私が学ぶ「仏の教え」44
私は、パーソナリティー障害について、宇宙と生命の法則に反する生き方をすれば「頭破作七分」になるという視点から見ています。
頭破作七分とは、自身の誤った考えや思想、信じている「ものの見方」、偏った価値観などにより、思考が支離滅裂になり、人格が分裂する状態を指します。
正しい人間の道を説かれている仏の教え、そして、それを現代に応用されている師匠の指導。その法理に反している姿が、思考の乱れとなって現れているということです。
その極端な例が、自己愛性パーソナリティー障害です。
「このタイプの人は、対人関係において、賞讃だけを捧げてくれればいい大多数の者と、しばしば現実面では無能力な本人の世話をし、様々な現実問題の処理を代行してくれる依存対象の二種類を求める」(『パーソナリティー障害』岡田尊司著)と。
彼等には、絶えず自分を持ち上げ、ゴマをすってくれる人と、様々な問題に対処してくれる人。その人たちだけを大事にし、それ以外は眼中にありません。
このような人物がリーダーになれば、同類だけを優遇し、忖度(そんたく)を強要し、仲間同士で、かばい合う関係で、一国や、組織を運営しだします。
そのエゴの犠牲者は、常に民衆であり、庶民です。しかし、それだけではありません。彼らは、やがて味方をも召使いのように、こき使い始めるといいます。
そして、従者でなくなれば、あっさりと切り捨てると。さらに、自分を超えようとする者、抜きんでようとする者がおれば、どうするか。それが次です。
「使い終わったティッシュでも捨てるように、容赦なく排除されるのである。
自己愛性パーソナリティー障害の人にとって他者は、特別な存在である自分のために、何らかの奉仕をする人たちなのである」(同上)と。
要するに、日顕が、為政者が、組織の側からしか見れない幼児が、常にそうであるように、他人は、自分のために存在している、そう思い込んでいる病気なのです。
このような残酷で、傲慢で、そして、哀れで、みじめな姿を、氏は、次のように描いています。
「あまりにも自分が重要なので、他人のことや、問題は、いわば、どうでもいいのだ。ある意味で、他人は、自分の都合や利益のために利用するものでしかない。
利用価値がなくなったり、思い通りに動いてくれなくなれば、その関係は終わりを告げる」(P108)と。
はたして、これほどまでに冷酷で、冷淡で、おおよそ人間の血の通っていないような生物が、現実社会の中に存在しているのでしょうか。いるとしたら現在の「化け物」です。
「止観にいわく『これ則ち、法滅の妖怪なり、またこれ、時代の妖怪なり』云々」(禅宗問答抄)