経営理論の考察(6) 組織の情報創造理論(SECIモデル) | 線路の外の風景

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 9月に入ってから、管理人の体調が不安定になっており、ブログの更新も最近頻度が落ちておりますが、なにしろ1級の精神障害者に認定されてしまった人間が一人でやっていることなので、あまり安定した仕事ぶりにならない点はご了承ください。

 今回の記事は、入山章栄氏が『世界標準の経営理論』第15章で取り上げている、一橋大学名誉教授・野中郁次郎氏の提唱した組織の知識創造理論(SECIモデル)を主に取り上げますが、この理論には多分に哲学的要素の混じっているので、前回に続いて分かりにくい話ばかりの記事になりますが、その点についても併せてご了承ください。

 

1 組織学習のプロセスとSECIモデル

 このブログでは、経営理論に関する記事を書くにあたり、一般的に広く知られている経済学由来の理論では無く、敢えて心理学由来の理論から先に取り上げており、その理由については過去の記事で書いたとおりですが、心理学に理論的基盤を置くカーネギー学派の考え方によれば、組織は①「サーチ」によって経験を獲得するプロセス、②その経験を通じて知を獲得するプロセス、③獲得した知を組織の中に記憶するプロセスを繰り返すことによって、組織としての学習を積み重ねていきます。

 2回にわたって取り上げてきた「知の探索」「知の深化」の理論は、このうち①のプロセスを深掘りした理論であり、「経営理論の考察」第1回の記事では、③のプロセスについて部分的に取り上げました(③のプロセスに関する残りの部分は、経営理論の考察(7)で取り上げる予定です)。今回取り上げるのは②のプロセス、すなわち組織が経験を通じて新たな知を獲得するプロセスを深掘りした理論ということになります。

 カーネギー学派の考え方では、②のプロセスにおいて組織が新たな知を獲得するには、次の3つのルートがあると考えられています。

 

(1)知の創造

 人や組織が、自ら得た経験を通じて、新たな知を生み出すルートであり、経験によって得た知と、既に持っている既存知を組み合わせて、新たな知を生み出すことになります。

(2)知の移転

 人や組織が、外部から知を手に入れるルートであり、他の企業との技術提携によって他企業の技術が自社に移転されたり、海外進出した企業が現地の合弁企業と提携することによって、現地の顧客や商慣習、政府へのアクセスに関する情報を手に入れたりすることによって、知を獲得する行為がこれに該当します。

(3)代理経験

 他者の経験を観察することによって知を手に入れるルートであり、例えば同業他社が新たな試みに挑戦し、失敗したのであれば通常その真似はしないでしょうし、成功したのであれば追随しようと考えることが多いと考えられますが、このように他者が自分の代わりに経験したことを通じて知を獲得することを、代理経験と呼びます。

 

 このうち、最も重要なルートが「知の創造」であることは言うまでもありませんが、入山氏によると、「知の創造」に関する海外の諸研究は、どれも断片的なものにとどまっており、「知の創造」のプロセスを体系的に描き切った理論と言えるのは、野中氏が提唱したSECIモデルだけなのだそうです。

 経営学の理論というと、ほとんどはアメリカなど外国の学者が提唱した理論を日本に輸入しているイメージがありますが、野中氏とハーバード・ビジネス・スクールの竹内弘高氏との共著である『知識創造企業』は世界的ベストセラーになり、野中氏が1994年に公表した『組織の知の創造に関する動態的理論』という論文は、諸外国の経営学者にも数多く引用されています。野中氏の理論が世界的に注目されたのは、一時は世界を席巻した日本型経営の成功要因を説明したものという要因もあるようですが、入山氏はこれにとどまらず、むしろこれからの時代こそ、野中理論が本領を発揮するなどと述べ、その理論を絶賛しています。

 入山氏が絶賛するSECI理論とは一体どのようなものなのか、第2項以下で説明していくことにします。

 

2 「知識」と「情報」の違い

 SECI理論を説明するには、まず「知識」と「情報」はどう違うのか、という考察から入る必要があります。

 一般的な心理学由来の理論では、「知識」と「情報」の区別をほぼ付けておらず、両者は同じようなものとして捉えられていますが、野中氏の問題意識は、「知識」と「情報」は異なるのではないかという視点から始まりました。

