こんにちは。
英駿個別進学セミナー、塾長の加藤です。

今日は、少し誤解を招くかもしれませんが、私が長年子どもたちを指導してきて、

強く感じていることを書いてみたいと思います。

それは、

「自分のことしか考えていない子ほど、成績が上がることがある」

ということです。

 

こんなことを書くと、

「教育者が何を言っているんだ」
「他人を思いやれる子に育てることの方が大切でしょう」

そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。

もちろん、その通りです。

人を思いやる気持ち、人の立場に立って考える心、困っている人に手を差し伸べられる優しさ。

人として生きていくうえで、どれも大切なことです。

私も、子どもたちにはそうした心を持って成長してほしいと願っています。

しかし、こと「勉強」に関しては、少し違う話になります。

 

 勉強するときくらい、もっとわがままでいい。

 

ここで私が言う「わがまま」とは、他人に迷惑をかけたり、自分の都合だけを押し通したりすることではありません。

周りの目を気にせず、自分が知りたいこと、わからないことを、とことん追求する姿勢のことです。

たとえば、授業中にわからない問題があったとします。

本当は先生に聞きたい。

でも、こんなことを聞いたら笑われるんじゃないか。
みんなはわかっているのに、自分だけわからないと思われるんじゃないか。
何度も質問したら、先生に面倒くさいと思われるんじゃないか。

そんなことを考えて、結局、質問できずに終わってしまう。

私は、これがとてももったいないと思うのです。

せっかくわからないところを見つけたのに。
せっかく自分の弱点を克服するチャンスがあるのに。

周りの目を気にするあまり、その機会を自分から手放してしまう。

これでは、あまりにももったいない。

勉強しに来ているのは、周りの子に賢いと思われるためではありません。

先生に気に入られるためでもありません。

自分自身が、今より少しでもできるようになるためです。

だったら、もっと自分勝手でいい。

わからなければ聞けばいい。
納得できなければ、もう一度聞けばいい。
できるようになりたいなら、遠慮せずに教えてもらえばいい。

自分の成長に対して、もっと貪欲になってほしいのです。

 

 質問することは、恥ずかしいことではありません。

 

「こんなことを聞いたらおかしいと思われるんじゃないか」

その気持ちは、よくわかります。

特に、勉強が苦手だと感じている子や、これまで何度もつまずいてきた子にとっては、質問すること自体が勇気のいることかもしれません。

でも、わからないことを質問するのは、本来、恥ずかしいことではありません。

むしろ、自分が何をわかっていないのかを認め、それを解決しようとすることは、立派な学ぶ姿勢です。

先生に質問したからといって、それだけで周りの子が自分のことを悪く思うわけでもありません。

もちろん、世の中には、わからないことを小ばかにしたり、質問した子を笑ったりする大人もいるかもしれません。

でも、そんな人の評価を気にして、自分の学びを止める必要はありません。

わからないことを安心して聞ける環境で、思い切り学べばいいのです。

 

 伸びる子は、自分の「わからない」を放っておかない。

 

これまで、私は本当にたくさんの子どもたちを見てきました。

その中で感じるのは、伸びていく子には、いくつかの共通点があるということです。

その一つが、自分の「わからない」を放っておかないこと。

わからない問題に出会ったとき、そこで終わりにしない。

何がわからないのかを考える。
先生に聞く。
もう一度解いてみる。
できなければ、また聞く。

この繰り返しが、少しずつ力になっていきます。

反対に、わからないことがあっても、何となくわかったふりをして先に進んでしまうと、同じところで何度もつまずくことになります。

勉強は、見栄を張る場所ではありません。

できない自分を隠す場所でもありません。

できないことを、できるようにしていく場所です。

だからこそ、私は子どもたちに伝えたい。

「周りの子がどう思うかなんて、今は気にしなくていい。君がわかるようになることの方が、ずっと大事なんだよ」と。

 

 英駿では、わからないことをそのままにしてほしくありません。

 

