事故当日(私の記憶) | eitamama201211のブログ

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2020年9月6日に猪苗代湖ボート事故で亡くなった豊田瑛大の母です。こちらでは瑛大や事故関連のブログとは別で私個人のものになります。事故により両足切断。義足と車椅子生活に至るまでと日常の記録になります。よろしくお願いします。

事故当日の話し(私の記憶)

いつもInstagramをご覧いただきありがとうございます。
長引く裁判に嫌気がさしてきたので、事故関係の内容も出来る範囲でお話ししていこうと思ってます。


あの日、大きな音(エンジン音)に驚き振り向くと、ボートがこちらに向かってきていて一瞬にして轢かれました。


今回はその事故直後の私の記憶のお話しをしていきたいと思います。

轢かれる直前、私は両手で目を伏せました。
助かったかなと一瞬思った直後、全身に電気が走ったような痛みがあり、特に脚がものすごく腫れあがってるイメージでドクドクしていたので
右手で右足を触ると、膝から下が今にも取れそうな状態で水中でブランブランとしていました。

とっさに脚が取れないように右手で抑えながら、すぐに子供たちを確認しました。

ただ、思うように体が動かず、首だけ動かし瑛大の方を見るとすでに生きていないことがわかりました。
青いライフジャケットがプカプカと浮いていて、顔は見えず頭部の損傷部分がハッキリと見えました。
(目撃証言で棒状のようなものが飛ぶのが見えたとあり、おそらく腕だと思います。下半身は数日後発見されてます。)


最後に抱きしめたいと思い力を振り絞ってみたけど、体が全く動きませんでした。
すぐそこ、手を伸ばせば届くところにいるのに触れる事ができませんでした。

近くにいた瑛大の兄(当時10歳)は「瑛大死んじゃったよー」「誰か助けてください!」「お父さん、お父さん」と何度も叫んでいました。

「お母さん大丈夫?」と聞かれたけど声を出す力がありませんでした。

日差しが眩しくて、急に無音になり、チャポンチャポンと水の音だけ聞こえてきて、私の周りの水面が真っ赤に染まっていてこのまま死んでしまうんだなと目を閉じていました。

すぐに主人が来てくれましたが、瑛大の姿を見て発狂しながらジェット?のどこかをボンボンと叩く音が聞こえました。

後から聞いた話だと、その時は私の脚は見えていないので無事なのかと思い、すぐに轢いたボートを追いかけるつもりだったそうです。
(主人は轢いたボートを見ています。)

ただ、私の様子がおかしい事に気づき、瑛大を助けたい気持ち、ボートを追いかけたい気持ちを押し殺して私の救助を優先しました。

脱力した私をジェットの椅子に仰向けで横に寝かせ、ゆっくりと桟橋の方に行きました。

近くで釣りをしていた方が救助を手伝ってくれたそうです。

私を桟橋に寝かせたときに脚の状態を初めてみて、泣きながら「ごめんなごめんな」と何度も言ってました。

腕枕のような形で頭を支えながら、たまに意識が薄れる私を「おい!!」と何度も必死に起こしていました。

ふと目を開けると驚いた表情で私を見ている男性と目が合った気がします。

何人の方がいたかはわかりませんが、ロープで両足を止血してくれて、体にバスタオルをかけてくれて、1人の女性が私の右側に来ると
「手握っててもいいですか?」と言って右手を優しく握っていてくれました。

私は痛みと苦しいのが交互にやってくる状態でした。
痛みは脚で、とにかくズキズキともがくような痛さ。
苦しいのは息を吐くのも吸うのも苦しくて呼吸が荒かったのを覚えています。

痛みと苦しみのなか、ふと瑛大が死んでしまったことを思い出し「瑛大死んじゃったよ」と泣き叫びました。

警察や救急隊が到着し、応急処置をしてもらっていると主人が見たボートが戻ってきたようで「あのボートだよ!!」と言ってるのが聞こえました。
主人がボートのところに行ってしまうと思い、私はすぐそばにいた救急隊の方の服を引っ張り「旦那を止めてください」というと「大丈夫ですよ」と言われました。

ずっと目を閉じていたのか景色はあまり覚えていませんが、救急車に運ばれるとき目を開くと瑛大の兄が泣きながら私の方を見ていて、兄のすぐ後ろにいた男性が「お母さんに頑張れって言ってあげな!」と肩をポンポンしてあげていて、すると兄が大きな声で「お母さん頑張れー」と言ってくれました。
その男性かはわかりませんが、泣いている主人の肩もポンポンとしてくれていました。

他にも「頑張れー」という声が聞こえてきてとても嬉しかったです。

その後、ドクターヘリに移動し病院関係の方が「豊田さんが住んでる隣の市に住んでいた」という話から始まりとにかくずっと声をかけられていて辛かったです。眠りたかったです。
今思うと、眠らないように声をかけ続けてくれていたのかな、、と思っています。
後にその方とは何回目かの手術で再会しました。私は覚えていませんでしたが、声をかけていただき私の顔を見て「元気になられましたね」と喜んでくれていました。嬉しかったです。

ドクターヘリの窓から空が見えて、"まだ上空か。。体もたないよ"と心の中で思っていました。

ヘリポートに到着するとドクターヘリからまた救急車に移り病院へ移動しました。
毎回乗り降りの振動がとにかく痛かったです。

病院に到着すると、服をジョキジョキと切る音が聞こえたのが最後で目を覚ましたのは2日後の9月8日でした。
看護士さんから聞いた話だと次の日には意識もあり返事もできていたそうですが、覚えていません。

最後までお読みいただきありがとうございます。