【書名】一冊で哲学の名著を読む
【著者】荒木清
【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版
【学んだ所】
「社会契約論」ルソー
・人民主権論の根拠を説いた政治哲学の書である。国家権力の正当性、法の妥当性の根拠を明らかにし、公共の利益のみをめざす(一般意思)にもとづく契約によって社会は成り立つという人民主権論。自由・平等・博愛の思想は、フランス人権宣言へと受け継がれてゆく。
・(概要)「人間は自由なものとして生まれたのに、いたるところで鎖につながれている」という有名な一節ではじまる。この鎖とは独裁的支配の鎖ではなく、合法的政治一般の鎖であり、人がこの合法的拘束に服する正当な理由とは何かをこの「社会契約論」で明らかにする。
- 人間は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、じつはその人びと以上に奴隷なのだ。
- 家族こそもっとも古く、自然なものである。⇒子どもと父親を結びつけているのは、子どもにとっては、自分たちを保存してくれる間だけである。⇒この必要がなくなると、この自然な結びつきは解ける。⇒このとき、子どもは父親に服従する義務をまぬがれ、父親は子どもを世話する義務が解かれる。⇒もし、相変わらず結びつきがあるならば、それは互いの自由意思によるものである。⇒この両者の自由意志は、人間の本性の結果。⇒人間の本性は、このように自己保存をはかること。=第一の配慮は自分自身の保存に対する配慮。
- 人が成長して理性をもち、自分で判断して自己保存を企れるようになると、そのあとは、父も子も自分の自由意思で家族の結びつきを判定している。⇒家族はいわば、政治社会の最初のモデルとなる。⇒支配者は父親に似ており、人民は子どもに似ている。⇒両者ともに、自分の役に立つかぎりにおいて育ててもらう自由=子ども、育てる自由=父親を譲りわたさない。
- アリストテレスを含めて、人間は奴隷になるために生まれたものと、主人となるために生まれたものとがいて、平等に生まれなかったというこれまでの説の間違いをルソーは指摘する。⇒人間は本来、平等に生まれついているという思想の始まり。
- 最も強いものとは、他人が自分に服従するという義務をもたないかぎり、強いものの権利は発生しない。⇒「おれがいちばん偉いんだ」と親父が思っていても、妻も子どももだれもそうは思っていなかったら、強いものの権利はもっていないことになる。⇒服従しなくても罰せられないとなれば、服従する義務をもたなくてすむ。
- 強いものの原理のもっとも単純明快な原理は暴力。⇒しかしこの暴力は、安定した服従をさせる権利ではない。⇒父親よりも息子の暴力が強くなったとしても、支配の権利が、息子に受け継がれることには現実にはならない。
- もし、力のために服従しなければならないとしたら、義務のために服従する必要はなくなる。また、権利ということもなくなる。⇒権力の根源は神からでてくることは認めるが、暴力のような力は、権利を、そして服従する義務を生み出さないと主張する。⇒なぜなら、ひとは正当な権力にしか従う義務がないから。
- 人間は平等に生まれついて、ほかの人間に自然的な権威をもつものではない。⇒そうだとすれば、権威の基礎には約束だけがのこる。
- 自分の自由を放棄することは、もはや人間たる資格、人類の権利と義務を放棄することになる。⇒これは人間の本性と相容れないこと。⇒つまり、一方に絶対の権威をあたえ、他方に無制限の服従を強いることは、空虚で矛盾した約束。=社会契約でいう約束ではない。
- ルソーは、人間が平等に自由を維持している自然状態が、限界に至ることを想定する。⇒自然状態に危機が生じてきたとき、この状態にとどまろうとする抵抗力が生じてくる。それには生存の仕方は変えるしかない。⇒それには、人間は集合することによって力の総和を作り出す。⇒その力の総和を、ただ一つの原動力として社会を動かそうとする。⇒ルソーのことばでいえば、「各構成因の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見いだすこと。それによって各人が、すべての人びとと結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」という社会体制を見いだすこと。
- 上記のような社会体制ではひとは、自分自身にしか服従せず、自由である。⇒そこでは、身体と財産を共同の、個人で守るよりずっと確かな力で守り、保護できる。⇒このような、夢のような社会体制はどうしたらできるのか⇒社会契約が根本的な解決をあたえる。⇒この契約の諸条項は、ゆきつくところつぎのようなただ一つの条項に帰着する。「各構成員は自分をそのすべての権利とともに、共同体全体にたいして、全面的に譲渡すること」⇒つまり、自分自身と権利を共同体全体という力の総和を投げ出すこと。
