とうとう空手体験入門の約束をとりつけた。
先日、宗家からご紹介頂いたM先生に電話してみた。
「はい。Mですが・・・。」
「M先生ですか?沖縄のN先生からの紹介でお電話させて頂きました。」
「あぁー、聞いてますよ・・・。明日、丁度、朝稽古があるからいらっしゃいますか?」
今までと違って、随分丁寧な方であった。空手の先生とは思えない口調。
「あっ、はい。」
「では、7:30に始まりますから・・・。」
(以降、思いっきりウチナーのイントネーションでご説明頂いた。)
「わかりました。宜しくお願いします。」
いよいよ、明日は体験入門ということになった。
でも、明日7:30って、2県隣だろ?高速で向かっても、1時間半はかかるよな・・・。
明日、5時に起きて余裕をもって行かなければ・・・・。
そんなことを考えながら、早く寝なくてはと思いつつも眠れない夜でした。
初体験の空手入門・・・。どうなるか
「はい。Mですが・・・。」
「M先生ですか?沖縄のN先生からの紹介でお電話させて頂きました。」
「あぁー、聞いてますよ・・・。明日、丁度、朝稽古があるからいらっしゃいますか?」
今までと違って、随分丁寧な方であった。空手の先生とは思えない口調。
「あっ、はい。」
「では、7:30に始まりますから・・・。」
(以降、思いっきりウチナーのイントネーションでご説明頂いた。)
「わかりました。宜しくお願いします。」
いよいよ、明日は体験入門ということになった。
でも、明日7:30って、2県隣だろ?高速で向かっても、1時間半はかかるよな・・・。
明日、5時に起きて余裕をもって行かなければ・・・・。
そんなことを考えながら、早く寝なくてはと思いつつも眠れない夜でした。
初体験の空手入門・・・。どうなるか
体験入門への連絡
ということで、伝統空手の一つを体験入門してみようかと思い、連絡をしてみることにした。
とりあえず、会社の近くにたまたま見つけたG流系に電話してみた。
Ruuuuuuuuuuu
「はい、もしもし・・・。」
「恐れ入りますが、そちらでは体験入門はさせて頂けますか?」
「してるけど、おたくはいくつ?」
「36歳です。」
「ほかでやってたの?」
「いえ・・・・。」
「本気でやるの?止めた方が良いんじゃない。うちの大人は大体経験者か黒帯ってのが多いんだよ」
「はぁそうですか・・・。わかりました。ありがとうございました。」
Puuuuuuuuuuuu
はて?年齢って関係あるの?調べてきたのと違うけど・・・。
気を取り直して、次、こちらはスポーツクラブ系に属しているW流系。
「もしもし、そちらは体験入門しておりますか?』
「はい。やってますよ。いつでも来て下さい。」
「ありがとうございます。次はいつありますか?月謝の関係もあるので月末にいらしたらいかがですか?」
「いや、体験入門したいんですけど・・・。」
「あっ、そうでしたね。えー。今週の金曜日の夜、19:00~ありますけど、こちらに出られますか?」
「金曜日ですか、わかりました。」
~説明を聞く。
「ところでそちらの先生は何という方ですか?」
「えっ、何でですか?・・・・・。」
「いえ、ただ教えて頂きたかっただけなんですけど・・・。」
「毎回、変わりますのでちょっと今ここではお教えできません。」
「えーーーーーーーーー!?」
そりゃないだろ。それでは進度が先生達は全員違うんじゃないの?しかも教えられないのは何故?
とっても不安・・・・。
「結構です。別にします。」
これでは一向に進まない。
そうか! 伝統空手なんだから沖縄の本部に紹介してもらった方が良いか。
ということで
沖縄のG流系に再度電話してみた。
「そっちの地域は今、解らんから、調べておくからまた電話してくれるか?」
乱暴だな。
さらにS流
「もしもし・・・・。」
事情説明・・・・。
「あ~。そしたらね。そっちの方にM先生がいるから電話してご覧。電話番号は0000000だから。Nの紹介だといえば分かるようにしておくから。」
「あっ、ありがとうございます。・・・・えっ、N先生ですか?」
「あーそうですよ。」
「ありがとうございます。」
驚いたことに宗家ご本人が偶然、電話に出てお話をしていたのだった。
これはM先生に電話しなければならないなぁ。
といっても実はご紹介頂いた道場があるのは2県隣なんだけど・・・・。はぁ~。
仕方ない。これも何かの縁かも知れない。明日にでも電話してみよう。
とりあえず、会社の近くにたまたま見つけたG流系に電話してみた。
Ruuuuuuuuuuu
「はい、もしもし・・・。」
「恐れ入りますが、そちらでは体験入門はさせて頂けますか?」
「してるけど、おたくはいくつ?」
「36歳です。」
「ほかでやってたの?」
「いえ・・・・。」
「本気でやるの?止めた方が良いんじゃない。うちの大人は大体経験者か黒帯ってのが多いんだよ」
「はぁそうですか・・・。わかりました。ありがとうございました。」
Puuuuuuuuuuuu
はて?年齢って関係あるの?調べてきたのと違うけど・・・。
気を取り直して、次、こちらはスポーツクラブ系に属しているW流系。
「もしもし、そちらは体験入門しておりますか?』
「はい。やってますよ。いつでも来て下さい。」
「ありがとうございます。次はいつありますか?月謝の関係もあるので月末にいらしたらいかがですか?」
「いや、体験入門したいんですけど・・・。」
「あっ、そうでしたね。えー。今週の金曜日の夜、19:00~ありますけど、こちらに出られますか?」
「金曜日ですか、わかりました。」
~説明を聞く。
「ところでそちらの先生は何という方ですか?」
「えっ、何でですか?・・・・・。」
「いえ、ただ教えて頂きたかっただけなんですけど・・・。」
「毎回、変わりますのでちょっと今ここではお教えできません。」
「えーーーーーーーーー!?」
そりゃないだろ。それでは進度が先生達は全員違うんじゃないの?しかも教えられないのは何故?
