私とは何か
 私にはそれが不思議でたまらない。ときに、アタマのねじが、あ、はずれる、という感じになる。なぜ、こんな妙なものが、在るのだろう。
 というこの問いの意味、ほとんどの人に通じない。世の人、口を揃えて「私とは何か」と問うているにもかかわらず。
 確かに池田某は妙な人間である。しかし私が妙だと言っているのは、池田某のことではなくて、私とは池田某であると言っているところのその私とは何か、それが妙だと言っているのだ。かなり妙でしょ。
 普通に人が、「私とは何か」という問い方で問うてるのは、じつはあれ、問いではなくて答えなのである。「私とは何か」と問うているところの「私」は、自明の前提としてそっくり信じられているのであって、「とは何か」のそこに、ほんとの私はこんなじゃない、とか、もっと自由に生きたいのに、とか、何かその手の人生訓めいた答えがくることが、あらかじめ知られている問いなのである。私は、そんなの、興味がない。
  私とは何か
 と私が問うときのその「私」は、この顔でも、この名でも、この生い立ち、性格、世界観のどれのことでもなくて、「私とは何か」と今まさに問うているこれ、これは何か、なのである。この否応なさを、デカルトという人は、「我思う(コギト)」の確実さというふうに言ったけれども、彼はしかし、この問いの不思議さをさらに問い続けることをしなかった。「私とは考えるものである」の、その「私」をさらに考え詰めることをしなかったのだ。だからそれが言うところの、「近代的自我」の始まり。私は、私だ。
 そうだ、私は私だ、自明なことだ、恐るべき自明さだ。なぜ世の人皆この自明さを疑わずにいるのか。私はこういう人間である、私はこう思う、私はこうしたい、私はこうしたくない、私はそれはいやだ、私のもの、私のこと、私、私、私~。
  私のしたいことを邪魔するな
 人の世のいざこざとは、だいたいにおいて自己主張のぶつかり合いであることは、認めますよね。でも~どの自己?どの自己のことを人は、他人を蹴飛ばしてでも主張したいほど確実な自己であると信じているのか。そんな確実さは錯覚だ、私は知っている。もしもそうでないと言うのなら、あなたが「私」と言うときのその「私」を指示してみてほしい。どのって、このですよ、と鼻の頭を指す以外の仕方で、示してみてほしい。
「私は」「私は」と、声高に主張し合う人々もじつは、主張している「私」の何であるかを、鼻の頭を指す以上の確実さで知っているわけではないのである。いや、さらに正確には、指してしるのが「私」なのか、指されているのが「私」なのか、それを知ろうとしているのは、誰なのか。そんなわけのわからないもの、他人を蹴飛ばしてまで主張したい気持ちは、少なくとも私には、ない。
どこまでも不思議なのは、指示代名詞としての「私」、「私」というその言葉なのだ。「犬」という語によって、誰もが一律に犬を思うように、「私」という語によって誰もが一律に「私」を思うだろう。ところで、そのときの「私」って、どの「私」ですか。だって、この世の誰もが一律に自分のことを「私」と思ってるのですよ。「私」のイデアって、そりゃいったい何なのです?
 上のような考えを、言葉の遊びだと言うのなら、そう言っているあなたの「私」を、言葉によらずに示してみてください。