 個人が持つ知識は、ハンガリー出身の学者マイケル・ポランニーが1960年代に「暗黙知」と「形式知」の区別を提唱して以来、両者の区別が概ね定着しています。「形式知」とは、言語化・記号化された知のことであり、例えば我々が話す言語はすべて形式知であり、書物やインターネットで伝えられる言語や文章も、数式や図表もプログラミング言語も、同様にすべて形式知に分類されます。

 これに対し「暗黙知」とは、言語や文章、記号などによる表現が難しい、主観的・身体的な経験知のことであり、暗黙知はさらに、一定の経験を反復することによって「個人の身体に体化」された暗黙知と、「個人そのものに体化される認知スキル」に分類されます。

 前者の暗黙知は、スポーツを意識すると分かりやすいです。例えば、野球選手がバッティング技術を習得するには、バッティング技術に関する本を読んだり、指導者のアドバイスを受けたりしても、それだけで上達することはあり得ません。野球選手になる人は、幼少時から指導者や先輩などの素振りを真似ながら、自分で数え切れないほど素振りを繰り返し、また現実の試合で経験した成功や失敗を踏まえ、必要に応じて指導者にフォームの矯正などを受けながら素振りを繰り返すことで、徐々にバッティング技術を身に付けていく必要があります。アート分野についても同様で、例えばピアノやエレクトーンの高い演奏技術を身に付けるのは、幼少時から何年、何十年にもわたる反復練習が必要不可欠であり、楽譜や演奏技術の教本といった「形式知」だけで身に付けることはできません。

 東大卒のプロ野球選手がなぜ成功しないのか、これを理論的に説明するには、スポーツに関する様々な「暗黙知」の存在が理由の一つとして挙げられます。東大卒の選手は、形式知を表現したり理解したりする能力には長けていますが、プロ野球選手に必要な技術には「暗黙知」の割合が非常に大きく、人生の大部分を机上の学問に費やしてきた東大卒の選手は、その分「暗黙知」を手に入れるための練習時間が他の選手より不足しているため、プロ野球選手として成功することが難しいわけです。

 なお、SECI理論には関係ありませんが、東大卒のプロ野球選手が成功しないもう一つの原因は体力であり、人生の大部分を机上の学問に費やしてきた東大卒の選手は、小さい頃から野球漬けの人生を過ごしてきた他の選手に比べ体力が低く、プロとして入団しても、プロ野球選手が行うハードな練習に付いて行ける人はほとんどいないと言われています。

 

 話が脱線しましたが、後者の暗黙知はかなり説明が難しいものの、その存在自体はポランニーを待つまでもなく、古くから認識されているものです。例えば古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは「無知の知」という概念を提唱し、出会った人それぞれに対し、人間がどれだけ無知な存在であるか、しつこく問答を繰り返して理解させようとしたと伝えられていますが、ソクラテス自身は「紙に書かれた哲学など何の意味も無い」として、生涯ついに一冊の本も著すことは無く、ソクラテスという紀元前に生きた人物の存在が現代の我々にも知られているのは、ソクラテスの弟子であったプラトンが、ソクラテスの言行を自分の著書に書き残しているからです。

 現代に生きる我々は、プラトンの著書を通じてソクラテスの思想を部分的・断片的に知ることは出来ますが、ソクラテスが哲学者として獲得した認知スキルのうち、プラトンの著書によって言語化されなかった部分は、ソクラテスの死により永遠に失われてしまったことになります。哲学者で無い古代ギリシャ人も、紙に書かれた哲学の有用性が極めて低いことは認識しており、「哲学も紙に書かれたものは、人々の思考を硬直化させる役に立っただけだ」などとする風刺作品が現代にも伝えられているのですが、哲学という学問分野も、本来は文章化された「形式知」の部分が重要なのではなく、言語化出来ない「暗黙知」の部分がかなり重要な割合を占めているわけです。

 企業経営の現場においても、数多くの修羅場をくぐってきた経営者が、M&Aのデイ-ルで「これはヤバいな」と考える感と、社会人経験ゼロの新入社員がそこで持つ感の質は当然異なるわけですが、一方でその経営者が新入社員から、「なぜこのディールがヤバいと思うんですか?」と質問されても、その理由を上手く説明できないことは往々にしてあります。

 M&Aの成否は、買収しようとする企業の財務情報だけで判断できるようなものではなく、言語化されていない企業の内部事情や、言語化自体が困難な各従業員の能力、性格や企業風土といったものを総合的に判断しなければならないわけですが、その判断に必要とされる勘についても、同様に形式知とするのが極めて困難です。

