現役時代に、スポーツ栄養学をそれなりに勉強し、自分で料理をしながら体づくりは食事から!と気合いを入れていた時期があった。
そのあと10年以上、抗加齢学の側面から栄養を自分なりに真面目に勉強した。
酵素栄養学も、マクロビオティックやveganも実践してみた。その理屈に対する賛否の存在と理論も知った。
分子栄養学とサプリメンテーションを少ーし学び、かつ日々の食費の一環だと認識して出費を惜しまず色々自分で飲んで体験した。
傍らで栄養や健康に関する色んな批判本や肯定理論に目を通した。
この分野は理解そのものを環境問題にも広げないと全体像を把握しきれないという壁にぶち当たった時に、知りたいことの本質がブレそうになったこともあった。
点滴もしてみた。
飲み水や風呂の水という生活用水にも気にかけてみた。
良いと言われるものは自分なりの理解できる医学的角度から納得のいくまで調べ抜き、
良いと直感できたものは片っ端から試したことになるのかもしれない。
それぞれがそれぞれに、良いものだった。
でもカラダと頭には常に疑問が付きまとっていた。
良かれと思いせっせと取り込む価値の高いであろう最新の素材たちに有り難みを持とうと意気込む傍らで、
その知識と物質を得るのに費やした時間とコストが事実として存在し意識内に見え隠れするため、
『自分にとって有効なものであるに“違いない”と思い込もうとしている』節はないのかという揺れ動く気持ちが必ず付きまとってきた。
メガビタミンも点滴補給も、
腸をはじめとした消化器官系の状態が最良でなければ効果は薄い。
最新科学に基づき開発された抗酸化サプリメントでも、開いた口がふさがらない程の美魔女が紹介する魅力的な美容液でも、
不要・過量な栄養摂取による細胞のダメージを補正するには至らない。
良質なサプリメントも、価値の高い素材を含む料理も、
余分な量や質が一緒にあると素材の機能が発揮されない。
“良いもの”を摂っていれば「ちょっとくらい悪いものを食べても」という気分になりがちだけど、それでは全くもった良い素材にお金を費やす意味をなさない。
からだを“敬う” というのは、からだの声に耳を傾けることであり、
細胞と会話をするつもりでからだの反応を正直に受け止めることであり、
それがどんな反応であっても認めること、無茶をしたなら反省して次は改めることであると思う。
細胞さんに同じ不快な思いをさせないよう努力して差し上げることだと思う。笑
本当に大切な『ホンモノ』は、最新の医学知識の量でもなく質でもなく、
カラダの声を、聴き直すこと
だったのかもしれない。
(と、今ごろ感じてる…。)
現代に生きる自分にとって必要なことは、
整理すること。
要るものと要らないもの の整理を「実行する」ことでした。
情報が錯綜する現代では良いものにすぐ飛びつきたくなる、お金をかけてでも優先したくなる。
一度その味を占めたら知識も物質も、覚醒剤の如くもっと、もっと、と欲しくなる。
でも、求めないこと、
このことは美味しい食べ物や栄養の話、ダイエットや健康法の話のようで、
実は生き方そのものの整理や「見直し」のことでもある気がしてきた。
ずっと大切にしたいと思う2つの本には、
共通点がある気がする。
↓
そんな最近のMasaでした!