英駿個別進学セミナーでは、子どもたち一人ひとりと向き合いながら、塾長である私が直接指導しています。

ただ問題の解き方を教えて、授業を終える。

それだけでは、十分ではないと考えているからです。

どこでつまずいているのか。
何が理解できていないのか。
なぜ勉強に自信を持てなくなっているのか。

そうした部分にも目を向けながら、子どもたちの学びを支えていきたいと思っています。

成績が伸び悩んでいる子の中には、能力がないわけでも、努力する気持ちがないわけでもなく、わからないことをうまく解決できずにいる子もいます。

質問することに遠慮があったり、間違えることを怖がっていたり、自分には無理だと思い込んでいたり。

そんな子が、安心して「わかりません」と言えるようになる。

そして、一つひとつの疑問を解決し、「あ、そういうことか!」という経験を積み重ねていく。

私は、そこに大きな意味があると思っています。

子どもたちを急かすのではなく、一人ひとりの課題に向き合い、できるようになるまで粘り強く支える。

それが、私の考える教育です。

 

 他人を思いやる心と、自分の成長を求める心。

 

最後に、もう一度お伝えしたいと思います。

人として生きていくときには、他人を思いやる心が大切です。

でも、勉強するときには、周りに遠慮しすぎる必要はありません。

誰かに笑われないか。
変に思われないか。
自分だけできないと思われないか。

そんなことに気を取られるよりも、目の前の問題を一つでも理解することに力を使ってほしいのです。

人には優しく。勉強には貪欲に。

私は、そんな子どもたちがもっと増えてほしいと思っています。

そして、もし今、お子さまが「勉強しているのに成績が上がらない」「わからない問題を質問できない」「自分にはどうせ無理だと思っている」のであれば、どうか、すぐに諦めないでください。

学び方が変われば、取り組む姿勢が変わることがあります。

一つわかるようになれば、次の一問に向かう気持ちが生まれることもあります。

その小さな変化を大切にしながら、お子さまの可能性を一緒に探していきたい。

英駿個別進学セミナーは、そんな思いで子どもたちと向き合っています。

大津市石山で、お子さまの勉強についてお悩みの保護者の皆さま。

「うちの子にも、まだ伸びる可能性があるのではないか」

そう感じておられるなら、一度ご相談ください。

お子さまの今の状況を伺いながら、何ができるのかを一緒に考えたいと思います。

勉強は、できない自分を責めるためのものではありません。

昨日までできなかったことが、今日できるようになる。その喜びを、子どもたちに知ってほしい。

それが、私が長年、教育の現場に立ち続けている理由の一つです。

 

【教室のご案内】

英駿個別進学セミナー
滋賀県大津市栄町1-14

ホームページ:https://eishunjapan.jp/

お子さまの学習についてのご相談も、お気軽にお問い合わせください。

 

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 「うちの子は、このままで大丈夫でしょうか?」

 

塾で子どもたちを見ていると、保護者の方からこのようなご相談をいただくことがあります。

勉強が思うように進まない。
家で教えようとしても、なかなか理解してくれない。
本人もイライラしている。
親が教えると、親子げんかになってしまう。

そして、保護者の方は、

「もしかしたら、何か特別な問題があるのではないか」
「学習方法が合っていないのではないか」
「一度、検査を受けた方がいいのではないか」

と、どんどん心配になっていきます。

もちろん、お子さんのことを心配するのは、親として当然のことです。

しかし、私は塾で子どもたちを長年見てきて、時々こう思うことがあります。

「少し、心配しすぎてはいないだろうか」

もちろん、本当に専門的な支援が必要なケースもあります。

ですから、何でも「大丈夫、大丈夫」と片づけてしまうのは違います。

ただ、勉強がうまく進まないことに本人がいら立ち、その気持ちを一番身近な親にぶつけているだけ、ということも決して少なくありません。

子どもは、うまくいかない自分自身に腹を立てています。

「なんで分からないんだろう」
「できない」
「もう嫌だ」

そんな気持ちを抱えている。

でも、その気持ちをうまく言葉にすることはできません。

だから、つい親に当たってしまう。

それを親は真正面から受け止めてしまいます。

「この子はこんなに苦しんでいる」
「私の教え方が悪いのだろうか」
「このままで将来大丈夫だろうか」

そして、親の心配がどんどん大きくなっていく。

私は、ここで少し距離を置いて子どもを見ることも大切なのではないかと思っています。

子どもが「もう嫌だ」と言ったからといって、本当に勉強そのものを嫌いになったとは限りません。

今、うまくできないことが嫌なのかもしれない。

思うようにいかない自分が嫌なのかもしれない。

そして、その気持ちを一番安心してぶつけられる相手が、お母さんやお父さんなのかもしれません。

だからこそ、親がすべてを自分の責任として背負わなくてもいいのではないでしょうか。

 