とっても不安・・・・。
「結構です。別にします。」
これでは一向に進まない。
そうか! 伝統空手なんだから沖縄の本部に紹介してもらった方が良いか。
ということで
沖縄のG流系に再度電話してみた。
「そっちの地域は今、解らんから、調べておくからまた電話してくれるか?」
乱暴だな。
さらにS流
「もしもし・・・・。」
事情説明・・・・。
「あ~。そしたらね。そっちの方にM先生がいるから電話してご覧。電話番号は0000000だから。Nの紹介だといえば分かるようにしておくから。」
「あっ、ありがとうございます。・・・・えっ、N先生ですか?」
「あーそうですよ。」
「ありがとうございます。」
驚いたことに宗家ご本人が偶然、電話に出てお話をしていたのだった。
これはM先生に電話しなければならないなぁ。
といっても実はご紹介頂いた道場があるのは2県隣なんだけど・・・・。はぁ~。
仕方ない。これも何かの縁かも知れない。明日にでも電話してみよう。
松林流の開祖、長嶺将真先生
沖縄県泊に生まれた長嶺将真先生が小学校3年の時(大正5年)、当時泊小学校で教鞭をとっていたのが船越義珍先生で、小学校連合運動会で「ナイハンチ」「ピンアン」の演武指導を受けた。(船越先生に繋がるのか・・・。)1923年、17歳の時に知花朝信の門弟、新垣安吉先生に師事し、首里手を体得するとともに、泊の青年として泊手を学ぶべきと考えた長嶺先生は泊手の松茂良興作先生の弟子、伊波康達先生に師事。その後兵役に服した長嶺先生は、新垣安吉先生の「空手の研究に一生をかけようと思うなら、生計を確保してかかることだ」という言葉を肝に銘じ、警察官になる。1931年沖縄県嘉手納署に配属され、当時嘉手納に住んでいた拳聖喜屋武朝徳先生に師事する。1936年東京に派遣され本部朝基先生に師事。(その3年後、本部先生は那覇市にある長嶺先生の借家に居を構え、本格的に稽古をつけてもらう)1940年宮城長順先生の推薦を受け、35歳で京都武徳祭に参加し、その見事な演武を賞賛し、警察官6万人の中ただ一人「空手術錬士」の称号が贈られた。また、当時の早川沖縄県知事より「空手の振興のための形」を要請され、「普及形Ⅰ」を創作。「普及形Ⅱ」は宮城長順先生の創作。1944年本部朝基先生が長嶺家の借家で74歳の長寿を全うした。1947年7月戦後初の道場を開設し、首里手の中興の祖といわれる松村宗棍先生の直弟子、喜屋武朝徳先生と泊手の中興の祖といわれる松茂良興作先生の直弟子、本部朝基先生に因み、その孫弟子にあたる長嶺将真先生は松村、松茂良の松の一字を以て、この2人の偉業と人間像を永く後世に伝える意味で「松林流空手道興道館」と命名した。1952年本部警察署長を最後に退官し、那覇市久茂地に本格的な道場を開設。1956年沖縄空手の四派、小林流、剛柔流、上地流、松林流の合意のもとで組織の統一を目指し「沖縄空手道連盟」を結成し、初代会長に知花朝信先生、副会長に長嶺将真先生が就任する。1967年、組織の再編を図り、前組織を発展的解消、「全沖縄空手道連盟」を再結成。初代会長に長嶺将真先生、副会長に八木明徳先生、上地完英先生、島袋善良先生、理事長に比嘉佑直先生が選出される。沖縄空手界の第一期の興隆期ともいえるこの時期に長嶺先生は4期会長を務め、戦後の沖縄(第二次大戦後の戦地沖縄は想像を絶する絶望の地であったに違いない。その復興にかけた人々のエネルギーを少しでも皆理解して欲しいと思う。)の空手界を誠心誠意、熱意をもって指導し、範士の称号を受けた。しかし、1981年「全沖縄空手道連盟」は分裂の事態に陥る。それは翌年に開催される「島根国体」から空手が正式種目に採用され、沖縄は「全日本空手道連盟」への加盟を前提する同国体への参加を迫られ、その先には「海邦国体(沖縄国体1987年)が控えており、大きな転換期に遭遇していた。苦渋の選択の末「全日本空手道連盟」の加盟を決めた長嶺先生は「換骨奪胎」とこのことを説明したがやはり大勢に抗するのが困難であったことをその後の経緯が語っている。その間に「史実と伝統を守る・沖縄の空手道」を発刊し、アメリカやスペインで好評を博し、世界に支部道場が展開し、門下生1万人を組織する飛躍を遂げた。1982年「沖縄県空手道連盟」を新しく組織し、「全日本空手道連盟」に加盟。その翌年「勲五等双光旭日章」を受章した。 さらに1997年沖縄空手は世界に普及しているが、形が崩れ、沖縄伝統空手は危機に瀕していると警鐘を鳴らし、「沖縄伝統空手・古武道審議会」が設置され会長に長嶺将真先生、副会長に仲里周五郎先生、八木明徳先生、宮平勝哉先生が就任した。