 企業経営者がこのような「暗黙知」の問題に直面するのは、M&Aの場面に限られません。長い間会社を牽引してきたカリスマ経営者のビジョンや経営上の信念は、一応「経営理念」などの形である程度の言語化(形式知化)が図られますが、経営者の考えるビジョンや信念のうち、言語化できる部分はせいぜい氷山の一角に過ぎません。そのため、カリスマ経営者がそれらを後継者に伝えようとしても、後継者たちは言語化された「経営理念」を表面上理解しているだけで、言語化されていない暗黙知の存在にはなかなか気付かない、下手をすると興味すら示さないといった感じで、そうした暗黙知が後継者たちに伝わらず、結局そうした暗黙知はカリスマ経営者の引退や死亡により永遠に失われ、そうした暗黙知を理解しない後継者の手によって会社経営が一挙に傾くといったことはよくある話です。

 

 このように考えると、「情報」とは言語化された形式知のことであり、言語化されない暗黙知を含めた「知識」と比較すれば、情報は知識のうちせいぜい氷山の一角にあたるものに過ぎない、という結論になります。

 野中氏の発想は、本来人間の持つ知識は、言語化されている形式知より、言語化されていない暗黙知の方が圧倒的に豊かであり、暗黙知を取り込まない知識創造はあり得ない、そして組織が「知」を生み出すには言語化された情報のやり取りだけでは足りず、形式知と暗黙知を含めた2人以上の「人格」がそのまま全体でぶつかり、時には融合しなければならないというものです。

 こうした人格同士のぶつかり合いによって生み出されるのが「全人格としての暗黙知」であり、SECIモデルの根底にある考え方となっています。

 

3 SECIモデルによる知の相互作用プロセス

 野中氏の提唱するSECIモデルは、このような考え方を基本として、2人以上で構成される組織における知の相互作用プロセスを4つのパターンに分けて説明するものであり、英語で表現された4つのパターンの頭文字を取って「SECIモデル」と呼んでいるわけです。

 

(1)共同化(Socialization)

 共同化は、いわば暗黙知と暗黙知のぶつかり合いであり、個人が他者との直接対面による共感や、環境との相互作用を通じて暗黙知を獲得するプロセスを指すものです。すべての人間は、言語化できる形式知のほか、言語化出来ない豊富な暗黙知を持っているわけですが、組織において新しい知を生み出すには、有益な暗黙知が複数者に共有される必要があります。

 そのプロセスは少なくとも2種類あるとされ、そのうちの1つは、身体を使っての共同体験です。企業活動の例で言えば、熟練の職人が若い職人に自分の技術を伝えるときには、若い職人が熟練の職人からアドバイスを受けながら、見よう見まねで徐々にそのやり方を体得して行きますし、接客業で若手社員が接客の技術を体得するにも、初めのうちは先輩社員の動きを見ながら、見よう見まねで体得して行きます。

 弁護士の業務についても、これと似たような面はあります。弁護士に必要な能力というと、法律や判例の知識といった形式知ばかりが注目されがちですが、法廷におけるやり取り、依頼者とのやり取りといった暗黙知に属する能力も実は多く、そうした能力は弁護士になってから、ボスや先輩弁護士のやり方を見よう見まねで、徐々に体得して行くわけです。

 なお、現代のわが国では、こうした共同体験の機会が次第に乏しくなっている傾向にあるように思われます。労働者派遣などといった非正規雇用の増加により、会社が労働力を安価で使えるようになった一方で、職場内における人間関係が希薄化し、特に非正規の労働者は、いくら頑張っても給料は労働時間に応じた時給で支払われるだけなので、先輩たちが持っている豊富な暗黙知にはあまり興味を示さない傾向にあります。人材の動きも流動的になり短期間で離職する者が増えれば、組織として持っていたはずの暗黙知も、やがては失われてしまいます。

 弁護士業界についても、急激な司法試験合格者数の増加により、新人弁護士がイソ弁として働きながら先輩弁護士のやり方を見習うOJTの機会が失われ、激しい生存競争の中で何とか生き残っている若手弁護士も、その多くは先輩弁護士のやり方をほとんど教わること無く育ったため、弁護士業界の在り方自体が悪い意味に変質している感があります。

