大学時代の#就職活動は希望の業界に入社が叶わず、大学卒業後は#伯父のコネで、地元の#運送会社に入社した私。事務所の人たちは歓迎ムードだった。社内を仕切っていた#経理の女性の方、現場を回していた男性の方2人、私の上司になる所長さんに挨拶して、社会人生活がスタートしました。事務所内での書類作成や電話対応を朝からしていると、昼前には荷物を運んできた#トラックの#運転手さんたちが次々と帰ってきます。経理の方に運転手が高速道路の領収書を渡して清算する際に、小言を言われている姿を端からよく見ていました。当時はよく理解できませんでしたが、「経費を使わないように」と伝えていたのでしょう。私にはいつも笑顔で接してくれていた経理の方の凄みの聞いた表情が今でも鮮明に思い出されます。 そのような日常が日々繰り返される中、私は社内構内にある倉庫での#フォークリフトの積み込み作業の助手を任されるようになりました。世界的に有名な#タイヤ工場に行き、#軽自動車から乗用車、工場用の大型タイヤまで種類がいろいろあるタイヤをトラックに積み込んでいました。慣れている運転手さんたちは一度に6本以上転がして次々に積み込んでいきます。圧倒される中、必死にできることをやっていました。できる作業をしながら、フォークリフトの免許を取得するため、講習会に3日間行き免許を取得してからは、構内のフォークリフトを運転して、梱包されてパレットに積まれているセメントの材料、ドラム缶に入っている化学物質50㌔だったり、牛や豚の餌になる飼料をフォークリフトに専用の爪を差し込んで、積み込んでいました。新聞記者になりたいとの思いは胸に秘めたまま。 ある日、そんな思いを見透かしたトラックの運転手から「お前、やる気あんのか。ないなら帰れ!」と怒鳴られました。ただ呆然と立ちすくむ私。どうしようもない気持ちに包まれていました。その後は、「運送会社での仕事の経験が#新聞記者の役に立つかもしれない」と怒鳴られた運転手からアドバイスをもらい、懸命に仕事をするようになると心を入れ替えるようになりました。

 

 インターチェンジのジャンクションがある#九州に会社があり、仕事をする運転手、#大阪付近に3日工程で行く運転手、関東圏まで5日工程で働く長距離運転手、様々な方たちに出会いました。気性が荒く曲がったことが嫌いな職人気質な方が多かった印象が残っています。仕事が終わった後は、自宅近くの#図書館へ行き、夜の8時まで新聞を隅から隅まで読んでいました。新聞が大好きでした。その思いは消えるどころか、日に日に増していくばかりでした。就職の世話をしてくれた伯父に運送会社を辞めて、記者になる勉強をしたいと相談した際は反対されました。そのため仕事を続けながら、就職試験を受け、社会人2年目の時に見事内定をもらい入社が叶いました。記者ではなく、営業部の社員でしたが、そんなことは忘れて、とてもうれしい気持ちで転職しました。伯父は反対していましたね。「お前は営業には向かない」と言われましたが、聞く耳を持っていませんでした。伯父さん、運送会社の皆さん本当にありがとうございました。