また、同年8月沖縄空手界初の「沖縄県指定無形文化財(空手・古武道)保持者」に認定された。首里手、泊手の伝統的な技法を正しく体得、精通。戦前戦後にわたり後進を指導して、その保存、継承につとめたのが認定された。その認定時の新聞コメントに「最近、空手は競技スポーツの側面が重視され、沖縄の空手本来の精神修行という面がなおざりにされていたが、沖縄独特の伝統文化として認めて頂き本当に感謝している。どの流派も空手に依る人間形成が最終的な目的。終生続けていくことに価値がある。『まだ足らぬ、鍛えこなしてあの世まで』を座右の銘に、今後も空手道を極めていきたい。」と90歳の長嶺将真先生は述べた。その3ヶ月後天寿を全う。生涯を沖縄の伝統空手に捧げた偉大なる空手家である。
私は上記の「史実と伝統を守る沖縄の空手道」を読んだ。そして、この空手に人生をかけた純粋で頑な生き方に感銘し、感動した。そして90歳の長老にして『まだ足らぬ、鍛えこなしてあの世まで』と言ってしまう、空手の道を極めたがゆえに出てくる言葉、その言葉そのものが空手家のなんたるかを表していると思った。
豊かな自然と美しい青い海に囲まれた空手の発祥の地沖縄は第二次世界大戦で戦地となってしまった。日本の敗戦後、ボロボロになった小さな島沖縄はその悲惨な地を復興に向けて、生涯をかけて必死に生きてきた。そんな時代の重さを背負いながら沖縄の人々は生きてきたのである。その時代の一人として長嶺先生は空手の真髄を求めつづけ、「空手道」を継承し、その責務を全うしたのである。
豊かな国になり、何でも手に入れることができる日本の現代に生きる私達はこれからの日本の人々に果たして何を継承できるのか?こんな精神力の強さは持つことができるのであろうか?
現代の私達に必要なものは、この「全う」するという精神力の強さではないだろうか。
ただただ感銘し、空手に対する考え方がほぼ固まってきた。(あくまでも考え方・・・。)
やはり、空手道はスポーツや競技ではなく、精神修養のための武の道の一つである。肉体を鍛えて上げて、精神を鍛え抜く。ということだと思った。
よし、決めた・・・・。
沖縄の伝統空手にしよう・・・・・。
剛柔流、松林流、小林流、上地流、糸東流、少林寺流・・・・。
ここまできてまだ流派に悩む・・・。 いい加減にしろって言葉が聞こえてきそうだが、これは私にとって生涯をかけた決断ですから・・・・・。早々簡単に入門して、合わないから別流派になんて、子供じみたこともできませんので、あしからず。
でも、もう体験してきます。「案ずるより産むが易し」です。
私は上記の「史実と伝統を守る沖縄の空手道」を読んだ。そして、この空手に人生をかけた純粋で頑な生き方に感銘し、感動した。そして90歳の長老にして『まだ足らぬ、鍛えこなしてあの世まで』と言ってしまう、空手の道を極めたがゆえに出てくる言葉、その言葉そのものが空手家のなんたるかを表していると思った。
豊かな自然と美しい青い海に囲まれた空手の発祥の地沖縄は第二次世界大戦で戦地となってしまった。日本の敗戦後、ボロボロになった小さな島沖縄はその悲惨な地を復興に向けて、生涯をかけて必死に生きてきた。そんな時代の重さを背負いながら沖縄の人々は生きてきたのである。その時代の一人として長嶺先生は空手の真髄を求めつづけ、「空手道」を継承し、その責務を全うしたのである。
豊かな国になり、何でも手に入れることができる日本の現代に生きる私達はこれからの日本の人々に果たして何を継承できるのか?こんな精神力の強さは持つことができるのであろうか?
現代の私達に必要なものは、この「全う」するという精神力の強さではないだろうか。
ただただ感銘し、空手に対する考え方がほぼ固まってきた。(あくまでも考え方・・・。)
やはり、空手道はスポーツや競技ではなく、精神修養のための武の道の一つである。肉体を鍛えて上げて、精神を鍛え抜く。ということだと思った。
よし、決めた・・・・。
沖縄の伝統空手にしよう・・・・・。
剛柔流、松林流、小林流、上地流、糸東流、少林寺流・・・・。
ここまできてまだ流派に悩む・・・。 いい加減にしろって言葉が聞こえてきそうだが、これは私にとって生涯をかけた決断ですから・・・・・。早々簡単に入門して、合わないから別流派になんて、子供じみたこともできませんので、あしからず。
でも、もう体験してきます。「案ずるより産むが易し」です。
東恩納寛量先生・・・宮城長順先生・・・長嶺将真先生・・・?