 「教える」ことが、親の役割とは限らない

 

特に勉強については、親が子どもに教えようとすると、どうしても感情が入りやすくなります。

「さっきも言ったでしょう」
「どうして分からないの?」
「ちゃんと覚えて」

親も一生懸命です。

でも、子どもの側からすれば、

「分からないから聞いているのに……」

となってしまう。

そして、親子ともに疲れてしまいます。

私は、家庭では「教える」ことよりも、

「見守る」ことのほうが大切な場合もある

と思っています。

分からないところをすべて家庭で解決する必要はありません。

そこは学校や塾など、教育を仕事としている人間に任せてもいい。

家庭は家庭で、子どもが安心して戻ってこられる場所であればいい。

それだけでも、子どもにとっては大きな支えになります。

 

 これから「学ぶ」ということは、大きく変わっていく

 

私は、これから先、子どもたちの「学ぶ」ということ自体が、大きく形を変えていくのではないかと思っています。

これまでの教育には、

「この時期にはこれを学ぶ」
「この学校に進む」
「その次はこの学校へ進む」

という、ある程度決められた道筋がありました。

大人が用意した一本のレールの上を、できるだけ脱線せずに進んでいく。

それが「よい進路」と考えられていた時代もあったと思います。

しかし、これからは、そうした一本道だけでは対応できない時代になっていくのではないでしょうか。

何を学ぶのか。

どこで学ぶのか。

どのような仕事をするのか。

どのような生き方をするのか。

その答えを、大人が一つに決めてあげることはできません。

だからこそ、これからの教育に必要なのは、

子ども自身が考え、自分で選び、自分で決めていく力

なのだと思います。

もちろん、いきなり「自分で決めなさい」と言ってもできません。

そのためには、小さい頃から、

「どうしたい?」
「どう思う?」
「あなたはどう考える?」

と問いかけてもらう経験が必要です。

失敗してもいい。

やり直してもいい。

自分で考えて決めたことなら、その結果も自分の経験になる。

そうした積み重ねの中から、自立心は育っていくのだと思います。

 

 大人の役割も変わっていく

 

そう考えると、これからの教育者の役割も変わっていかなければならないと思います。

「教える人」から、

「子どもが自分で学び、自分で考え、自分で進んでいけるように支える人」へ。

私は、そんな教育がこれからますます重要になってくると思っています。

そして、これは現在大きな問題となっている教師不足とも、無関係ではないのではないでしょうか。

もちろん、教師不足にはさまざまな原因があり、一つの方法ですべてが解決するわけではありません。

しかし、教育のあり方そのものを根本から見直していくことで、教師がすべてを背負わなければならない現在の構造を少し変えることはできるのではないか。

「先生が全部教える」

「親が全部支える」

という形から、

子ども自身が学びの主体になり、学校・家庭・地域・民間教育がそれぞれの役割を担いながら支えていく。

そんな教育の形を考えていく必要があるのではないでしょうか。

 

 子どもが勉強でつまずいたとき、

 

