「人生論」という、むろん知ってはいたけれど、とうに忘れていた古めかしい響き、ああ、「あの」人生論~
往年の哲学青年たちは、切なくも甘く、懊悩したのだった、「人生、いかに生くべきか」。
そしてまた、それらの書物は、厳かにも優しく、答えてくれたのだった、「人生、かく生きるべし」。
ところで、この本、新式の人生論。ああ、「あの」人生論と思って手に取ると、おや、うえに「残酷」と、ついている。「残酷人生論」。なんだ、これは。
甘くみるな
この書は懊悩の書ではない
しかしまた、慰撫の書でもない
なんの書かというと、たんなる思考の書である。しかし、この「たんなる」の、世にいかに困難であることか、まさにあれら凡人の人生論の示すところではなかったか。
考えることは、悩むことではない
世の人、決定的に、ここを間違えている。人が悩むのは、きちんと考えていないからに他ならず、きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。なぜなら、悩むよりも先に、悩まれる事柄の「何であるか」、が考えられていなければならないからである。「わからないこと」を悩むことはできない。「わからないこと」は考えられるべきである。ところで、「人生いかに生くべきか」と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか。
悩むのではなく考えるということが、いかほど人を自由に、強く、するものか。
普通に人が、「悩む」という言い方で悩んでいる事柄は、内容としては、人さまざまである。人さまざまに、じつによく人は悩んでいる。しかし、その内容においていかに人さまざまであれ、その形式においてはそれらはすべて、「私とは何か」「なぜ生きているのか」「死ぬのはどういうことなのか」といった、いくつかの基本形に、必ず集約されるのである。「哲学」というものの考え方は、誰がどのように考えてもそのように考えられるという仕方で、これらの事柄を「考える」のであって、これらの事柄を難しい言葉でもって「悩む」のではない。これらの事柄を「個人の悩み」として悩むのでは決してないのだ。だからこそ人は、より自由に、より力強くもなれるのである。
上のような事柄を、考え方の道筋に沿った仕方できちんと考え、納得と確信を手にし、さらなる段階へ進むという道程は、少なくとも私にとっては、切なる悦びなのだった。そして、私がそうだということは、むろんほかの誰もがそうなのだと、こう思っていたのだった。ところが、なんと、人は言うのだった、「それは、残酷だ」。
ならば、私はこう言おう。考えるということは、残酷なことである。ぐずぐず悩むことに人を甘やかさない、ありもしない慰めで人を欺かない、人生の真実の姿だけを、きちんと疑い考えることによって、はっきりと知るというこのことは、なるほどその意味では残酷なことである、と。
むろん、残酷なる真実を知るよりも、甘たるい 悩みに憩っていたい人は、そうすればよろし。人は、自分の望むようにしかいきられないというのも、これはこれでまた残酷な真実であろうからである。
ところで、真実を知ることを残酷だと言えるためには、人は、知られる真実が残酷であるかどうかを、先に知っていなければならないのではなかったか。
ただ真実を知ることをのみ希うなら
さらに、疑え
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往年の哲学青年たちは、切なくも甘く、懊悩したのだった、「人生、いかに生くべきか」。
そしてまた、それらの書物は、厳かにも優しく、答えてくれたのだった、「人生、かく生きるべし」。
ところで、この本、新式の人生論。ああ、「あの」人生論と思って手に取ると、おや、うえに「残酷」と、ついている。「残酷人生論」。なんだ、これは。
甘くみるな
この書は懊悩の書ではない
しかしまた、慰撫の書でもない
なんの書かというと、たんなる思考の書である。しかし、この「たんなる」の、世にいかに困難であることか、まさにあれら凡人の人生論の示すところではなかったか。
考えることは、悩むことではない
世の人、決定的に、ここを間違えている。人が悩むのは、きちんと考えていないからに他ならず、きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。なぜなら、悩むよりも先に、悩まれる事柄の「何であるか」、が考えられていなければならないからである。「わからないこと」を悩むことはできない。「わからないこと」は考えられるべきである。ところで、「人生いかに生くべきか」と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか。
悩むのではなく考えるということが、いかほど人を自由に、強く、するものか。
普通に人が、「悩む」という言い方で悩んでいる事柄は、内容としては、人さまざまである。人さまざまに、じつによく人は悩んでいる。しかし、その内容においていかに人さまざまであれ、その形式においてはそれらはすべて、「私とは何か」「なぜ生きているのか」「死ぬのはどういうことなのか」といった、いくつかの基本形に、必ず集約されるのである。「哲学」というものの考え方は、誰がどのように考えてもそのように考えられるという仕方で、これらの事柄を「考える」のであって、これらの事柄を難しい言葉でもって「悩む」のではない。これらの事柄を「個人の悩み」として悩むのでは決してないのだ。だからこそ人は、より自由に、より力強くもなれるのである。
上のような事柄を、考え方の道筋に沿った仕方できちんと考え、納得と確信を手にし、さらなる段階へ進むという道程は、少なくとも私にとっては、切なる悦びなのだった。そして、私がそうだということは、むろんほかの誰もがそうなのだと、こう思っていたのだった。ところが、なんと、人は言うのだった、「それは、残酷だ」。
ならば、私はこう言おう。考えるということは、残酷なことである。ぐずぐず悩むことに人を甘やかさない、ありもしない慰めで人を欺かない、人生の真実の姿だけを、きちんと疑い考えることによって、はっきりと知るというこのことは、なるほどその意味では残酷なことである、と。
むろん、残酷なる真実を知るよりも、甘たるい 悩みに憩っていたい人は、そうすればよろし。人は、自分の望むようにしかいきられないというのも、これはこれでまた残酷な真実であろうからである。
ところで、真実を知ることを残酷だと言えるためには、人は、知られる真実が残酷であるかどうかを、先に知っていなければならないのではなかったか。
ただ真実を知ることをのみ希うなら
さらに、疑え
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