1853年3月10日沖縄那覇の西町に生まれる。幕末の混乱期に生き、幼少の頃から空手に興味を持ち沖縄手を修行していたが中国拳法の現地修行という念願叶い、1873年福州へ渡り修行を重ねる。32歳で帰郷し、その卓越した拳技の高名は那覇に広がり、自宅で門弟の指導をすることになる。東恩納先生の学んだ中国拳法が「那覇手」と呼ばれ、衆目を引くようになり、その技術が理にかない、 門弟の精神教育は厳格にあたり、性格粗暴な者は破門、また入門を固く断った。またその指導も、三、四年は基本の三戦だけ徹底して教え込むというように極めて厳しかった。1905年、初めて沖縄県立師範学校、県立第一中学校で空手を武道の正科として採用され、その実現を担った東恩納先生の努力はその後の空手界の発展に大きく寄与した。そのような中、優秀な門下生が多数集まった。中でも宮城長順という後継者に恵まれ、東恩納先生の「那覇手」は宮城長順先生によって「剛柔流」へとかわり、今日の隆盛へと引き継がれてきた。東恩納先生は1917年63歳で病没された。
「那覇手」として近代空手「剛柔流」を胎動させたのは東恩納寛量先生であり、その実質を統合させたのが宮城長順先生である。宮城先生は東恩納先生のもとに14歳で入門し、その厳しい修行に耐え、やがてその力量、技術力は多くの門下生の中で抜きん出る。1918年4月首里に先出の摩文仁賢和宅に「空手研究会」が発足され、船越義珍、知花朝信、屋部憲通等によって構成され、理念研究、技術錬磨の場を目指していたが、これに対し那覇旭ヶ丘に「沖縄唐手倶楽部」が発足され、宮城長順、本部朝勇、許田重発、城間垣貴等で構成された。また、その道場には本部朝基や喜屋武朝徳など師範クラスの出入りがあった。その後、1941年沖縄空手道専門委員として、当時の早川沖縄県知事の「空手の振興を図るため簡単な型を作ってほしい」という要望に応え「普及形Ⅱ」を創作する。そのとき「普及形Ⅰ」を長嶺将真先生に作らせる。この長嶺将真先生は1940年に宮城長順先生の推薦で京都の武徳祭で、その見事な演武を賞賛し、大日本武徳会から「空手術練士」の称号が贈られ警察官6万人の中でただ一人の名誉を受け、沖縄で唯一の称号保持者となる。1945年終戦後宮城長順先生は警察学校の教官に任命され那覇壺川に引っ越し、弟子たちによって道場が出来、「剛柔流振興会」を発足。1953年10月8日享年65歳で逝去。宮城先生亡き後、八木明徳、宮里栄一、与儀実栄、比嘉世幸、上原三郎、宮城敬、伊波康進等の高弟によって継承される。この時に高弟同士の分派が始まる。
やはり、ここで分派してしまうのか・・・。仕方のないことなのか・・・?。
しかし、先出の高弟先生方はそれぞれが各会派で現在も活躍されている剛柔流であり、これまた素人の私にとってはどこの会派が良くて、どこに特徴があるのかわかりません。
ということで例によって・・・。他先生を見ていこう。
よって
ここで登場した宮城長順先生が武徳祭に推薦し、空手術練士の沖縄唯一の称号保持者である長嶺将真先生とは・・・・?。
「那覇手」として近代空手「剛柔流」を胎動させたのは東恩納寛量先生であり、その実質を統合させたのが宮城長順先生である。宮城先生は東恩納先生のもとに14歳で入門し、その厳しい修行に耐え、やがてその力量、技術力は多くの門下生の中で抜きん出る。1918年4月首里に先出の摩文仁賢和宅に「空手研究会」が発足され、船越義珍、知花朝信、屋部憲通等によって構成され、理念研究、技術錬磨の場を目指していたが、これに対し那覇旭ヶ丘に「沖縄唐手倶楽部」が発足され、宮城長順、本部朝勇、許田重発、城間垣貴等で構成された。また、その道場には本部朝基や喜屋武朝徳など師範クラスの出入りがあった。その後、1941年沖縄空手道専門委員として、当時の早川沖縄県知事の「空手の振興を図るため簡単な型を作ってほしい」という要望に応え「普及形Ⅱ」を創作する。そのとき「普及形Ⅰ」を長嶺将真先生に作らせる。この長嶺将真先生は1940年に宮城長順先生の推薦で京都の武徳祭で、その見事な演武を賞賛し、大日本武徳会から「空手術練士」の称号が贈られ警察官6万人の中でただ一人の名誉を受け、沖縄で唯一の称号保持者となる。1945年終戦後宮城長順先生は警察学校の教官に任命され那覇壺川に引っ越し、弟子たちによって道場が出来、「剛柔流振興会」を発足。1953年10月8日享年65歳で逝去。宮城先生亡き後、八木明徳、宮里栄一、与儀実栄、比嘉世幸、上原三郎、宮城敬、伊波康進等の高弟によって継承される。この時に高弟同士の分派が始まる。
やはり、ここで分派してしまうのか・・・。仕方のないことなのか・・・?。
しかし、先出の高弟先生方はそれぞれが各会派で現在も活躍されている剛柔流であり、これまた素人の私にとってはどこの会派が良くて、どこに特徴があるのかわかりません。
ということで例によって・・・。他先生を見ていこう。
よって
ここで登場した宮城長順先生が武徳祭に推薦し、空手術練士の沖縄唯一の称号保持者である長嶺将真先生とは・・・・?。
糸洲安恒先生の糸洲会・・・。?糸東会・・・・?