「この子は大丈夫だろうか」

と心配することは、親として当然です。

でも、心配しすぎて、子どもの一時的なつまずきまで「この子の将来の問題」にしてしまわないことも大切なのだと思います。

今できないことがあってもいい。

今、英語が分からなくてもいい。

今、勉強にイライラしていてもいい。

子どもは、これからいくらでも変わっていきます。

大切なのは、子どもの人生を大人が心配しすぎて先回りすることではなく、

「あなたなら、自分で考えて、自分の道を見つけていける」

という信頼を、子どもに伝えていくことなのかもしれません。

私は、これからの教育は、

「何を教えるか」だけではなく、

「どうすれば、その子自身が学び続けられる人になるのか」

を考える時代になっていくと思っています。

テスト前になると、英駿では日曜日などに勉強会を行います。

英駿で自立学習する生徒たちの姿

「何時から何時まで来るか」は、基本的に生徒自身に決めてもらっています。

もちろん、学校や部活動、家庭の予定などもありますから、無理のない範囲で、自分で考えて参加する。

私たちは、そういう時間にしたいと思っています。

「○時から来なさい」
「○時まで勉強しなさい」

と、こちらが時間を決めてしまうのではなく、

「自分はいつ勉強するのか」
「どれくらい勉強するのか」

を、自分で考える。

それも勉強の一つだと考えているからです。

教室で勉強する生徒たち

ところが、時々、生徒からこんな質問をされることがあります。

「先生、今日、僕って何時までですか?」

「今日は何時までですか?」

そんなとき、私は少し考え込んでしまいます。

もちろん、その生徒を責めるつもりはありません。

もしかすると、家で保護者の方と相談して決めてきたのかもしれません。

あるいは、単純に自分が何時まで申し込んだのか忘れてしまっただけかもしれません。

だから、その一言だけで、

「自分で決めていないんだ」

と決めつけることはできません。

教室で勉強する生徒たち、自立学習を促す

それでも、私はこの質問を聞くと、少し寂しい気持ちになります。

それは、その生徒に対してではありません。

ましてや、その生徒の保護者の方を責めたいわけでもありません。

むしろ、自分自身に対してです。

私たちは「自立して学ぶ」ということを、とても大切にしています。

勉強する時間も、自分で考える。

何を勉強するのかも、自分で考える。

分からないことがあれば、自分から聞く。

そして、自分の学びに自分で責任を持つ。

そういう力を、少しずつ身につけてほしいと思っています。

だからこそ、

「今日は何時までですか?」

と聞かれたとき、

「ああ、まだまだ私たちの思いが十分に伝わっていないのだな」

と、自分自身を振り返るのです。

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教育というのは、こちらが「こういうことを大切にしています」と言ったからといって、

それだけで生徒に伝わるものではありません。

毎日の関わりの中で、少しずつ伝わっていくものなのだと思います。

言葉で説明するだけではなく、

「自分で決めていいんだ」

「自分で考えていいんだ」

「失敗しても、自分で考え直せばいいんだ」

という経験を、何度も積み重ねていく。

その積み重ねが、やがて「自立」につながっていくのだと思います。

だから、こうした場面に出会ったとき、

「どうして自分で決められないんだ」

と生徒を責めるのではなく、

「まだまだ私の伝え方が足りないのかもしれない」

と、自分に問い返す。

そして、もう一度、子どもたちとの関わり方を考えてみる。

それが、私自身の仕事なのだと思っています。

自立学習を促す塾講師と生徒

教育に「これで完成」というものはありません。

昨日できたことが、今日もできるとは限らない。

こちらの思いが、すぐに子どもたちに届くとも限らない。

だからこそ、私自身も学び続けなければならない。

「まだまだだな」と思わされる出来事は、決して悪いことばかりではないのかもしれません。

それは、自分がもう一歩、精進するためのきっかけを与えてくれているのですから。

「今日は何時までですか?」

そんな何気ない一言から、

「子どもたちが、自分の人生を自分で考えていけるようになるために、私は何ができるだろう」

と、また考えさせられました。

生徒を急がせない。

誰かと比較しない。

そして、自分のことを自分で考える。

そんな力を、勉強を通して少しずつ育てていける塾でありたいと思います。

まだまだ道の途中です。

だからこそ、私自身も精進していきたいと思います。

最近の人手不足の問題について、

以前とは少し違う種類の難しさを感じることがあります。

それは「人が集まらない」ということだけではありません。

せっかく人が入ってくれても、なかなか続かない。

 

ちょっとした人間関係の行き違いが大きな問題になったり、

注意を受けたことをきっかけに辞めてしまったり、

本人と周囲とのコミュニケーションがうまくいかなくなったりする。

 

人材育成や職場環境に問題がある可能性もあります。

しかし、長年、子どもたちや若者と接してきた人間として、

もう一つ気になっていることがあります。

それは、

「人と一緒に生きていくための経験そのものが、少なくなっているのではないか」

ということです。

 

