【書名】一冊で哲学の名著を読む
【著者】荒木清
【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版
【学んだ所】
「精神現象学」ヘーゲル
・「精神的なものだけが現実的なものだ」という有名なことばから、自己意識、理性、精神、宗教を見渡して「絶対知」に到達するヘーゲル哲学は、観念哲学ともよばれ、のちの実存主義者たちに批判的な影響をあたえた。ヘーゲルの思想体系は、今日でも大きな意味をもっている。
・(概要)ヘーゲルはこの大著を「いま・ここ」というだけの観念的素材で、観念の世界を「絶対知」まで壮大に旅をする。知の生成過程をのべたの本著である。
・耐える精神-精神と疎外
- 心の掟は、まさしく実現されることによって、心の掟ではなくなる。⇒いったん実現された掟はこんどは「共同体権力」となり、個人の心にとってはよそよそしいものとなる。
- 自分の秩序は、発現されることによって、自分の秩序と思えなくなる。⇒そして、嫌悪するに至る。⇒こうして、共同体精神と自己意識という二つのあいだに対立する秩序をかかえた自己意識は、矛盾をかかえ込み、内面深く混乱に陥っている。⇒この矛盾にある意識は、共に自己意識の本質であり、現実である。⇒この矛盾した自己意識がすすむと、意識は錯乱し、うぬぼれ、狂気へと発展してゆく。
- 「共同体秩序」はこうして、個人の秩序から離れてゆき、欺瞞となってゆく。⇒共同体精神はもはや、「世のならい」として各人の思い込みのうちにしかない。⇒しかし、こうした近代の徳性の虚しさを知った個人は、共同体精神は世間の現実のすがたであること、そんなに悪くないこととみなすようになる。⇒共同体精神は、じつは思いこみ以上のものであり、潜在的な善を実現する共同の行為であることに、気づく。=つまり、個人が自分のために行為するとき、この自分のための行為こそが潜在状態にある「善」を現実へともたらす行為であることに気づく。
- こうして、抽象的な共同体精神に生命があたえられ、個人の生き生きとした動きが、そのまま共同体精神を体現することになる。
- つまり、意識は自然に共同体へと向かい、共同体にしたがって生きている。⇒共同体が意識の外へ押し出された存在-意識が自己を疎外することによってはじめて一体化できるような存在ではない。
- こうして共同体精神は、自己と共同体(社会)とは互いに疎外するという関係がうまれる。⇒一つの精神であると同時に、切り離されて対立する二重の世界を形成してゆく。=自己意識がその対象ともども現実のものとしてある世界と、その彼岸にある、現実ではない信仰の世界へと。⇒「人間の掟」と「神の掟」へと分裂してゆく。⇒この道はまた、洞察力にもとづく教養と、神の国への信仰の世界という二つの世界へと分裂し、対立する関係が生まれる。
・精神の王国-絶対知にいたる道
- 自己意識は、自己が内容空虚であり、自分の人格は非現実的な存在という「不幸な自己意識」のうちに、自分のすがたを見いだすしかない。⇒この不幸な自己意識は、自己喪失の意識であり、自分の知の「外化」になる。
- 悲劇的運命を担う精神=「絶望」というとき、それは自己喪失の意識であり、絶対的な価値の喪失である。⇒しかし、この「絶望」をとおして、否定の力によってはじめて、「耐える精神」はうまれてくる。=この「絶望」を克服しようとするとき、自己を知ろうとする精神がうまれてくる。⇒このとき、絶対的精神の存在が確信され、信仰する精神が、絶対精神という神という存在を見、その存在に触れ、その存在の声を聞く。=これが啓示的宗教体験。
- この神がイメージされ、人間のかたちをとることを「受肉」という。⇒この受肉したものがイエス・キリスト。=つまり、このとき、神は精神だ、と知らされる。⇒神は、自己意識を本質とする存在だ、ということが知られる。⇒この絶対神が精神として意識の対象となるとき、神は自己のものとなる。
- こうして、神の本性と人間の本性は同じものであるという純粋な思考によって、二つの世界の統一がみてとれる。⇒こうして、啓示宗教において「精神の疎外」は克服されてゆく。
- この自己を確信する精神は、自分の概念のうちにとどまる「美しい魂」であり、神を直観するだけでなく、神が自分のうちにとどまることを直観する自己意識である。⇒この純粋な自己意識は、自己を神として知る知であって、そこでは対象と自己とがおなじものとして向き合っている。⇒ここに精神の最後の段階があらわれた。=それこそが「絶対の知」である。
- 以上のことから、経験のうちにあるものだけが真理であり、永遠として内面に啓示され、神聖と信じられるもの。=つまり、これまでみてきた、自分に還ってゆく過程をとおして、精神は本来の精神となる。⇒すべては円環を描いて自分へと還ってゆく運動=その最終段階でようやく「絶対知」に到達した。