糸洲先生の略歴は1832年沖縄首里に生まれる。和漢の学に長け首里王府の書記官を勤めた。廃藩置県後の明治34年から首里尋常小学校体操科の一部に「唐手」が取り入れられその指導にあたる。これが近代唐手普及の一歩と言われている。明治、大正の「唐手中興の祖」と仰がれ、首里系空手道再建に生涯を捧げ、1916年85歳の天寿を全うする。ということである。
近世の拳聖と仰がれている糸洲先生を流祖としている糸洲会があり、これまで唐手術と言う護身術であった「手」を、を体育的に改良再編し、学校教育に取入れ人格形成に主眼を置いて昇華させた。また、現在普及している「平安(ピンアン)」の型は糸洲先生が作られた。
高弟摩文仁賢和先生は糸洲先生に師事し、「糸洲派二世」を継承した。また、「那覇手」の東恩納寛量先生にも師事し、後に両師の頭文字をとり「糸東流」を創流(大阪、養秀館が発端)する。
摩文仁先生は糸洲派を後世に伝承させるため、高弟坂上隆祥師に「糸洲派三世」を継承させた。
坂上隆祥先生は、糸東流を学んでいたので一時期、流名を「糸東流糸洲会」と呼ばれていたが、1969年4月、糸東流と区別するために正式に流名を「糸洲流」とし、会名を「日本空手道糸洲会」と命名。(参照 糸洲会HP http://www.karatedo.co.jp/itosu-kai/index.html)
現在、糸洲会は 「糸洲流四世」として坂上隆祥師の長男、節明氏が世襲。
空手道は「型で始まり、型で終わる」と言われ、糸洲流は伝承された型を中心に、その技法や応用動作を研究。実際に役立つ技を組手に取入れられるよう工夫実践。
とのことであった。
が、糸東会のHP(http://www.karatedo.co.jp/shitokai/)を見ると摩文仁先生のご子息が1952年摩文仁先生逝去(62歳)に伴い糸東会宗家二代目を継いでいる。この辺のいきさつは推測でしか考えられないので、ここでのコメントは控えよう。
しかし、糸洲先生は多くのご高名な空手家をお育てになっているようである。
前述、松濤流船越義珍先生、糸東流摩文仁賢和先生、小林流知花朝信・・・他多数。この辺は後々ということで今は糸洲安恒先生なので話を戻そう。
上記糸洲流HP内で次のようにある。
「「首里手・糸洲派」と「那覇手・東恩納派」両派の技術体系の特徴を摂取し、創流されたのが糸東流であるので、糸洲派が糸東流根幹の一翼を補っていることは明らかである。糸東流の修練は、まず糸洲派から入り、ある一定の技量に達してから東恩納派に入る。そして両派を融合させていくのが一般的である。したがって糸洲派の技術をしっかり身につけることにより、後の東恩納派が比較的安易に修練が可能になる。軽快、敏捷で連続技を繰出す糸洲派と、重厚で力感的な東恩納派の特徴を良く理解して修練すべきで、決して中途半端なものであってはならない。糸洲流は糸東流の根幹であることを自覚し、両派の研鑽に努めている。」
まず、糸洲流に入門して、研鑽してから糸東会にということらしい?
ウゥ・・・ム・・・。
難しいことをいいますねぇ。「ある一定の技量に達してから・・・」とありますがその「ある一定の技量」ってなんでしょうか?素人の私には理解出来ないのですが・・・。また、その「一定の技量」になって糸東に入門するっていうことは糸洲会にはその「ある一定の技量」が最高位レベルということなのでしょうか?
分かりません。
理解に難しい時は、礼の如く。上に行けということで・・・・。
出てきました。松村宗昆先生。だいぶ、遡ってきたような・・・。
松村先生は1798年沖縄首里生まれ。
しかし、とうとう来てしまった・・・・。
松村先生の師は詳らかではないのだ。困った・・・。これは時間が掛かりそうなので優先順位をつけて、後回しにしておこう。(資料が残されてないのだ)
取りあえず、その前に先出の東恩納寛量先生はどういう人か?
ということで次回。何気なく通り過ごしてきたけど・・・。
とっても空手の世界では重要な人物だった気がする東恩納寛量先生を調べてみよう。
近世の拳聖と仰がれている糸洲先生を流祖としている糸洲会があり、これまで唐手術と言う護身術であった「手」を、を体育的に改良再編し、学校教育に取入れ人格形成に主眼を置いて昇華させた。また、現在普及している「平安(ピンアン)」の型は糸洲先生が作られた。
高弟摩文仁賢和先生は糸洲先生に師事し、「糸洲派二世」を継承した。また、「那覇手」の東恩納寛量先生にも師事し、後に両師の頭文字をとり「糸東流」を創流(大阪、養秀館が発端)する。
摩文仁先生は糸洲派を後世に伝承させるため、高弟坂上隆祥師に「糸洲派三世」を継承させた。
坂上隆祥先生は、糸東流を学んでいたので一時期、流名を「糸東流糸洲会」と呼ばれていたが、1969年4月、糸東流と区別するために正式に流名を「糸洲流」とし、会名を「日本空手道糸洲会」と命名。(参照 糸洲会HP http://www.karatedo.co.jp/itosu-kai/index.html)
現在、糸洲会は 「糸洲流四世」として坂上隆祥師の長男、節明氏が世襲。
空手道は「型で始まり、型で終わる」と言われ、糸洲流は伝承された型を中心に、その技法や応用動作を研究。実際に役立つ技を組手に取入れられるよう工夫実践。
とのことであった。
が、糸東会のHP(http://www.karatedo.co.jp/shitokai/)を見ると摩文仁先生のご子息が1952年摩文仁先生逝去(62歳)に伴い糸東会宗家二代目を継いでいる。この辺のいきさつは推測でしか考えられないので、ここでのコメントは控えよう。
しかし、糸洲先生は多くのご高名な空手家をお育てになっているようである。
前述、松濤流船越義珍先生、糸東流摩文仁賢和先生、小林流知花朝信・・・他多数。この辺は後々ということで今は糸洲安恒先生なので話を戻そう。
上記糸洲流HP内で次のようにある。
「「首里手・糸洲派」と「那覇手・東恩納派」両派の技術体系の特徴を摂取し、創流されたのが糸東流であるので、糸洲派が糸東流根幹の一翼を補っていることは明らかである。糸東流の修練は、まず糸洲派から入り、ある一定の技量に達してから東恩納派に入る。そして両派を融合させていくのが一般的である。したがって糸洲派の技術をしっかり身につけることにより、後の東恩納派が比較的安易に修練が可能になる。軽快、敏捷で連続技を繰出す糸洲派と、重厚で力感的な東恩納派の特徴を良く理解して修練すべきで、決して中途半端なものであってはならない。糸洲流は糸東流の根幹であることを自覚し、両派の研鑽に努めている。」
まず、糸洲流に入門して、研鑽してから糸東会にということらしい?