人間関係は、どこで学ぶものなのか 

 

人間関係のつくり方。

相手の気持ちを考えること。

嫌なことを言われたとき、どう受け止めるか。

自分の思いと相手の思いが違ったとき、どう折り合いをつけるか。

腹が立ったときに、すぐに関係を切らず、どう話し合うか。

自分が悪かったときに謝ること。

相手にも問題があるときに、それでも関係を続ける方法を考えること。

こうしたことは、学校の教科書だけでは学べません。

本来、もっと小さい社会の中で、少しずつ身につけていくものだったのではないでしょうか。

 

その最初の単位が「家庭」。

そして、その外側にある「地域」。

さらに学校、友人関係、部活動、アルバイトなどへと、人間関係の範囲が広がっていく。

私は、そういう順序があったのではないかと思っています。

 

もちろん、昔の家庭や地域社会がすべて良かったわけではありません。

昔には昔の問題がありました。

家庭内の抑圧や、地域社会のしがらみ、人間関係から逃げにくいという問題もあったでしょう。

ですから、「昔に戻ればいい」と言いたいわけではありません。

ただ、人間関係を実際に経験する場が、以前より減っているのではないか。

そこは考えてみる必要があると思うのです。

 

家族の形は、大きく変わった 

 

日本の家族の姿は、この数十年で大きく変わりました。

国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、2020年の日本の一般世帯は約5,570万世帯。

そのうち単独世帯は約2,442万世帯で、全体の4割を超えています。

さらに、2050年には単独世帯が約2,330万世帯となり、

一般世帯の約44%を占めると推計されています。

また、3世代が同居する世帯も減少しています。

1995年には「その他の一般世帯」の中で3世代世帯が75.3%を占めていましたが、

2020年には54.6%まで低下しています。

 

もちろん、これは「昔の大家族が良かった」という単純な話ではありません。

しかし、祖父母、親、子どもが同じ家で暮らすことによって、

世代の違う人間同士が接する機会が自然に生まれていたことは事実です。

子どもにとっては、

「おじいちゃんは、なぜこう考えるのだろう」

「お父さんとお母さんの意見が違うときはどうするのだろう」

「年上の人にはどう接するのだろう」

といったことを、生活の中で見る機会がありました。

今は、そうした機会そのものが少なくなっています。

 

地域もまた、「人間関係を学ぶ場所」だった 

 

家庭の外にも、かつては地域という社会がありました。

近所のおじさん、おばさん。

町内会。

子ども会。

祭り。

商店街。

地域の行事。

学校から帰れば近所の大人がいる。

悪いことをすれば、親だけでなく近所の大人から叱られる。

逆に、困ったことがあれば助けてもらえる。

そういう「家族ではないけれど、完全な他人でもない」という関係が、

人間関係の練習場になっていた面はあったと思います。

国土交通省も、地域コミュニティの希薄化について、

住民の入れ替わり、子どもの減少、職場と居住地域の分離、情報化など、さまざまな要因を指摘しています。

自治会などの地域活動への参加基盤も、長期的には弱くなってきました。

つまり、家庭の外側にあった「地域という学校」も、少しずつ小さくなっているのです。

 

そして、いきなり「社会人」になる 

 

ここで、私は一つの仮説を持つようになりました。

家庭で人間関係を学ぶ。

地域で人間関係を学ぶ。

学校で友人関係や集団生活を学ぶ。

アルバイトなどを通じて、さらに広い社会を経験する。

そうして少しずつ、「自分とは違う人と一緒に生きる力」を身につけていく。

 

ところが、家庭も地域も、昔とは形が変わっている。

人間関係そのものを経験する機会が減っている。

その状態で、18歳、20歳になって、いきなり職場という「大人の社会」に入る。

そこで初めて、

「こんなに考え方の違う人がいるのか」

「自分の思い通りにならないことがあるのか」

「嫌なことを言われたとき、どうすればいいのか」

という問題に直面する。

これは、本人の性格だけの問題ではないのではないか。

そんなことを考えるようになりました。

 

実際に「人間関係」は離職の大きな理由になっている 

 

