【書名】一冊で哲学の名著を読む
【著者】荒木清
【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版
【学んだ所】
「人間知性新論」ライプニッツ
・ロックの「人間知性論」を読み、多くの示唆を受けたライプニッツは、認識には生得的なものが何も含まれていないとするタブラ・ラサへの反論を書く。そして「人間知性新論」と名づけるが、この書には、後世への影響力を多く含んでいた。
・(概要)ライプニッツはこの著書を、プラトンの対話編になぞらえて、ふたりの対話という形式で論をすすめてゆく。一人はフィラレート=ロックを代弁する。もう一人はテォフィル=ライプニッツ自身を代弁する。したがって本書はロックの「人間知性論」をもとに、それを批判する書として構成されている。
- 魂はもともと多くの概念や知識の諸原理をもっており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす、つまり、生得的なものが喚起される、というプラトンの想起説に近い立場をとる。
- 感覚は、我々の現実的認識すべてにとって不可欠であるが、現実認識すべてをもたらすには十分ではない、と主張する。
- ライプニッツは、感覚は個別的真理をあたえるだけで、普遍的必然性を確立するには不十分という。⇒その理由として、数学や幾何学の必然的真理(公式)は、感覚には依存していないから。⇒また、賢い人は、経験にはそれほど信をおかないで、その事象から何らかの理由や確実な法則を立てようとするから。⇒したがって、ロックは何も書かれていない板つまる白紙のタブラ・ラサを喩えに用いたが、わたし(ライプニッツ)だったら、模様入りの大理石を用いたのに、という。
- 我々は生得的に、観念や真理をもっており、それらが傾向、態勢、習慣、自然的潜在力として、生得的にある。
- この生得的なものは、つねに表象意識されているものではない。⇒必要に応じて喚起され、我々を補強してくれている。=きっかけをえると、ふだんは忘れいても、すっかり思い出すことができる。⇒ライプニッツは、我々の意識表象にはないようにみえることも、あるきっかけで意識表象にあらわれてくる、という。
- プラトンは、観念について完全な、「明晰判明」なイデアが、前もって魂にあり、現実の事象は、それを思い起こすことによってのみ生じてくるという想起説だった。⇒ライプニッツは、それでは我々の魂はあまりにも空虚で、かわいそう、という。⇒イデアを思い起こすだけであったら、我々は、自分のうちに、なにも発掘できないではないか、という。=ライプニッツは、想起説を大筋では認めながらも、その意識表象のあり方を否定する。
- つまり、意識表象は、自分のうちにあるものを発掘し、展開させることによって、魂にもたらされる、という。
- 我々の精神は、いつも思考しているものではない。⇒我々のうちには、意識表象も反省もされていない無数の表象が絶えずあり、意識のなかにおいて、また、それは魂そのもののうちにあり、それが我々が意識表象している諸変化である、という。
- しかし意識表象は、あまりにも微小でありしかも多数であり、また単調ではあるので、その結果、十分識別できないものであり、意識表象に上らない。
- また、魂や身体の受けている印象が、新鮮な魅力がなくなって、注意力や記憶を喚起するほど十分でなくなっていると、我々の注意や記憶力は、もっと関心をよびおこす対象にだけ注がれる。⇒ただし、これらはだれかが警告してくれれば、すぐに思い出し、ある感覚をもつもの。⇒これらを、微小表象といい、海のざわめきに似て、意識に上らない表象、気づかれない表象。⇒これら感じ取れない表象は、同一の個体を指示し、構成している。⇒したがって、神のように透徹した眼をもてば、実体の最小のものをとおして、宇宙の事物の全系列を読みとれるとさえいえる、とライプニッツはいう。
- こうして、魂と身体とのあいだの「モナド」すなわち、非物質的・精神的なもので、これ以上分割できない最小単位も、これらの微小表象で説明できる。
精神のうちに、生得的な原理はあるか
①観念や概念は生得的であるか
- 魂の思考と活動はすべて、感覚によって魂に与えられることはありえない。魂自身の奥底に由来する。
- 神の概念は、わたしたちの魂の奥底にあるもの。一種の本能によって、刻み込まれている。=本能によって刻み込まれた神の概念は生得的である。
- 我々はつねに意識しているのではなく、必要なときにさえ意識していないような認識が無数にある。⇒それらの認識を保存するのは、「記憶」。⇒再現するのは想起の働きとよばれている。⇒想起は、しばしば必要に応じて、助けにくる。
②道徳=モラルは生得的か
- 道徳は論証できない原理をもつ。⇒ひとは喜びを求めて悲しみを避けるが、それは理性によって純粋に認識される真理ではない。⇒それは理性によってではなく、本能によって知られる。
- 我々の傾向性は、至福よりも現在的な喜びに向かう。⇒未来や持続に向かわせるのは、理性。⇒傾向性(=喜びや善へと向かう魂の働き)が知性によって表出され、教訓や実践の真理となる。⇒したがって、傾向性が生得的であれば、実践の真理もまた生得的。
- 生得的真理には、理性の光と本能という二通りの仕方がある。⇒気に入っているからという場合は本能によって、正しいからという場合には理性によって、人間的な行為を営む。⇒それゆえに、我々のなかには、生得的原理であるような本能の真理がある。
人間の魂は常に思考しているか
- 観念は内的対象であり、この対象は事物の本性ないし性質の表出である。⇒観念は対象だからこそ、思考より前にも後にもありうる。
- タブラ・ラサは自然が赦さない虚構でしかない。⇒哲学者の不完全な概念にしか基づいていない。⇒魂が我々のうちにある観念に注目するには、経験が必要である。
- 魂は、存在、実体、一、同、原因、表象、推論、そして感覚があたえることのできない他の多くの概念を含んでいる。⇒このことは「人間知性論」の著者の考えと一致する。
- ひとは、夢を見ていないときでさえ、眠っている間はかすかにでも、必ず、何らかの感覚をもっている。⇒目覚め自身がそれを示している。⇒目覚めるのが容易であればあるほど、外部で起こっていることの感覚をもっている。
- 我々は眼や耳を刺激する対象をつねにもっており、ほかの対象より強力な注意を喚起するまでは、別の諸対象につなぎとめられている。=いわば、その対象に関しては、特殊な睡眠状態にある。
- 身体と魂との間にはつねに正確な対応がある。⇒けれどもそれら全部が意識されるわけではない。⇒睡眠中や目覚めているときでも、魂を動かすようなことを妨げる刻印がすでに身体のうちにあるとしたら、魂と身体の結合に限界を設けなければならない。
- 魂の思考が合理的であろうとなかろうと、身体は魂のあらゆる思考に対応する。⇒また、夢は目覚めている人の思考と同様、脳のうちにその痕跡を残す。
認識と真理について
- 認識はさらに真理へとすすむ前に、多くの観念のうちに見いだされる。⇒多くの概念や明快な観念を表象する習慣は、多くのことを理解するのにふさわしい。
- 結合とは比較あるいは関係。⇒すべての関係は比較の関係か、符号の関係。⇒そこから、差異性と同一性が生まれる。⇒異なるものと類似するもの、類似しないものが生まれる。⇒符号は観念と結合している概念をもつ。⇒二つの概念の間には結合があり、観念の対象の現実存在を我々との符号と考えることができる。