ウゥ・・・ム・・・。
難しいことをいいますねぇ。「ある一定の技量に達してから・・・」とありますがその「ある一定の技量」ってなんでしょうか?素人の私には理解出来ないのですが・・・。また、その「一定の技量」になって糸東に入門するっていうことは糸洲会にはその「ある一定の技量」が最高位レベルということなのでしょうか?
分かりません。
理解に難しい時は、礼の如く。上に行けということで・・・・。
出てきました。松村宗昆先生。だいぶ、遡ってきたような・・・。
松村先生は1798年沖縄首里生まれ。
しかし、とうとう来てしまった・・・・。
松村先生の師は詳らかではないのだ。困った・・・。これは時間が掛かりそうなので優先順位をつけて、後回しにしておこう。(資料が残されてないのだ)
取りあえず、その前に先出の東恩納寛量先生はどういう人か?
ということで次回。何気なく通り過ごしてきたけど・・・。
とっても空手の世界では重要な人物だった気がする東恩納寛量先生を調べてみよう。
沖縄から空手の普及のためにやってきた「近代空手の父」船越義珍先生
船越義珍先生・・・。
富名腰義珍が本当の名で、ふなこしぎちんと読むらしい。
1868年沖縄県首里に生まれる。教鞭を取る傍ら唐手の指導にあたっていて時代は大正デモクラシーにより、日本の政治、社会、文化が大きく変革しようとしている1922年、沖縄県からの要請があって船越先生は唐手の普及のため沖縄から東京に来られた。(この時は普及活動が終わったら沖縄に帰るつもりだったらしい・・・。)その数日後にお茶の水教育博物館で開催された第一回体育展覧会にて成功し、あの柔道の講道館館長嘉納治五郎の目に留まり講道館道場にて嘉納の門弟200人の前で演武を行い、さらにその関係者も含めて興味を持たれた。そこから大学関係、警察、海軍等に出張稽古を重ね、唐手の普及に努め、一番最初に慶応義塾大学体育会空手部の顧問として本格的な唐手の教授活動に入り、本土における唐手の発展に大きな功績を残し、「近代空手の父」とまで言われるようになった。その後、松濤館を立ち上げ、「空手に先手なし」を鉄則にした空手道を本土に普及。1957年90才の天寿を全うされた。
ちなみに船越先生が昭和4年に唐手を空手に代えたらしい。(いろいろな説があるようですが・・・。)徒手空拳の唐手を象徴する「空」。仏教に「色即是空、空即是色」宇宙の色合いの一切が空であるという理念に基づき「空手」に改名したということだ。当然賛否両論あったようだが現在は「空手」として世界中に広がった。(唐手は中国の唐から伝播した手ということらしいが、これもはっきりしたことは謎?らしい。)
ということで、本土の空手界において船越先生は神のような存在であり、空手の普及に大変な功績を残されたのだ。
「近代空手の父」とまで言われるこの先生に大変興味を持った私はネットで調べて早速、船越先生著書の「琉球拳法唐手」を手に入れた。
例の如く、色々調べていくと松濤館もまた、日本空手道松濤會、国際松濤館空手道連盟等々、船越先生を師と仰ぐ会派がいくつかある。こういう時はそのまた上の師を辿ることにした。何故なら私の個人的な意見としてどれが本流で本筋なのか、素人には全く理解できないから・・・。(そこの流派、会派内で何が起こったのか、までは解りませんので・・・。またもや入門至らず。)
当然、沖縄から派遣されているので沖縄に船越先生をお育てになられた師がいるはずです。
と調べていくと・・・・・・。
糸洲安恒先生・・・・。出てきました。
そういえば調べている過程において糸洲会とか糸東会とかあったなぁと思いながら、更に調べなければ気が済まない性分なので・・・・。
ところでわたしは今回、気になることがあった。極真魂に感動し、空手をやる決意をしたのだが、様々な本や資料に目を通していく中でどうしても避けては通れない論に直面してしまった。
船越義珍先生のお言葉に「空手のことは実際を以て示すのではないと曰く言い難しで、容易く伝えられないが、興業化、競技化の出来ない所に空手の空手たる所以があるのが特徴であり、防具や試合の成立しない所が空手道の心髄を語るものだ・・・。」という論がある。
とっても考えさせられる言葉である。私の空手への考え方を根底から変える重い言葉である。
この「近代空手の父」が遺した言葉を現代の空手家はどう理解しているのだろうか。
決して各種競技格闘技の興業が良いとか悪いとかではなく「空手道」をどうしていくのかということが重要ではないだろうか。
私は空手をやる前から大きな問題に直面してしまった。
富名腰義珍が本当の名で、ふなこしぎちんと読むらしい。
1868年沖縄県首里に生まれる。教鞭を取る傍ら唐手の指導にあたっていて時代は大正デモクラシーにより、日本の政治、社会、文化が大きく変革しようとしている1922年、沖縄県からの要請があって船越先生は唐手の普及のため沖縄から東京に来られた。(この時は普及活動が終わったら沖縄に帰るつもりだったらしい・・・。)その数日後にお茶の水教育博物館で開催された第一回体育展覧会にて成功し、あの柔道の講道館館長嘉納治五郎の目に留まり講道館道場にて嘉納の門弟200人の前で演武を行い、さらにその関係者も含めて興味を持たれた。そこから大学関係、警察、海軍等に出張稽古を重ね、唐手の普及に努め、一番最初に慶応義塾大学体育会空手部の顧問として本格的な唐手の教授活動に入り、本土における唐手の発展に大きな功績を残し、「近代空手の父」とまで言われるようになった。その後、松濤館を立ち上げ、「空手に先手なし」を鉄則にした空手道を本土に普及。1957年90才の天寿を全うされた。