これは、単なる私の印象だけではありません。

労働政策研究・研修機構(JILPT)が2025年に公表した若年者の調査では、

初職を離職した若者の理由として、「人間関係がよくなかったため」が男女とも上位に入り、

男女合計でも25%を超えています。

 

また、離職した若者の初職には、

・教育訓練が少ない
・職場でのコミュニケーションが少ない
・相談相手が少ない
・職場トラブルが多い

といった特徴が見られました。

 

ここは非常に重要です。

「若者が我慢できなくなった」

という一言で片付けられる話ではありません。

会社側にも、教育する責任があります。

新人に仕事を教える。

相談できる人をつくる。

人間関係を調整する。

適切な労働条件を整える。

これは企業の責任です。

一方で、それだけでは説明できない部分もあるのではないか、と私は思います。

 

「すぐ辞める若者」が問題なのではなく、「辞めるしかない」と感じるまでの経験が少ないのではないか 

 

私は、ここを少し違う角度から考えてみたいのです。

人間関係で嫌なことが起きたとき、

「もう辞めます」

となる前に、

「ちょっと話をしてみよう」

「この人はこういう考え方なのかもしれない」

「自分にも悪いところがあったかもしれない」

「もう少しやってみよう」

という選択肢を持てるかどうか。

 

その力は、突然身につくものではありません。

小さい頃から、

喧嘩をする。

仲直りをする。

怒られる。

謝る。

譲る。

我慢する。

助けてもらう。

人を助ける。

自分の思い通りにならない経験をする。

そういう小さな経験の積み重ねによって、

人は「人間関係の耐性」のようなものを身につけていくのではないでしょうか。

これは医学的な意味での「耐性」という話ではありません。

人と人との違いを受け入れながら、一緒にやっていく経験です。

 

だから私は「家庭力」と「地域力」を考えたい 

 

ここでいう「家庭力」とは、

「親が子どもを厳しくしつける力」

という意味ではありません。

もっと広い意味です。

家族が一緒に食事をする。

会話をする。

意見が違うことを経験する。

家族の中でも思い通りにならないことを知る。

困ったときに相談する。

誰かを心配する。

誰かのために我慢する。

誰かに助けてもらう。

そういう、人間関係を経験する力です。

地域力も同じです。

地域の人と挨拶をする。

子どもが地域の大人と接する。

年齢の違う人と一緒に何かをする。

困ったときに助け合う。

自分とは考え方の違う人とも付き合う。

そういう経験です。

 

ただし、これは「昔に戻れ」という話ではない 

 

私は、ここを間違えてはいけないと思っています。

「昔は良かった」

「今の若者はダメだ」

という話にしてしまったら、何も生まれません。

 

社会は変わりました。

共働き世帯が増えました。

核家族化が進みました。

単身世帯も増えました。

転居も増えました。

地域との関係も変わりました。

インターネットやSNSによって、人とのつながり方そのものも変わりました。

 

それならば、昔と同じ家庭や地域を復活させるのではなく、

今の時代に合った「人間関係を学ぶ場」をもう一度つくる必要がある。

私はそう考えています。

 

人手不足対策を「採用」だけで考えてはいけない 

 

今、人手不足が大きな社会問題になっています。

厚生労働省によると、2024年の転職者数は331万人で、3年連続の増加となっています。

より良い条件の仕事を求める転職も増えています。

つまり、企業にとっては「採用すること」だけでなく、

「人に長く働いてもらうこと」がますます重要になっています。

 

しかし、そこで、

「どうすれば若者が辞めないのか」

だけを考えると、対症療法になってしまいます。

給料を上げる。

休みを増やす。

福利厚生を充実させる。

もちろん必要です。

しかし、それと同時に、

人と人が違っていても、一緒に働ける人を育てる社会

をつくらなければならないのではないでしょうか。

そのためには、会社だけに責任を負わせるのではなく、

家庭、学校、地域、そして社会全体で考える必要があります。

 

もしかすると、教育の役割も変わってくる 

 