 そして、大企業に幹部候補生として入社した新人・若手社員の多くも、個人主義的な風潮が高まっているためか、上司や先輩と全人格的な交流を嫌う傾向にあり、経営者の行動を共同体験してその暗黙知を共有しようとする人が少なくなっているため、各企業では現場以外でも、「部下たちが自分の背中を見ようとしない」などと言われ、社員教育に困難を抱えているところが少なくないようです。

 

 共同化のプロセスにおいて、決定的に重要なのが「共感」であり、これは信条、信念、思考法、直感、思考の感覚などの「認知的な暗黙知」を共有するには欠かせません。我々は、それぞれの信条や思考の感覚を持っていますが、それを十分に言語化するのは困難であり、言語化せずにそれを伝えるには、相手にそれを「共感」してもらうしかありません。カリスマ経営者とされる人の信条や経営の思考には理屈を超えた部分があり、言語化できる部分だけを文書やパワーポイントなどでプレゼンをして伝えても、肝心なところはなかなか伝わらないわけです。

 では、言語化出来ない部分を「共感」してもらうには、何が必要でしょうか。野中氏は、一対一での徹底的な「対話」が必要としており、これを「知的コンバット」と呼んでいます。徹底的に対話をしてし尽くした先に、言語を超えた互いの共感が生まれ、暗黙知が共有されるというわけです。

 

(2)表出化(Extermination)

 表出化は、いわば暗黙知から形式知への変換プロセスです。

 共同化のプロセスを経て暗黙知が共有されても、組織の構成員全員が互いに徹底的な「対話」をすることは現実的に不可能ですから、より多くの人に使われるようにするには、暗黙知の内容を形式知として顕在化させる必要があります。言語化はその代表例であり、求められる暗黙知の内容が変われば、それを表現するための言語が形式知として生み出されることになります。

 こうした表出化の場面において、効果的とされる手法の1つは、比喩(メタファー)や類似推論(アナロジー)です。暗黙知自体は言語化されていないため、まずはそれに近しいもの(比喩・たとえ)で代替し、相手にそのイメージを共有してもらうわけですが、革新的な経営者には、こうした例え話の達人が多いと言われています。

 経営理論の考察(5)で紹介したWiLの伊佐山氏は、変化を起こすには何が必要かという問いに対し、まずは今日、あなたが降りる駅を一つ変えましょうと答えました。もちろん、これも例え話の一種であり、実際に帰り道で降りる駅を変えたところで当然に何かが変わるわけではありませんが、要するに伊佐山氏は、普段自分が当然のようにやっていることを、敢えて変えてみることで、新たな発見が生まれ変化を起こせる可能性があるということを、分かりやすい例え話で説明しているわけです。

 また、日本電産の永守重信氏は、自身の経営手法を「千切り経営」と称しています。何か問題があったら、包丁で千切りするように事象を細かく刻んで分析せよという趣旨ですが、永守氏の中に体化されている膨大な暗黙知の内容をそのまま言語化することは不可能なので、そのうち経営思想として重要な部分を「千切り経営」の一言で比喩的に表現しているわけです。

 

 2つめの重要な方法は、仮説化(アブダクション)です。この世に「A→B」という真理法則があったとき、仮に「A→」の部分が分かっていなくても、Bという現象が起きたとき、これはAが原因ではないかと気付くことで、仮説化を試みるというものです。

 この説明だけでは分かりにくいので、管理人なりの例え話を交えて説明することにしますが、例えば北欧から日本へ観光に来るお客さんの多くが、お土産として日本のカイロを買っていくとします。その現象を見て、「ひょっとしたら、北欧諸国には日本のカイロに相当する暖房用具が無いから、日本のカイロを買っていくのではないか?」ということに気付けば、それまでの暗黙知を仮説として言語化することが可能になります。

 そして、北欧諸国には日本のカイロに相当する暖房器具が無いということは、日本のカイロは北欧諸国でも売れるのではないか、という新たな気づきにも繋がります。なお、管理人は北欧諸国からの観光客が日本のカイロを買っていく光景を撮影したテレビ番組を見てそのことに気付きましたが、日本でカイロを製造販売している企業が北欧諸国に進出しない理由までは分かりません。単に、経営陣がそのようなビジネスチャンスに気付いていないだけかも知れませんし、気付いていても需要見通しが不明であるなどの理由から、進出に踏み切れないのかも知れません。