- 各人は自己をすべての人にあたえて、しかも誰(特定の君主などの個人)にも自己をあたえない。⇒こうすれば、ひとは失うものと同じ価値を手に入れ、所有するものを保存するためにも、一人の力を超えた大きな力を手に入れる。⇒このような社会契約はつぎのようなことばに帰着する。「わたしたち各人は、身体とすべての力を共同のものとして、一般意志の最高の指導下におく。そしてわたしたちはその各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受けとる」⇒この一般意志が社会契約の中心をなす。
- 一般意志は、公共の利益のみをめざす普遍的な意志。⇒社会契約において、個々人は自分の特殊意志(個人の特殊な利益を求める意志)を放棄して、この一般意志に従いあうことを誓いあう。⇒このとき、二重の契約がなされている。⇒一つは公共=一般意志と個人の間に、もう一つは個々人が自分自身と契約している。⇒つまり、この一般意志が、主権。⇒この場合、個々人は主権者の構成員。また、主権者に対しては国家の構成員として約束している。⇒ここに政治体または主権者が生まれる。⇒この主権者は、存在理由を神聖な社会契約にのみに基づいているから、社会契約に背くようなことはできない。⇒たとえば、他の主権者に服従するようなことは社会契約を破ることになる。
- 主権者の目的は共通の善のための法をつくること。⇒法は、市民の真の善のために定めたことを現実化してくれるかぎりにおいて、正当。⇒それはまた、「あるがままの人間」の自由を支える原理。⇒また、この正当な法から生じる義務を果たそうとしないことは、この社会契約を空虚なものにすることになる。
- ルソーは、「自由なものとして生まれてきた人間」の自由を尊び、正当な理由をもたない「鎖」から、解き放そうとする。
- 政治体は何をなさねばならないのかそれは立法。⇒正義はたしかに神からきたもの。⇒もし、神からきた普遍的正義を、我々が受けとめる力があれば、政府も法も必要ない。⇒しかし、現実には法がなければ「悪人の幸い、善人の不幸」となってしまう。⇒そのためには社会契約によって、権利を義務に結びつけ、正義を約束と法によって規定しなければならない。また、すべての権利は、法によって規定されなければならない。
- 法とは、全人民に関する取り決めをすること。⇒このときにまず、ある個人を、ある個人の行為を対象として法を取り決めてはならない。なぜなら、個人や個人的行為を考えた法であるならば、それは特権の存在をあたえることになるから。⇒法が一般意志に基づく以上、特権や階級を認めれば、それはもう法ではない。それは特権階級の命令となる。
- このような法を作るに当たっては、導き手が必要となる。⇒導き手はその一般意志を理性に一致させる能力のある人。=このような人を立法者という。
- まず立法者は、社会についての最上の規則をみつけるために、すぐれた知性が必要。⇒知性は人間の情熱や性質をよく知っていて、それらの人となんのつながりをもたず、自分の幸福よりも人民の幸福のために喜んで心をくだき、時代の進歩のかなたに光栄を用意しながらも、一つの世紀において働き、のちの世紀において楽しむことができる、そういう知性でなければならない。
- 立法者=政治家はまず、神にちかい知性がなければならない。⇒知性は人の心や性質をよく見通せる人でなければならない。⇒かといって、特定の人と癒着してはならない。⇒そして時代の先を見通すことのできる人。
- 立法者は、天才に近い人。特別で優越した仕事。⇒しかし、法を支配するもの(立法者)は、人びとを支配してはならない。⇒なぜなら、立法者が人びとを支配するようになると、立法者の利益をもくろむ不正が永続化していくから。このときはもう、立法者とはよべない。
- 行政が巨大化すると、人民の負担は高くつくようになる。⇒それだけではなく、政府の法律を守らせ、職権濫用をふせぎ、悪弊をただす力と敏活さは弱まるばかりであり、人民の幸福をめざす処置などをとる余地がなくなると、政府の巨大化を非難する。
- 立法に適する人民=期待される国民像とは、隣国間の抗争に巻き込まれずに、独力で隣国に抵抗でき、また、侵攻してくる隣国に他の国と助け合うことのできる人民。⇒それと外交力のある政府をあげている。⇒また、人民は他の人民を知り抜いており、一人の人間に大きな負担を負わせない人民、金持ちでも貧乏でもなく、自給自足できる人民。⇒要するに、古代の人民の堅実さと近代の人民の従順さをあわせてもつ人民である。