私は塾という仕事を30年以上やってきました。

だからこそ、最近は「勉強を教える」ということだけが教育ではないと思うようになっています。

もちろん、学力は大切です。

しかし、

「人と一緒に学ぶ」

「人の話を聞く」

「自分の意見を伝える」

「意見が違っても相手を否定しない」

「失敗しても、もう一度やってみる」

こうした経験も、教育の大切な部分ではないでしょうか。

 

そして、これは学校だけが担うものでもありません。

家庭にもできる。

地域にもできる。

塾にもできる。

職場にもできる。

社会全体で、少しずつ担っていけばいい。

 

人手不足の根本にあるものを、もっと長い目で考えたい 

 

私は最近、人手不足について考えるとき、

「どうやったら人が辞めない会社をつくれるか」

という問いだけでは足りないのではないかと思っています。

そのもっと手前に、

「どうやったら、人と人が違っていても一緒に生きていける社会をつくれるのか」

という問いがあるのではないか。

そして、その最初の場所が家庭であり、その次が地域なのではないか。

 

家庭力が落ちた。

地域力が落ちた。

だから若者が悪い。

私は、そんな単純な話をしたいわけではありません。

家庭や地域の形が変化したのは、個人の責任ではありません。

社会構造そのものが変わった結果です。

だからこそ、個人を責めるのではなく、

失われつつある「人と人との間で学ぶ機会」を、もう一度社会の中につくっていく。

そこに目を向ける必要があるのではないでしょうか。

 

私自身も、ここから始めてみたい 

 

「家庭力と地域力を復活させれば人手不足が解決する」

と断言できるだけのデータはありません。

今のところ、それは私の仮説です。

実際には、賃金、労働時間、職場環境、教育訓練、採用のミスマッチなど、

さまざまな要因があります。若者の離職についても、現在の研究はこうした複数の要因を示しています。

 

それでも私は、この仮説を一度、真剣に考えてみたいと思っています。

なぜなら、人間関係を学ぶ機会が減っているのだとすれば、

その問題は一朝一夕には解決しないからです。

家庭で。

地域で。

学校で。

職場で。

そして、私たち大人自身が。

もう一度、人と人との関係を学び直す。

それには、おそらく何十年という時間がかかるでしょう。

しかし、社会の根っこの部分を変えるというのは、そういうことなのだと思います。

 

人手不足を「人を集める問題」としてだけ考えるのではなく、

「人が人と一緒に生きていける社会をどうつくるか」という問題として考えてみる。

私は、そこから始めてもいいのではないかと思っています。

夏休みも終わりに近づき、二学期が目の前に迫ってきました。

この時期になると、毎年のように「学校復帰」という言葉を耳にするようになります。

「二学期から学校に行けるだろうか」

「ちゃんと朝起きられるだろうか」

「宿題は終わっただろうか」

「また学校に行きたくないと言い出さないだろうか」

親御さんにとっては、我が子のことですから心配になるのは当然です。

しかし、私は長年子どもたちを見てきて、時々こんなことを思います。

 

子どもの心の問題だと思っていることが、

実は親の心の問題から始まっていることもあるのではないか。

 

もちろん、すべてがそうだとは言いません。

学校に行けなくなる理由は、子どもによって違います。

友人関係、勉強、学校生活、家庭環境、本人の性格……。

一つの理由だけで説明できるものではありません。

だからこそ、簡単に「この子はこういう子だ」と決めつけてはいけない。

これは、私が大切にしている考え方の一つです。

 

「大丈夫?」という親の心配

 

夏休みの終わりになると、親は子どものことが気になります。

「宿題やったの?」

「二学期、大丈夫?」

「ちゃんと学校行くんだよ」

「生活リズムを戻さないと」

「このままじゃダメだよ」

親からすれば、どれも子どものためを思っての言葉です。

しかし、子どもからすると、その言葉の一つひとつが、

「自分は大丈夫じゃないと思われている」

「ちゃんとできないと思われている」

というメッセージになってしまうことがあります。

親の「心配」が、子どもの「不安」を大きくしてしまう。

そんなこともあるのではないでしょうか。

自分の物差しだけで人を見ない

「あの子はこういう子だ」

「学校には行かなければならない」

「普通はこうするものだ」

「みんなできているのだから、この子もできるはずだ」

大人は、知らず知らずのうちに自分の物差しで子どもを測ってしまいます。

でも、その物差しは、本当にその子に合った物差しなのでしょうか。

 