ちなみに船越先生が昭和4年に唐手を空手に代えたらしい。(いろいろな説があるようですが・・・。)徒手空拳の唐手を象徴する「空」。仏教に「色即是空、空即是色」宇宙の色合いの一切が空であるという理念に基づき「空手」に改名したということだ。当然賛否両論あったようだが現在は「空手」として世界中に広がった。(唐手は中国の唐から伝播した手ということらしいが、これもはっきりしたことは謎?らしい。)
ということで、本土の空手界において船越先生は神のような存在であり、空手の普及に大変な功績を残されたのだ。
「近代空手の父」とまで言われるこの先生に大変興味を持った私はネットで調べて早速、船越先生著書の「琉球拳法唐手」を手に入れた。
例の如く、色々調べていくと松濤館もまた、日本空手道松濤會、国際松濤館空手道連盟等々、船越先生を師と仰ぐ会派がいくつかある。こういう時はそのまた上の師を辿ることにした。何故なら私の個人的な意見としてどれが本流で本筋なのか、素人には全く理解できないから・・・。(そこの流派、会派内で何が起こったのか、までは解りませんので・・・。またもや入門至らず。)
当然、沖縄から派遣されているので沖縄に船越先生をお育てになられた師がいるはずです。
と調べていくと・・・・・・。
糸洲安恒先生・・・・。出てきました。
そういえば調べている過程において糸洲会とか糸東会とかあったなぁと思いながら、更に調べなければ気が済まない性分なので・・・・。
ところでわたしは今回、気になることがあった。極真魂に感動し、空手をやる決意をしたのだが、様々な本や資料に目を通していく中でどうしても避けては通れない論に直面してしまった。
船越義珍先生のお言葉に「空手のことは実際を以て示すのではないと曰く言い難しで、容易く伝えられないが、興業化、競技化の出来ない所に空手の空手たる所以があるのが特徴であり、防具や試合の成立しない所が空手道の心髄を語るものだ・・・。」という論がある。
とっても考えさせられる言葉である。私の空手への考え方を根底から変える重い言葉である。
この「近代空手の父」が遺した言葉を現代の空手家はどう理解しているのだろうか。
決して各種競技格闘技の興業が良いとか悪いとかではなく「空手道」をどうしていくのかということが重要ではないだろうか。
私は空手をやる前から大きな問題に直面してしまった。
流会派・・・って。
というわけで、先ず私は何流会派に属すべきなのかという点から、調べ始めた。
(*ここからは私的な所見であり、あくまでも個人的な独り言ですので、あしからず)
まず、一番最初に調べたのは当然、極真会http://www.kyokushin.co.jpです。この会は言わずと知れた大山大山倍達総裁の途轍も無く大きな組織団体です。私達の世代ではすぐに分かると思うが、大山倍達総裁の一代記を描いた「空手バカ一代」原作故梶原一騎、作画つのだじろうで有名である。故梶原一騎氏は、「巨人の星」や「明日のジョー」「タイガーマスク」で有名な作家。その実弟真樹日佐夫氏と共に極真に入門し、良い意味でも悪い意味でも極真のブランドを作り上げたといっても過言ではない。(ちなみに上述のつのだじろう氏も極真に入門していたようです。大山総裁から名誉段位を貰ったとか貰わないとか・・・)その真樹氏は1968年 「凶器」で第33回オール読物新人賞受賞。現在、世界空手道連盟真樹道場の宗家として、また、映画製作会社社長もやられている。その代表作でもある「新空手バカ一代」主演永井大でビデオも出している。誰もが怖がるような顔だが、その多才な生き方には脱帽。私はレンタルビデオで「すてごろ」というこの2人の兄弟録を観たが、「生きてる」という実感を味わえるこの作品は、お薦めの一本である。話が脇道に反れたが、極真会は40年位前に設立されたようで、世界124ヵ国に1200を超える公認道場を有し、非公認を含めるとその数は1200万人超の会員を有し、国内全都道府県に支部を設けている。しかし1994年4月26日、大山倍達総裁が肺癌で亡くなり、極真会館は、国内支部長の対立により分裂に至っているようで、極真館、新極真、正道会、極真連合会、佐藤塾、黒沢道場・・・(いろいろ観たけど切りがない)とその中で現松井章圭館長によって国際空手道連盟極真会館(以下極真)がある。(極真のことが一番良く理解できるサイトは国際空手道連盟極真会館松井派東京城南港支部支部長志田清之氏の公式ホームページhttp://www.ne.jp/asahi/karate/dojo/index.html)
極真は言わばフルコンタクト系の代表格であり、そのスタイルは「前に前にの極真魂」の通り、タフで熱い者が門下にいる。私はこの極真のテレビを観て、そのファイティングスピリッツに感動した。打たれても前に出るその精神力の強さを自分にも欲しいと思った。だから、空手を始めようと思った。
よし、始めよう。
極真・・・からて。
って!?
