脳で考える
と、誰もが思っている。
心とは脳のことである
私とは脳のことである
と、誰もがそう思っているのだ、これは驚くべきことだと私は思う。のだが、うっかりそんなことを言うと、百人が百人、妙な顔をする。「この人は、大丈夫だろうか」。
考えているのは脳であり、私の心とは脳のことであるという「思い込み」、この思い込みを根底で支え、また助長もしているのは、言うまでもなく、科学である。人は、科学の言うことはすべて真実であり絶対であると見事に思い込む。これはこれでまた驚くべきことだと思う。
といって、科学の言うことはウソである、間違っているというのではない。そうではなくて、科学的真実とは「科学的」真実にすぎないと、そう言っているだけである。科学とは、真実を知るための一方法にすぎないのだが、人はしばしばそれを忘れる。忘れて、科学の言うことが真実の全体を述べていると思い込む。と、そのときにそれは、明らかにウソとなり、また度し難い勘違いともなるのだ。
科学がその方法によって扱うものは、目に見え手で触れられるもの、すなわち物質である。したがって、「心」や「私」を扱う場合は「脳」、物質としての脳を扱うということになる。
ところでしかし、心とは脳であり、私とは脳であると、なぜまた科学はそう思い込んでいるのか。「心」、そんなものを誰が見たことがあるか、触れたことがあるか。「私」を誰が見たか、触ったか。
脳をどこまで仔細に腑分けしていったとて、「心」も「私」も出てこない。この部位が「心」であり、この細胞が「私」であると、ピンセットでつまみ上げて示すことは絶対にできないのだ。なぜか、明らかだ。「心」も「私」も物質ではないからである。感情とは感じるものであり、あれに触れる人はいない。「私」とは、考えられているこれであり、考えている脳に触っても、これに触ったことにはならない。これは、誰にとっても明瞭な事実ではないのか。
百歩譲って、科学のいうように、「私」とは脳だと認めるとする。ところで、科学の大前提は、主観と客観を截然と分けておくことだった。「私」とは主観であり、客観としての自然とは別物であると。すると、自然物であるところの脳であるところの「私」、これは主観か客観か。認識主観としての「私」が、同時に客観的対象としての脳であるなら、主格二分に基づく科学という認識の全体は、主観的なのか、客観的なのか、どちらなのか。
とはいえ、本当の謎は、これではない。すると、「私」はどこに「居る」ことになるのか、これである。
近代的自我を越えて主格合一の世界観なんて言えると思っているのは、ただの「脳」天気である。脳ではない、すなわち脳には居ないところのこの「私」は、するといったいどこに「居る」ことになるのか、これこそが最も悩ましき謎なのだ。非物質的存在について、空間的位置を問うことの無意味、しかし、「私」はまぎれもなくここに居る。
「私は脳である」、この考えはじつにわかりやすい。わかりやすい以上にこれは、じつは人間の認識にとっては一種の安全弁のようなものであって、下手にこれがはずれてしまうと、かなりアブナイことになるということを、人はうすうすわかっているのに違いない。だからこその「科学」、と言ってもいい。
と、誰もが思っている。
心とは脳のことである
私とは脳のことである
と、誰もがそう思っているのだ、これは驚くべきことだと私は思う。のだが、うっかりそんなことを言うと、百人が百人、妙な顔をする。「この人は、大丈夫だろうか」。
考えているのは脳であり、私の心とは脳のことであるという「思い込み」、この思い込みを根底で支え、また助長もしているのは、言うまでもなく、科学である。人は、科学の言うことはすべて真実であり絶対であると見事に思い込む。これはこれでまた驚くべきことだと思う。
といって、科学の言うことはウソである、間違っているというのではない。そうではなくて、科学的真実とは「科学的」真実にすぎないと、そう言っているだけである。科学とは、真実を知るための一方法にすぎないのだが、人はしばしばそれを忘れる。忘れて、科学の言うことが真実の全体を述べていると思い込む。と、そのときにそれは、明らかにウソとなり、また度し難い勘違いともなるのだ。
科学がその方法によって扱うものは、目に見え手で触れられるもの、すなわち物質である。したがって、「心」や「私」を扱う場合は「脳」、物質としての脳を扱うということになる。
ところでしかし、心とは脳であり、私とは脳であると、なぜまた科学はそう思い込んでいるのか。「心」、そんなものを誰が見たことがあるか、触れたことがあるか。「私」を誰が見たか、触ったか。
脳をどこまで仔細に腑分けしていったとて、「心」も「私」も出てこない。この部位が「心」であり、この細胞が「私」であると、ピンセットでつまみ上げて示すことは絶対にできないのだ。なぜか、明らかだ。「心」も「私」も物質ではないからである。感情とは感じるものであり、あれに触れる人はいない。「私」とは、考えられているこれであり、考えている脳に触っても、これに触ったことにはならない。これは、誰にとっても明瞭な事実ではないのか。
百歩譲って、科学のいうように、「私」とは脳だと認めるとする。ところで、科学の大前提は、主観と客観を截然と分けておくことだった。「私」とは主観であり、客観としての自然とは別物であると。すると、自然物であるところの脳であるところの「私」、これは主観か客観か。認識主観としての「私」が、同時に客観的対象としての脳であるなら、主格二分に基づく科学という認識の全体は、主観的なのか、客観的なのか、どちらなのか。
とはいえ、本当の謎は、これではない。すると、「私」はどこに「居る」ことになるのか、これである。
近代的自我を越えて主格合一の世界観なんて言えると思っているのは、ただの「脳」天気である。脳ではない、すなわち脳には居ないところのこの「私」は、するといったいどこに「居る」ことになるのか、これこそが最も悩ましき謎なのだ。非物質的存在について、空間的位置を問うことの無意味、しかし、「私」はまぎれもなくここに居る。
「私は脳である」、この考えはじつにわかりやすい。わかりやすい以上にこれは、じつは人間の認識にとっては一種の安全弁のようなものであって、下手にこれがはずれてしまうと、かなりアブナイことになるということを、人はうすうすわかっているのに違いない。だからこその「科学」、と言ってもいい。