「窓ぎわのトットちゃん」は、皆さんご存知黒柳徹子さんの子どもの頃を描いた物語です。
日本では800万部というベストセラー、世界35カ国で翻訳され、中国では今年1000万部を突破したそうです。すごい!だっておもしろいもん!
どんな物語かというと、授業の1限目には机のフタを100回くらいパタンパタンと開け閉めするトットちゃんは、2限目には窓際に立って外を眺めている。授業を邪魔されるよりはと先生が放っておくと、チンドン屋を発見して呼び込んでしまう。
そんなことを繰り返して、小学校を退学させられたトットちゃんが、次に入学したトモエ学園で校長先生や友だちと出会い、その暮らしの中でいろいろなことを感じ、自然に学び、成長していく様子が描かれています。
あとがきに、
「もし、トモエに入ることがなく、小林先生(校長先生)にも逢わなかったら、私は、恐らく、なにをしても、『悪い子』、というレッテルを貼られ、コンプレックスにとらわれ、どうしていいかわからないままの、大人になっていた、と思います」
と書かれています。
もし学校で怒られ、家でも怒られ(徹子さんのご両親はとてもユニークで理解のある方たちなので、幸運にもそういうことはありませんでした)、「お前はダメだ」と否定の言葉をぶつけられたり、暴力で矯正されたりしていたら。
悪気があるわけではなく、自分でもできない理由がわからないのに、そんなことが続けば、トットちゃんはどのような人間になっていたでしょうか。
日野皓正さんが、指導している中学生の公演で、ソロパートをほかの子に譲らず、延々と演奏し続けるドラムの少年に対し、スティックを奪って投げ捨て、往復ビンタをしている映像が、ニュースになっていました。
そのことに対し、暴力はダメという声よりも、日野さんに一定の理解を示す声のほうが大きく感じます。
そして少年を暗に非難する声というのも多く聞かれます。
「中学生になってもそんな勝手なことをするやつには、それくらいしないといけない」とか、
「最近の子どもは協調性がなくて、指導する人たちは本当に大変だ」とか。
しかし、この映像を見ると、スティックを奪われた少年は、今度は素手で演奏を続けています。
単に協調性がないのであれば、スティックを奪われたときに、びっくりして演奏をやめるのではないでしょうか。
話を聞いていると日野さんとの関係が悪く、日ごろから反抗的、というわけではないようですし、となると、演奏に夢中になっていたとか、演奏を続ける理由が彼にはあったのではないかと思ってしまいます。
子どもの頃には気づきませんでしたが、大人になってから、「この人の注意不足は単なる注意不足じゃないような気がする」とか、「この人の『ちゃんと話を聞いていない』は単なる『ちゃんと話を聞いていない』じゃないような気がする」と感じることがあります。
何を言っているのか、わかりませんね。
ドラムの少年の一見「協調性がない」と思われるけど、そうじゃないのと同じようなことなのですが。
自分の感覚なので、論理的に説明することができなくてすみません。
何が言いたいのかというと、トットちゃんは特別に珍しい存在ではなく、案外誰の周りにもいるんじゃないかということです。
そしてトットちゃんの物語を思い出せば、きっとその人を理解しようと思うはずです。
ついでに言っておくと、案外どころか確実に誰の周りにもゲイはいますからね。これは断言できます!
追記
体罰の是非については、うーんという感じです。
「時と場合によって必要」ということが仮に本当だとして、その「時と場合」をちゃんと見極められる大人がどれだけいるのか。見極められない大人が多数派なら、それはもうダメということにしたほうがいいのでは?と思ってしまいます。
もちろん先生方が大変なのも理解できます。
だから自己防衛しなければいけないときは対抗しなければならないし、まあそれはそもそも体罰ではなく自己防衛か・・・。
ただパワーバランスが強いほうが暴力をふるうというのはやはり反対です。
基本的には先生のほうが強いはずですが、生徒のほうが強い場合もあります。
その場合は、もしかしたら「時と場合」に当たるのかもしれません。
最終的には、体罰には一定の抑制効果がある、ということは否定しませんが、そのことに甘んじて体罰を行う指導者に対しては、ほかの方法で生徒をちゃんと導くことができる人もいるのに、体罰という方法でしか導くことができないという自身の指導者としての未熟さを自覚し、苦渋の決断のうえ行ってほしいと願います。