大山倍達総裁・・・・。
松濤館、船越義珍先生の門下生・・・・。
えっ?そりゃそうだよな、大山総裁もいきなり総裁にはなれんからな。って
松濤館って何?船越先生って誰?
ウゥム・・・。大山総裁に空手を教えた松濤館船越先生・・・・。
よく考えよう。
(*ここからは私的な所見であり、あくまでも個人的な独り言ですので、あしからず)
まず、一番最初に調べたのは当然、極真会http://www.kyokushin.co.jpです。この会は言わずと知れた大山大山倍達総裁の途轍も無く大きな組織団体です。私達の世代ではすぐに分かると思うが、大山倍達総裁の一代記を描いた「空手バカ一代」原作故梶原一騎、作画つのだじろうで有名である。故梶原一騎氏は、「巨人の星」や「明日のジョー」「タイガーマスク」で有名な作家。その実弟真樹日佐夫氏と共に極真に入門し、良い意味でも悪い意味でも極真のブランドを作り上げたといっても過言ではない。(ちなみに上述のつのだじろう氏も極真に入門していたようです。大山総裁から名誉段位を貰ったとか貰わないとか・・・)その真樹氏は1968年 「凶器」で第33回オール読物新人賞受賞。現在、世界空手道連盟真樹道場の宗家として、また、映画製作会社社長もやられている。その代表作でもある「新空手バカ一代」主演永井大でビデオも出している。誰もが怖がるような顔だが、その多才な生き方には脱帽。私はレンタルビデオで「すてごろ」というこの2人の兄弟録を観たが、「生きてる」という実感を味わえるこの作品は、お薦めの一本である。話が脇道に反れたが、極真会は40年位前に設立されたようで、世界124ヵ国に1200を超える公認道場を有し、非公認を含めるとその数は1200万人超の会員を有し、国内全都道府県に支部を設けている。しかし1994年4月26日、大山倍達総裁が肺癌で亡くなり、極真会館は、国内支部長の対立により分裂に至っているようで、極真館、新極真、正道会、極真連合会、佐藤塾、黒沢道場・・・(いろいろ観たけど切りがない)とその中で現松井章圭館長によって国際空手道連盟極真会館(以下極真)がある。(極真のことが一番良く理解できるサイトは国際空手道連盟極真会館松井派東京城南港支部支部長志田清之氏の公式ホームページhttp://www.ne.jp/asahi/karate/dojo/index.html)
極真は言わばフルコンタクト系の代表格であり、そのスタイルは「前に前にの極真魂」の通り、タフで熱い者が門下にいる。私はこの極真のテレビを観て、そのファイティングスピリッツに感動した。打たれても前に出るその精神力の強さを自分にも欲しいと思った。だから、空手を始めようと思った。
よし、始めよう。
極真・・・からて。
って!?
大山倍達総裁・・・・。
松濤館、船越義珍先生の門下生・・・・。
えっ?そりゃそうだよな、大山総裁もいきなり総裁にはなれんからな。って
松濤館って何?船越先生って誰?
ウゥム・・・。大山総裁に空手を教えた松濤館船越先生・・・・。
よく考えよう。
5月
仕事面での行き詰まり、私生活の不充足。何をしても灰色の空気が自分の周りに漂っていた。自分を見つめ、自分を励まし、このままではいかんと・・・。
また、自分をとことん追いつめることによって、何か見つけられるのではないか。ということを日常的に考えていた。
そんな時、テレビでたまさか極真をやっていた。「打たれても、突かれても前に出る極真魂」の精神力の強さに心打たれた。(些か単純かな?)自分に足りないのはこの強さではないか・・・。そうだ空手をやろう。別に体力的に辛くても、弱くってもいいじゃないか。前に、前に進むしかないんだ。動機は単純かもしれない。空手を幼少の頃からやっている方々には、申し訳ない。「そんなことでやるなよ」とか「無理だよ、その歳で・・・」とかあるだろう。でも、私は真剣に「精神的に強くなる」という事を思っていた。そんな想いから徹底的に空手を調べ始めたのだ。
また、自分をとことん追いつめることによって、何か見つけられるのではないか。ということを日常的に考えていた。
そんな時、テレビでたまさか極真をやっていた。「打たれても、突かれても前に出る極真魂」の精神力の強さに心打たれた。(些か単純かな?)自分に足りないのはこの強さではないか・・・。そうだ空手をやろう。別に体力的に辛くても、弱くってもいいじゃないか。前に、前に進むしかないんだ。動機は単純かもしれない。空手を幼少の頃からやっている方々には、申し訳ない。「そんなことでやるなよ」とか「無理だよ、その歳で・・・」とかあるだろう。でも、私は真剣に「精神的に強くなる」という事を思っていた。そんな想いから徹底的に空手を調べ始めたのだ。
Blogを始める前に。
始める前にせっかくなので、36歳の男が空手を始める経緯と、もうすでに空手を始めてから4ヶ月経っているので5ヶ月前からのこと、つまり始めたきっかけと入門するまでの一歩がとても大事!?だと思うのでその心理状況を思い出しながらをまず記して行こうと思う。ということで明日までに良く思い出そう・・・。