 仮説化の場面で重要なのは、自分で立てた仮説が正しいかどうかではなく、新たな仮説の可能性に気付くことです。仮説の可能性に気付かなければ、気付いても言語化しなければ、暗黙知が顕在化することはありません。実際に調査してみたところ、仮に日本のカイロが北欧諸国で売れる見込みがないと判明したとしても、それも重要な形式知の獲得であり、何らかの方法で日本のカイロが売れない原因を取り除くことが出来れば、重要なビジネスチャンスに繋がるわけであり、少なくともテレビ番組をのんびり眺めているだけで何ら仮説を立てないよりは、はるかにマシなわけです。

 野中氏は、こうしたアブダクションに必要なものとして、「目的意識を持っての、徹底的な事実の察知」を挙げています。野中氏は著書『直感の経営』の中で、富士フィルムを化学メーカーに大転換させた古森重隆氏を引き合いに出し、優れた経営者ほど現場の事実を大事にし、事実をありのままに徹底的に見ようとする、という趣旨のことを述べています。こうした姿勢を持つ経営者ほど、暗黙知の仮説化に繋がる、ハッとした気づきが起こりやすいというわけです。

 

 野中氏が挙げているのは以上の2つですが、入山氏は私見としてこれに加え、暗黙知の図像化(デザイン化)を挙げています。近年の企業経営では、デザイナーやクリエイターが業務で使う思考プロセスを活用し、前例のない課題や未知の課題について最適な解決を図るというデザイン思考が注目を集めていますが、デザイン思考は衣服や建築物など実際の「デザイン」を作るという意味では無く、デザイナーが新たなデザインを考案する際に用いるプロセスを、他の分野にも応用するという方法です。

 具体的には、まず製品やサービスの課題について、ユーザーに対するアンケートやインタビューを駆使した調査を実施し、ユーザー視点で捉えて根本的な解決策を探ります。このプロセスを「観察」または「共感」と呼びますが、重要なのはユーザーの意見そのものを鵜呑みにするのでは無く、ユーザーの立場になりきってその本音に近づくことです。

 そして、ユーザーのニーズや現状の課題を抽出し、ユーザーが本当に求めているものは何かという仮説を立てるプロセスを「定義」と呼び、その仮説に基づいた課題解決のアイデアを出すのが着想、これによって固まったアイデアを基にプロトタイプを作るのが「試作」、プロトタイプのユーザーテストを行い課題を洗い出すのが「テスト」であり、こうしたプロセスを繰り返しながら顧客の求める製品やサービスの在り方を絶えず模索して行きます。このようなプロセスは、衣服などのデザイナーが、顧客に最適なデザインを設計するプロセスにヒントを得ているので、「デザイン思考」と呼ばれているわけです。

 ただし、このようなデザイン思考は、既存の製品やサービスを随時改良していくには向いている一方、全く新しいビジネスを考えるには向かないとされているので、管理人自身は入山氏と異なり、デザイン思考を「表出化」における重要な方法として一般化できるかどうかについては、慎重に検討すべきではないかと考えています。

 なお、デザイン思考に関連して、入山氏はBIOTOPEという戦略デザインファームにも言及されています。BIOTOPEは、近年のわが国で注目を集めており、大企業等からのプロジェクトを多く手がけていますが、日本では「自社の方向性が分からない」「存在意義が言語化できない」「創業理念をアップデートできない」といった悩みを抱える大企業や事業団体が多く、BIOTOPEではデザイン思考などを駆使して、そうした暗黙知を形式知に変えて行くプロジェクトを多く手がけているというのです。

 BIOTOPEにプロジェクトを依頼した団体は、公表されているだけでもNTTドコモ、ぺんてる、東急電鉄、山本山、日本サッカー協会などがあるということですが、管理人としてはBIOTOPEの魅力や革新性よりも、これほど有名な大企業の幹部たちが「自社の方向性が分からない」「存在意義が言語化できない」などといった悩みを抱え、経営コンサルティング会社に援助を依頼する事態に至るというのは、むしろ「日本企業の経営陣の質はそこまで落ちているのか」という点に愕然としてしまいます。

 

(3)連結化(Combination)

 連結化は、形式知と形式知を組み合わせて、物語や理論として体系化するプロセスです。

 表出化のプロセスにより形式知となったものは、「組織の知」としてまとめられ、伝えられる必要があります。現場レベルではマニュアルや設計書、計画書などによる形式知の体系化も「連結化」のプロセスに含まれますが、会社の信条、方向性、戦略といったものを形式知とした場合、これをマニュアルによって伝えることは出来ません。そのような場合に必要となるのが「ナラティブ」です。

