前項での死の話は、生が生なのは死があるから生なのだが、死は無であり、無は無いから無なのだから、死なんてものはじつは無い、したがって生もまた人が信じている仕方では確かではない、といった極めて論理的な話でした。
 で、この項は、論理的でなく現実的な話かというと、やっぱりそんなことはないのである。普通に人が、「論理的にはそうだが現実的には」という言い方で言う「現実」という言葉、それをこそ明らかならしめるための論理なのだから、この言い方はあべこべである。そんなふうな逃げ道など最初からないと、潔く腹をくくったほうがいい。現実を現実たらしめているところの論理のほうが、現実以上に現実的なのだ、ヘーゲルという人もそう言った。「すべての現実的なものは理性的である」。別にヘーゲルが言わなくたって、そうなものはそうなのだから仕方ない。私のせいではない。
 私は自分のことを変わっていると思ったことはなかったのだが、あんまり人が変わっていると言うので、どこがそんなに変わっているのか、考えてみたことがある。そして、その最たる要因は、どうやら「いのち根性が全然ない」、というここにあるらしいと気がついた。「いのち根性」、これは私の造語なのだが、とくに生きていたいというふうには思わないのである。したがってそれは、死にたいということともまた少し違うのだが、死ぬのがちっとも嫌でないので、人がなぜ死ぬのをさほどに厭のか、それが私にはわからないのである。
 とはいえじつは、わかっている。普通に人が、死ぬのが嫌だと思っているのは、死んだら、したいこと、したかったことが、もうできなくなるという理由によるようだ。しかし、これはおかしい。なぜなら、死んだら、したいことができないと悔やんでいるところの主体も、無いはずだからである。可能性を失ったと思うところの主体が無いのだから、可能性を失うということも、ないのである。すると人は、何を失うことを恐れて、死を恐れているのだろう。
  失うことは怖くはないが、死んだら無にな  る、それが怖い
 しかし、これもやはりおかしい。無なら無で、やはりできないはずである。
  いや、生の側から見た無としての死が怖い  のだ
 それならなおのこと、これはおかしい。生の側から死を見るとは、いったいどういうことなのか。無を見るとはどういうことなのか。見えたらそれは、無ではないではないか。
 どんなに頑張って、どの角度から考えて見ても、無なんてものは絶対にないのだ。我々には死なんてものは、ないのだ、無なのだ、あり得ないのだ。なのに人は、無であるところの死を恐れる。つまり、現実には「無いもの」を恐れて生きているのだから、こんなに非現実的な態度ったらない。現実を直視せよ。
  無いなら無いで、それに超したことはない  ではないか
 根っからものぐさな体質の私は、むしろそう感じる。確かソクラテスもそういった。「夢をみない眠りほどの幸福は人生にはない。死もまたそうであれば」。
 しかし、である。悔しいかな、ああ悔しい無は無いから無なのだった、我々は、在ることしかできないのだった。生きようが死のうが、存在することしか我々にはできないのだ。
 私などには、このほうが、よほど困る。絶対無を渇望しつつ永劫に存在するこの「私」を、ああ、どうしてくれましょう。