私たちは、他人のことを少し見ただけで、

「この子はやる気がない」

「この子は弱い」

「この子は学校が嫌いだ」

「この子は勉強ができない」

などと判断してしまいがちです。

 

けれど、その子には、その子にしか分からない事情があります。

外から見えているものだけが、その子のすべてではありません。

だからこそ、

「決めつけない」

ことが大切なのだと思います。

「柳は緑、花は紅」

「柳は緑、花は紅」

という言葉があります。

柳は柳として緑色をしている。

花は花として紅色をしている。

当たり前のことを、当たり前のまま受け止める。

そこには、

「みんな同じでなくていい」

という世界があります。

柳に、

「どうして花のように咲かないの?」

と言っても仕方がありません。

花に、

「どうして柳のようにしなやかになれないの?」

と言っても意味がありません。

柳には柳のよさがあり、花には花の美しさがある。

人間も同じではないでしょうか。

 

元気に学校へ行って、友達と過ごしてほしい。

親ならそう願うでしょう。

しかし、

「学校に毎日行くことができる=良い子」

「学校に行けない=問題のある子」

と単純に考えてしまったら、その子の本当の姿を見ることができなくなります。

大切なのは、その子自身を見ることではないでしょうか。

他の子と比べるのではなく。

親の理想と比べるのでもなく。

世間の「普通」と比べるのでもなく。

その子は、その子として今どうしているのか。

そこを見る。

それが教育の出発点なのだと思います。

子どもを変える前に、大人が変わる

子どもが不安そうにしていると、親は何とかしてあげたくなります。

だから、

「頑張りなさい」

「ちゃんとしなさい」

「学校に行かなきゃ」

と、子どもを変えようとしてしまいます。

でも、本当に必要なのは、子どもを変えることではなく、

大人が子どもを見る目を変えること

なのかもしれません。

「大丈夫かな」と心配する前に、

「この子なら、この子なりに何とかするだろう」

と信じてみる。

先回りして心配するのではなく、何か起きたときに一緒に考える。

それくらいのほうが、子どもは安心して自分の足で歩けるのではないでしょうか。

親がもっと「どん」と構える

子どもにとって一番安心できるのは、

「何があっても、この人は慌てない」

と思える大人がそばにいることなのかもしれません。

失敗しても、

「まあ、そんなこともある」

学校に行けない日があっても、

「今日はそういう日なんだね」

勉強がうまくいかなくても、

「じゃあ、どうしたらいいか一緒に考えよう」

そう言ってくれる。

そんな大人がそばにいれば、子どもは少しずつ自分の力で立ち上がっていくのではないでしょうか。

「親がもっとしっかりせい」

少し乱暴な言い方になりますが、

「親がもっとしっかりせい」

と、私は思うことがあります。

これは、子どもを厳しく管理しろ、という意味ではありません。

むしろ、その反対です。

子どもを信じる。

子どものことを簡単に決めつけない。

自分の物差しだけで子どもを測らない。

そして、必要以上に心配しない。

親がどんと構えているからこそ、子どもも安心して自分の道を歩くことができるのではないでしょうか。

二学期が始まります。

「ちゃんと学校に行けるかな」

と心配する前に。

「宿題は終わったの?」

と何度も確認する前に。

少し深呼吸して、子どもの顔を見てみませんか。

そして、

「まあ、この子はこの子なりにやっていくよ」

と、少しだけ信じてみる。

柳は緑。

花は紅。

人には、人それぞれの歩幅があります。

だから私たちは、子どもたちを同じ形に揃えるのではなく、

その子が、その子らしく伸びていくことを支える。

それこそが、教育なのではないかと思っています。

 

急がせない。
比較しない。
決めつけない。
その子の歩幅を大切にする。

 

二学期も、子どもたちがそれぞれの歩幅で歩いていけるように。

大人は少し後ろから、笑顔で見守っていきたいものです。

そして私自身も、自分の物差しだけで子どもたちを見ていないか。

いつも自分に問いかけながら、子どもたちと向き合っていきたいと思います。