 ナラティブ(narrative)は、英語を和訳する際には「物語」「語り」「話術」などと訳され、ビジネスだけではなく医療や臨床心理、教育などの現場でも使われている概念ですが、「ナラティブ」という概念を理解するには、「ストーリー」との違いを理解する必要があります。

 ストーリーは、いわば筋書きがある物語のことであり、主人公やその他の登場人物をメインにして、起承転結で話を完結させるのが基本となります。これに対しナラティブは、語り手が自らを主人公として語を展開させ、別に完結していなくても構わない、ストーリーに比べるとかなり自由な物語のイメージです。

 臨床心理学の分野では、カウンセリングの際患者に自分の物語を語らせ、問題の原因となっている否定的な思い込みを発見し、それを肯定的な内容に書き換えることで問題の解決を図る「ナラティブアプローチ」が1990年代から行われていますが、これがビジネスの分野でも行われているわけです。

 ビジネス分野におけるナラティブアプローチは、上司と部下の関係に関するカウンセリングや、マーケティングの分野でも活用されていますが、企業の信条や戦略に関するナラティブアプローチは、企業が過去から引き継がれ、これからどのような未来に進んでいこうとするのか、経営者などが物語っていくというものです。その内容は、話す側と聞く側が同じ場を共有していることを前提とし、話す側の語り方はその場の「文脈」によって様々に変わるものであり、またその場の雰囲気を掴んで、話し方も声のトーンも、立ち居振る舞いも臨機応変に変えながら語っていく必要があるとされています。

 ビジネスの世界で活躍するカリスマ経営者たちは、こうしたナラティブの天才とも言われているのですが、ナラティブはその性質上、実際に話された内容を文書に残してもそれだけでは意味がないため、学術的な分析に馴染みにくいところがあります。

 

(4)内面化(Internalization)

 内面化は、組織レベルの形式知を実践し、その成果として新たな価値を生み出すとともに、それを新たな暗黙知として個人・集団・組織レベルのノウハウとして体得するプロセスです。

 連結化によって紡がれた形式知も、それをもとに行動しなければ意味はありません。実際に行動して価値を生み出し、それを反復してやり続けることで、組織はそれをまた暗黙知として昇華させることになります。そして、その暗黙知がさらにまた共同化され、表出化され、連結化されてといった具合にサイクルが回ることで、形式知と暗黙知がそれぞれ増大し、組織は知識を生み出していくということになります。

 

4 「知的コンバット」VS「ブレインストーミング」

 入山氏は、日本における典型的な経済学者・経営学者というカテゴリーに留まっている人物ではありません。一般的な日本の学者は、著書と言えば学者向けの学術書、論文のほかには、せいぜい学生向けの教科書くらいしか無く、社会との接点も大学における学生への授業の場くらいしか無いという人が多いですが、入山氏は専門書だけではなく、一般向けの書籍も複数執筆しているほか、テレビ番組にコメンテーターとして出演したり、企業で講演を行ったりしている行動型の人物なので、こうした文章化しにくい「話の上手さ」などを語る理論に親和的な人物なのでしょうが、SECIモデルを提唱する野中氏もそれに賛同する入山氏も、言語化しにくい要素を非常に重視しており、その内容を文章化しようとしている管理人は、こうした「理論」を文章だけで一体どのように説明すれば良いのか、正直言って頭を抱えてしまいます。

 野中氏の提唱するSECI理論では、一対一での「知的コンバット」による共感が非常に重要なプロセスを占めているわけですが、これを理解するには、野中氏が「知的コンバット」の例として語っている京セラのコンパに関する記述を省略するわけにはいかないでしょう。

 京セラのコンパは、本社の12階にある百畳敷きの和室で行われますが、畳の部屋で行うのにも理由があり、椅子に座っていると自由に移動できないので、身体の共感が起こらないからなのだそうです。コンパの参加者は、その部屋で肩を寄せ合い、みんなで一つの鍋をつつき、酒を飲みながら本音で会話をします。手酌は御法度とされており、皆が酒を相手に注ぎまくり、そのうちどれが誰の盃かも分からなくなって、考え方も「自分が考えている」のではなく「皆で考えている」という方向になっていくのだそうです。

