦連勝の旧幕府軍の勢いは猛烈で、精鋭であるはずの河田隊は退散を余儀なくされ、一時は安塚を占拠した旧幕府軍であったが、折からの豪雨で兵の疲労が嵩み、安塚敗北の報を受けて壬生城から討って出た河田自ら率いる鳥取藩兵の反撃に遭って、姿川対岸に撤退した。
さらに東山道総督府の追加派遣の救援軍が壬生城に接近している報を受け、旧幕府軍は止む無く宇都宮城へ撤退した。
※ウィキペディアより抜粋
◇壬生町立歴史民俗資料館
TEL:0282-82-8544
栃木県下都賀郡壬生町本丸1-8-33
営業時間 9:00~17:00(火13:00~)
定休日:月曜日,祝日,火曜午前,年末年始
入場料:無料
ワンポイント(壬生町立歴史民俗資料館HPより)
資料館は古きゆかりの地をしめて…
戦国-江戸時代の壬生域址に開設。
常設展示は壬生のあゆみと文化を基本テーマとして3つのコーナーから構成し一般公開。






2012/06/09 11:30 天候:雨
測定値:0.14μSv(測定器具:エアカウンターS
測定場所:駐車場GL約1000mm(腰高)
ランキングメモ:4,837位(全体)/7位(メタボ)/3位(鉄道)/3,640PV