【書名】一冊で哲学の名著を読む
【著者】荒木清
【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版
【学んだ所】
「存在と時間」ハイデガー
・「わたしたちは本当に存在しているといえるのか、存在の意味とは何か」というもっとも根源的な問いに真正面からぶつかっていた哲学者がハイデガーである。彼は「存在の探求者」といわれ、現代人の存在の危うさを鋭く追究する。
・(概要)わたしたちの存在=現存在は、問うことのできる存在である。また、他の世界・内・存在とともに生きている世界・内・存在である。その実存の意味を真正面に据えて、ギリシャ以来の哲学と現象学をふまえて、この存在の問題を探究する。
・死への存在
- 現存在は、その死に至るまで、自分の存在可能に関わっている。⇒この可能性の存在のなかには、その人独自の態様がある。⇒しかも、未回収の存在で、可能性はなお残存している。⇒したがって、「不断の未完結」として存在している。
- 我々が本来の自己を取り戻し、実存した途端に現存在はまた「もはや=現に=存在=しないこと」になってしまう。⇒現存在が存在者として存在するかぎり、現存在はその自分の「全部全体」を決して実現しない。
- 死においては、「現」の存在の喪失である。⇒この死への移行は経験したものとして了解される。⇒経験とはいうまでもなく「他人の死」である。
- 死んでしまった他人の現存在からつぎのようなことが了解される。
- 死ぬこととは、世界・内・存在を失うこと。「世界から出てゆくこと」
- 「死んでしまった死体」はもはや世界内に存在しないこと。
- 死体は、いのちの無い物質「より以上」で、我々は敬意を払いながら、配慮し顧慮する対象である。⇒死者に対しては葬式・埋葬・墓参し、祈る。⇒死者がまた、我々に了解させるのは、「死は代理できない」ということ。⇒そして、自分の死は自分のもの。死は独自独個の存在可能性であり、各自の実存によって構成されている。
- 死の究明は、まとめると三つの提言となる。
- 現存在が存在するかぎり、死は「未だ=ない」(未済)である。
- そのつど、「未だ=終り=には=存在して=ないもの」が「終わりになること」
- 終ってゆくことは、そのつど、現存在にとって、まったく代理できない。
- 現存在が全体性に到達すると生涯を完了し、死ぬ。⇒しかし、死とともに成熟に達す必要はない。成熟を踏み越えたところに死があることもある。
- 現存在は、「未だ=ない」で在るように、つねにその終りでもある。⇒死ぬことは、どの現存在もそのたびごとに、自分で引き受けなければならない。
- 死ぬことは、各自性と実存によって構成されている。
- これまでみてきた「未だ=ない」「いずれ」「完結」という死の存在には、時間が潜んでいる。=これらはすべて時間のなかで起きている。⇒つまり、「存在と時間」の関係のなかにある。