 京セラのコンパは、このような状況で三日三晩飲みまくるといったことを本当にやるそうですが、これは全人格を掛けた知的コンバットの過程であり、こうした行動を通じて主体と客体の一体化が進み、共感が発生し共同化が進んでいくというのです。

 

 こうしたことを書くと、「企業経営には酒を飲む必要があるのか?」という議論になりかねないのですが、酒自体は必須ではないものの、全人格的な議論を徹底的に行う必要があるというのが野中氏の持論のようです。知的コンバットと似て非なるものとして、欧米諸国の企業が導入し、わが国の企業でも導入が進んでいるブレインストーミングがありますが、野中理論を少しでも理解するには、知的コンバットとブレインストーミングの違いについて論じる必要があります。

 ブレインストーミング(ブレスト)は、一般的には組織のメンバーが集まって様々なアイデアを出し合うことを指しますが、経営学の分野では、ブレストはアイデアを出すためには必ずしも効率的では無いことが、多くの実証研究により指摘されています。

 例えば、10人の集団がブレストを通じてアイデアを出すより、10人がそれぞれ個別にアイデアを出し合って後にそれを足し合わせた方が、アイデアの質も量も後者の方が高くなる傾向にあります。集団でブレストをすると、参加者は他人に気兼ねして大胆な意見を出しにくいという心理が働く上に、他人が話している間は自分もその話を聴かなければならないので、その間自分の思考が停止してしまうからであり、経営学の分野では、このような現象を「プロダクティビティ・ロス」と呼びます。

 そのため、経営学の分野ではどのようにすればプロダクティビティ・ロスを解消し、効果的なブレストが出来るようになるかが大きな課題となっているわけですが、野中氏はブレスト自体に懐疑的であり、快適なコワーキングスペースでゆったりと椅子に座って、ポストイットを使って多人数で行うブレストは「快適すぎる」ので、これでは知的コンバットにならないそうです。

 実際、ブレストを重要視して結果を出しているアメリカのデザイン企業・IDEO社については、社内で顔を突き合せてのブレストが行われていますが、定期的にメンバーを入れ替え、意見を出す側が萎縮しないよう一定のルールに則ったブレストが行われることにより、社員同士がブレストを通じて知り合いになり、誰がどのような案件を手がけていてどのような分野に詳しいかを知ることになるので、ブレスト以外の場でもデザイナー同士が積極的に意見交換をしているという研究調査結果が出されていますが、IDEO社ではブレストをアイデア出しの場というより、むしろ部門を越えた社員交流のきっかけとして活用していることになります。

 これに対し、あまり意味の無いブレストの多くは、一度ブレストをしたらそのまま解散し、メンバー同士が再度意見交換を行うことも無いので、アイデア出しをしたという充足感があるだけで何の成果にも繋がらず、従来の日本企業では飲み会などを通じて行われてきた「知的コンバット」の代替にはならないというわけです。

 

 それでは、企業の内部で十分な「知的コンバット」が出来ていないと、具体的にどのような弊害が起きるのか。入山氏の主張からは若干離れますが、『東大生を待ち受ける不愉快な現実とそれを乗り越えるために必要なこと』という著書に、悪い例の一つが載っています。この本の著者・中村拓也氏(本名では無くペンネーム)は、東京大学工学部を卒業した後、日本の東証一部上場会社で38年間勤務しつつ、30代から不動産投資を始め、定年退職後は10億円超の資産を動かすメガ投資家として活動されている方なのですが、社内での出世は課長止まりだったそうです。

 最初は数千万円程度の物件購入から始めて、副業の不動産賃貸業で10億円を超える資産を形成したという才能の持ち主が、なぜ会社では課長止まりだったのか。著書ではそのあたりの経緯についても述べられていますが、特に82頁以下の記述は衝撃的な内容でした。

 著者が会社の会議に出席すると、会議の際に配布された資料を全文読み上げる説明者がよくおり、著者自身は資料に5分間目を通しただけでその内容を理解し、結論や問題点を把握することが出来ましたが、説明者が約1時間かけて説明する時間のほとんどは、著者にとっては時間の無駄でした。そのため、会議中は退屈になって居眠りしてしまい、会議の最後くらいになってから起きて、結論と問題点を指摘したところ、説明者の上司に「なんで居眠りしている人間が偉そうに言うんだ!」と、こっぴどく怒られたそうです。

