荒木清「一冊で哲学の名著を読む」を読んで⑨-3 | 昔のテレビ番組や日商簿記1級などの雑記

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【書名】一冊で哲学の名著を読む

【著者】荒木清

【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版

 

【学んだ所】

「精神現象学」ヘーゲル

精神的なものだけが現実的なものだという有名なことばから、自己意識、理性、精神、宗教を見渡して絶対知に到達するヘーゲル哲学は、観念哲学ともよばれ、のちの実存主義者たちに批判的な影響をあたえた。ヘーゲルの思想体系は、今日でも大きな意味をもっている。

(概要)ヘーゲルはこの大著をいま・ここというだけの観念的素材で、観念の世界を絶対知まで壮大に旅をする知の生成過程をのべたの本著である。

 

耐える精神-精神と疎外

  • 心の掟は、まさしく実現されることによって、心の掟ではなくなるいったん実現された掟はこんどは共同体権力となり、個人の心にとってはよそよそしいものとなる
  • 自分の秩序は、発現されることによって、自分の秩序と思えなくなる。⇒そして、嫌悪するに至るこうして、共同体精神と自己意識という二つのあいだに対立する秩序をかかえた自己意識は、矛盾をかかえ込み、内面深く混乱に陥っているこの矛盾にある意識は、共に自己意識の本質であり、現実である。この矛盾した自己意識がすすむと、意識は錯乱し、うぬぼれ、狂気へと発展してゆく
  • 共同体秩序こうして、個人の秩序から離れてゆき、欺瞞となってゆく共同体精神はもはや、「世のならい」として各人の思い込みのうちにしかないしかし、こうした近代の徳性の虚しさを知った個人は、共同体精神は世間の現実のすがたであることそんなに悪くないこととみなすようになる共同体精神は、じつは思いこみ以上のものであり、潜在的な善を実現する共同の行為であることに、気づく。つまり、個人が自分のために行為するとき、この自分のための行為こそが潜在状態にあるを現実へともたらす行為であることに気づく。
  • こうして、抽象的な共同体精神に生命があたえられ個人の生き生きとした動きが、そのまま共同体精神を体現することになる。
  • つまり、意識は自然に共同体へと向かい、共同体にしたがって生きている共同体が意識の外へ押し出された存在意識が自己を疎外することによってはじめて一体化できるような存在ではない
  • こうして共同体精神は、自己と共同体(社会)とは互いに疎外するという関係がうまれる一つの精神であると同時に、切り離されて対立する二重の世界を形成してゆく自己意識がその対象ともども現実のものとしてある世界と、その彼岸にある、現実ではない信仰の世界へと。⇒「人間の掟神の掟へと分裂してゆく。⇒この道はまた、洞察力にもとづく教養と、神の国への信仰の世界という二つの世界へと分裂し対立する関係が生まれる
精神の王国-絶対知にいたる道
  • 自己意識は、自己が内容空虚であり、自分の人格は非現実的な存在という不幸な自己意識のうちに、自分のすがたを見いだすしかない。⇒この不幸な自己意識は、自己喪失の意識であり、自分の知の外化になる。
  • 悲劇的運命を担う精神=絶望というときそれは自己喪失の意識であり絶対的な価値の喪失である。⇒しかし、この絶望をとおして、否定の力によってはじめて、耐える精神はうまれてくるこの絶望を克服しようとするとき、自己を知ろうとする精神がうまれてくる。⇒このとき、絶対的精神の存在が確信され信仰する精神が、絶対精神という神という存在を見その存在に触れ、その存在の声を聞くこれが啓示的宗教体験
  • この神がイメージされ、人間のかたちをとることを受肉という。⇒この受肉したものがイエス・キリストつまり、このとき、神は精神だ、と知らされる神は、自己意識を本質とする存在だ、ということが知られる。⇒この絶対神が精神として意識の対象となるとき、神は自己のものとなる
  • こうして、神の本性と人間の本性は同じものであるという純粋な思考によって、二つの世界の統一がみてとれるこうして、啓示宗教において精神の疎外は克服されてゆく
  • この自己を確信する精神は、自分の概念のうちにとどまる美しい魂であり、神を直観するだけでなく、神が自分のうちにとどまることを直観する自己意識である。この純粋な自己意識は、自己を神として知る知であって、そこでは対象と自己とがおなじものとして向き合っているここに精神の最後の段階があらわれたそれこそが絶対の知である。
  • 以上のことから、経験のうちにあるものだけが真理であり、永遠として内面に啓示され、神聖と信じられるものつまり、これまでみてきた、自分に還ってゆく過程をとおして、精神は本来の精神となるすべては円環を描いて自分へと還ってゆく運動その最終段階でようやく絶対知に到達した。