私が学ぶ「仏の教え」43
「パーソナリティー自体は、その人の人柄であり、そう簡単には変わらないし、変える必要もない。
しかし、パーソナリティー障害は、パーソナリティーの度が過ぎて、社会に適応して生きるのを邪魔している部分なので、変える必要があるし、実際、変えることが出来る」(『パーソナリティー障害』岡田尊司著)。
問題は、様々な経験を通して、何も学ばない場合です。大人になっても人格の陶冶がなされていなければ、曲がった性格によって、人間と社会は多大な影響を受けます。
特に、リーダーの立場を獲得した時、その悪魔性は、一気に噴出します。気づかないうちに、その人によって、最悪な状態へと導かれる可能性があります。
他人は、自らを映し出す鏡でもある。そのことを前提にして、私が注目しているのが、自己愛性パーソナリティー障害です。もちろん、どんな人にも、似たような傾向がありますが、極端に現れた場合の話です。
「自分は特別なのだという意識が、言葉からも、物腰からも、ぷんぷんと漂ってくる。自分は特別な存在であるという意識は、侵すべからざるものであり、そうでない存在に、どこか蔑(さげす)みの目を注いでいる」(p103)と。
自分は総理。自分は最高幹部。自分は法主。自分の考えは絶対。自分は師匠からお墨付きを頂いている等々。このような発言や態度をとる人物がいれば、要注意です。
なぜなら、そういう人間は「自分を賞讃してくれる取り巻きを求める」(p103)からです。自分を讃える者を重用し、あらゆる気配りを要求するからです。
そして「非難されると、耳を貸さずに怒り出す。なかなか自分の非を受け入れようとはしない」(p104)とあるように、異なる意見には、すぐに強制終了します。
それは、貧弱な自己を直視することからの逃避です。私たちが眼前に見ているのは、そのような病的人物が、国際的にも、国内的にも、どこにでもいるという事実です。
「余りにも自分を特別な存在だと思っているので、自分を教えることが出来る存在など、そもそも存在しないと思っている」(p105)と。
私たちは、とんでもない野獣に出会っていることに気づかねばなりません。そして、今、限度を超えた連中によって、危機的状況へと引っ張られています。
それにしても、彼らの実像は、余りにも薄っぺらで、貧相な仮面でしかないことを、岡田氏は、こう暴いています。
「過剰な自信とプライドとは裏腹に、現実生活において、子どものように無能で、依存的であるのも、自己愛性パーソナリティー障害の特徴である」(p105)と。
私たちは、今、この病理の恐さを、人間精神の歪みの現れを、そして、その及ぼす悪影響を、身近に、まざまざと目撃しているのではないでしょうか。