 そして、著者自身も「私の態度は決して褒められたものではありません」と振り返りつつ、こうした事件を通じて、会議で優先されるのは発言の内容では無く態度であり、会議では大した発言は期待されていないということに気付いたため、その後は会議の空いた時間中に手帳を見るようにし、その手帳には隣の人が読めないくらいの小さな文字で、自分が投資した不動産に関する細かい情報が書き込まれていました。

 著者にとっては、会社の勤務時間自体は長いものの、会社の仕事で使う能力は自分が持っている能力のせいぜい5%くらいに過ぎず、実際にやることが無い拘束時間も多いので、そうした空き時間を使って不動産投資のことを色々考えていたそうです。このような人であったため、減点主義で評価される日本の企業ではその才能を発揮する機会にあまり恵まれず、最初は自分の叔母もやっていたので簡単な兼業のつもりで始めた不動産投資の世界に、いつしかどっぷりとのめり込むようになってしまったというわけです。

 中村氏だけでなく管理人自身も含め、東大生の多くは普通の人間よりはるかに迅速に、文章を読んでその内容を理解することができ、自分の頭で考えたことを、文章によって論理的に表現することも得意です。しかし、そんな東大生も卒業して日本の一般企業に就職すると、自分より理解力の乏しい同僚たちのペースに合わせて仕事をしなければならず、社内で自分の実力を発揮する機会に恵まれることはほとんどありません。

 そのため、近年では東大生でも成績優秀な人は、就職先として自分の能力を発揮する場の無い日本企業を選ばず、自分の才能を発揮できる外資系企業に就職したり、または独立起業したりする人が増える傾向にあるわけですが、社員間の「知的コンバット」が行われている企業であれば、中村氏のような才能の持ち主を社内で眠らせておくことは無かったでしょう。

 社員同士が腹を割って話し合う機会を持たず、会議の時間中は大人しい態度を取り続け、当たり障りの無いことしか発言しないような人材が出世するような企業風土の下では、全人格的な知的コンバットなど起こるわけもなく、組織として新たな知を生み出すこともできません。もちろん、中村氏のように知力が高くても、性格的に癖のある人材を使いこなすのは組織にとって容易なことではありませんが、組織がそうした努力を一貫して怠っていると、いつの間にか経営陣でさえ「自社の方向性が分からない」といった残念な組織になってしまうわけです。

 

5 SECIモデルの可能性

 野中氏のSECIモデルは、AIによって代替することの出来ない人間の役割についても、大きな示唆を与えてくれます。AI技術による人工知能は、形式知の処理については通常の人間をはるかに上回る速度でこなしますが、人間と違って暗黙知を持つことも出来なければ、身体知を持つことも共感することも出来ません。その場の文脈に合わせてナラティブに語ることも出来ず、自ら現場に行って事実を知覚することも出来ません。入山氏自身も指摘しているとおり、「知の創造に、人工知能ではなくなぜ生身の人間が必要なのか」という問いに対しては、SECIモデルがおそらくこれ以上は無いほどの解答を示しています。入山氏が、SECIモデルが本領を発揮するのはむしろこれからの時代だと述べているのも、人間の仕事がAIによって代替される可能性があれこれ議論されている今日の状況では、むしろ当然の論理的帰結と言えるでしょう。

 ただし、その一方でSECIモデルは、言語化が困難な暗黙知という問題を取り扱っているために、理論の実証研究を行うことが困難である上に、その内容を言語によって上手く説明することも困難です。この記事についても、特にナラティブのあたりは、管理人も「果たしてこれで説明になっていると言えるのか」と随分悩んだものの、結局それ以上に書きようがありませんでしたし、ビジネスに関わる多くの人に示唆を与える経営理論として成り立たせるためには、様々な実例をもとに、その詳細について更に深く掘り下げた議論が行われる必要があるように思われます。

 また、入山氏自身はSECIモデルについて、認知心理学をベースとしたマクロ心理学系経営理論の一部にあたる「知の創造」を説明したものとして取り上げていますが、SECIモデルの内容は認知心理学の範疇を超えてしまっており、他の理論との関係を合理的に説明することも困難です。人間の持つ知の中に、形式知だけで無くその裏にある豊富な暗黙知があることを前提として考えるなら、心理学をベースとする他の経営理論についても、大幅な見直しが必要になるような気がします。

 世界水準で議論が積み重ねられている経営理論も、まだSECIモデルを完全には飲み込めていないのかも知れません。