荒木清「一冊で哲学の名著を読む」を読んで⑯-4 | 昔のテレビ番組や日商簿記1級などの雑記

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昔のテレビ番組が大好きな、日商簿記1級浪人生の映像所有者の雑記です。

【書名】一冊で哲学の名著を読む

【著者】荒木清

【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版

 

【学んだ所】

「存在と無」サルトル

(概要)「わたしたちはどのような存在のあり方をしているのだろうか?」この問題に取り組むサルトルは、ハイデガーの問いを引きずりながらも、ハイデガーをのり超えようとしている。サルトルは博学である。その多彩は、存在論とわたしたちの現実-自己欺瞞・羞恥・欲望・無関心・誘惑・恋愛などの間を突き進み、わたしたちに存在への問いを仕掛けている

 

行動と自由

  • 持つ」「為す」「あるは、人間存在の基本的な行為のカテゴリーである。人間のあらゆる営みは、この三つのいずれかに包摂される、とサルトルはのべる。
  • 行動するとは、ある目的のためにいろいろな手段を講じること。⇒行動は、「動機ー志向ー行為ー目的という複雑な組織のかなたにある動因は目的によってしか理解されない
  • 給料の安いサラリーマンがみじめな給料に甘んじるのは、いうまでもなく、恐怖のためである。恐怖はひとつの大きな動因である。給料がなければ、生活に困り、生命維持に関係してくるかも知れない。このとき恐怖は、わたしに生命維持にあたえている価値と関係してくるこのみじめな状況を変え、我々の可能性へ向かうには、この状況を打破するしかないと思うところに、たとえば、ストライキがある。この変革に向かった自己を投企する(脱自する)ときに、自由が生まれる自由はこれ以外の本質をもたない自由はひとそれぞれである。
  • 対自はそれがあるところのものであらぬと同時に、それがあらぬところのものであるという言い方、対自においては、実存が先行し、本質を条件づけているというサルトルの言い方はみな、要するに、人間はそれぞれの仕方において自由であるということを言い表している。いいかれば、人間は自由であるように運命づけられてるのである。
  • 人間存在が自由であるのは、人間存在が十分には存在していないからである。⇒「人間存在がそれであるところのものから、一つの無によって、切り離されているから。この無が、人間存在を、存在する代わりに、自己を作るように強いるから。このとき我々は、状況に向かって選択する自己投企するのである。ハイデガーは、自由のなかに見捨てられているといったが、この「見捨てられた情態は、自由そのものである。
  • わたしはわたしの存在の仕方において、わたし自身でわたしを選ぶのでないかぎり、他の存在者たちのただなかにあるこの存在を、世界・内・存在実感することはできないこのように人間は、自由であるように呪われているとサルトルはいう。それだからこそ、最悪の状況に対しても、対自(わたし)は誇らしい意識をもって引き受けなければならないのである。この状況はわたしが選んだのである。わたしは、わたしが全責任を担っている世界のなかにただひとり、助けもなく見捨てられ、拘束されているわたし自身を見いだすわたしはこの責任から、一瞬たりともわたしを引き離すことはできない。⇒サルトルはこのように、実存的な生き方の逃げ場のないことを、誇りをもって宣言する