糸洲安恒先生の糸洲会・・・。?糸東会・・・・? | 36才で歩き始めた空手の道

糸洲安恒先生の糸洲会・・・。?糸東会・・・・?

糸洲先生の略歴は1832年沖縄首里に生まれる。和漢の学に長け首里王府の書記官を勤めた。廃藩置県後の明治34年から首里尋常小学校体操科の一部に「唐手」が取り入れられその指導にあたる。これが近代唐手普及の一歩と言われている。明治、大正の「唐手中興の祖」と仰がれ、首里系空手道再建に生涯を捧げ、1916年85歳の天寿を全うする。ということである。
近世の拳聖と仰がれている糸洲先生を流祖としている糸洲会があり、これまで唐手術と言う護身術であった「手」を、を体育的に改良再編し、学校教育に取入れ人格形成に主眼を置いて昇華させた。また、現在普及している「平安(ピンアン)」の型は糸洲先生が作られた。
高弟摩文仁賢和先生は糸洲先生に師事し、「糸洲派二世」を継承した。また、「那覇手」の東恩納寛量先生にも師事し、後に両師の頭文字をとり「糸東流」を創流(大阪、養秀館が発端)する。
 摩文仁先生は糸洲派を後世に伝承させるため、高弟坂上隆祥師に「糸洲派三世」を継承させた。
 坂上隆祥先生は、糸東流を学んでいたので一時期、流名を「糸東流糸洲会」と呼ばれていたが、1969年4月、糸東流と区別するために正式に流名を「糸洲流」とし、会名を「日本空手道糸洲会」と命名。(参照 糸洲会HP http://www.karatedo.co.jp/itosu-kai/index.html)
現在、糸洲会は 「糸洲流四世」として坂上隆祥師の長男、節明氏が世襲。
空手道は「型で始まり、型で終わる」と言われ、糸洲流は伝承された型を中心に、その技法や応用動作を研究。実際に役立つ技を組手に取入れられるよう工夫実践。
とのことであった。
が、糸東会のHP(http://www.karatedo.co.jp/shitokai/)を見ると摩文仁先生のご子息が1952年摩文仁先生逝去(62歳)に伴い糸東会宗家二代目を継いでいる。この辺のいきさつは推測でしか考えられないので、ここでのコメントは控えよう。
しかし、糸洲先生は多くのご高名な空手家をお育てになっているようである。
前述、松濤流船越義珍先生、糸東流摩文仁賢和先生、小林流知花朝信・・・他多数。この辺は後々ということで今は糸洲安恒先生なので話を戻そう。

上記糸洲流HP内で次のようにある。
「「首里手・糸洲派」と「那覇手・東恩納派」両派の技術体系の特徴を摂取し、創流されたのが糸東流であるので、糸洲派が糸東流根幹の一翼を補っていることは明らかである。糸東流の修練は、まず糸洲派から入り、ある一定の技量に達してから東恩納派に入る。そして両派を融合させていくのが一般的である。したがって糸洲派の技術をしっかり身につけることにより、後の東恩納派が比較的安易に修練が可能になる。軽快、敏捷で連続技を繰出す糸洲派と、重厚で力感的な東恩納派の特徴を良く理解して修練すべきで、決して中途半端なものであってはならない。糸洲流は糸東流の根幹であることを自覚し、両派の研鑽に努めている。」

まず、糸洲流に入門して、研鑽してから糸東会にということらしい?
ウゥ・・・ム・・・。

難しいことをいいますねぇ。「ある一定の技量に達してから・・・」とありますがその「ある一定の技量」ってなんでしょうか?素人の私には理解出来ないのですが・・・。また、その「一定の技量」になって糸東に入門するっていうことは糸洲会にはその「ある一定の技量」が最高位レベルということなのでしょうか?
分かりません。
理解に難しい時は、礼の如く。上に行けということで・・・・。
出てきました。松村宗昆先生。だいぶ、遡ってきたような・・・。
松村先生は1798年沖縄首里生まれ。
しかし、とうとう来てしまった・・・・。

松村先生の師は詳らかではないのだ。困った・・・。これは時間が掛かりそうなので優先順位をつけて、後回しにしておこう。(資料が残されてないのだ)

取りあえず、その前に先出の東恩納寛量先生はどういう人か?

ということで次回。何気なく通り過ごしてきたけど・・・。

とっても空手の世界では重要な人物だった気がする東恩納寛量先生を調べてみよう。