せきらら性教育 -8ページ目

たまには息子とペアルック

ファッションに興味のないわたしですが、最近、どうしてもほしいなあ、と思っていたブレスレットがあります。たいして高いものではなくて、200円くらいのものです。

「ううう、あのブレスレット、ほしいんやけど、どこっで売ってるんやろなあ・・・」
「あ、おかあも、アレがほしいの? 僕も」
「ほしいなあ・・・ええなあ・・・」
「僕の友達も、たくさん持ってるよ。かっこいいんだよね~。ほしいよね~」

ほかの人が持っているものはいらん、と、かのダ*ソンの掃除機すらなかなか買わなかったわたしです。が、これは、ほしい!!

欲しいと思い出したら、止まらない。はぁ、どほぉにもぉとまらなぁいぃ~って、山本リンダしてしまいます。

そして、ついに、見つけました! 息子の分と自分の分、二本もらいました。売ってたんではなくて、募金をするともらえるのでした。

息子とペアルック。たまにはいいかも。

そして、これがそのブレスレットです。











































udewa

  貧困を歴史にしよう

募金をするともらえる、というとかの「赤い羽根共同募金」を思い出します。小学校のとき、赤い羽根が欲しくて、毎日10円ずつ募金をして、20本くらい赤い羽根をもらいました。その羽を、小学校の通学時に着用する野球帽にぐるっとさして、

うほほほほ~。インディアンじゃあ!!

などといって、みんなにケリを入れていたのも懐かしい思い出といえましょう。

しかし、募金の意味を完全に取り違えていましたね、わたし。

さて、このブレスレット、下は英語なんですが、上は何語か分かりますか?


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この、編集のしにくさ、何とかならないもんですか?

画像とその直後の分だけセンターに持っていこうとしても、画像以下が全部、センターになっちゃうんですよ!! 昔の画面のほうが絶対にタグの編集がしやすかったと思う。

だから、画像も全部左寄りになっています。

それに、わたしはWordで文書を作って、コピー・ペーストするんだけど、それですると以前はそれで終わり、で簡単だったのに、この編集画面に入ってからまたまた編集をしなきゃいけなくて・・・。

何とかなりませんかね? 編集画面だけでも元に戻して欲しいものだわ。

大まぬけ。

なんだか知らないけど、時差があるから4月1日の夜までブログが更新できないと思っていた・・・・。まぬけすぎです。

明日から、がんばります。

休み中にしていたことと、おおぼけの言い訳はこちらです・・・・。

新学期も始まることだし

これからしばらくこの記事はトップに来ます。
最新記事はこの下です。

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日常行っている消費や買い物について考えてみませんか。
よろしかったら次の記事をお読みください。

フェアートレードについて語る
資本主義についてのくねくね説明1
資本主義についてのくねくね説明2
資本主義についてのくねくね説明3
資本主義についてのくねくね説明4

わたしたちの言語環境: 追記

わたしたちの言語環境について

昨日の記事の文中、「英語を話すためには英語的文化を学ばなければ潤滑なコミュニケーションが出来ない」という意味のことを書いています。これについてもう少し補足説明を。

これは、別に、英語を話すために、例えば「アメリカ文化に合わせろ」といっているわけではありません。そうしなければ英語が話せないといっているわけでもありません。別に英語圏の文化を知らなくても、英語は話せるようになります。また、英語的文化とは英語圏の国の文化を指している訳でもありません。

文法や語彙という技術的な問題を越えた部分にある、表現や会話形態のあり方、といっていいでしょうか。語学の教科書にマニュアルとして書くことのできない微妙な部分のことです。

コメントでcomplexologistさんからの指摘がありますが、詩はその言語圏の文化の一番洗練された形の表現といえると思います。わたしは英語で詩はかけません。英語の詩もそれが何でそんなにいいのか、いまいちよくわかりません。そういった意味で、わたしは英語的文化を充分に理解していないので、こういったレベルでのコミュニケーションをすることが出来ません。

また、わたしはこういった文化に迎合をしろとも言っていないつもりです。「あわせることが必要だ」といっていたつもりです。相手の思考パターンに合わせることが出来れば、コミュニケーションが潤滑に誤解も少なく行われると思います。向こうがあわせてくれればいいのですが、あわせてくれることを期待するくらいなら、自分であわせちゃったほうが早いし楽だし簡単です。あわせてあげればいいのです

例えば、相手の思考パターンにあわせていなければ、冗談というものは面白くありません。わたしは英語で冗談が言えます。それで、満座の人から笑いを取ることが出来ます。このとき、どういう冗談のつぼをおさえるか、は、実は、日本語的冗談のつぼとほんの少しずれがあるのです。関西的冗談のつぼに近いんですが、このずれは説明することが出来ないです。

ある場合には(もちろんすべての場合ではありませんよ)、こういった冗談が言え、相手の笑いを取ることが出来れば、リラックスが出来、その後のコミュニケーションがうまく行きやすくなります。英語であろうが、日本語であろうが、同じだろうと思います(これは関西出身のわたしの偏見ですか?)。

英語だって、日本語だって、コミュニケーションをするための道具です。相手がいて成り立つのです。その相手を理解する、あわせてあげる、これはコミュニケーションの基本だと思うのですが、どうでしょう?

わたしたちの言語環境について


ときおり、文中でわたしと息子の会話が英語になっています。

実は、もうお気づきの方ばっかりだと思うのですが、息子は英語が母語です。そりゃ、イングランドで生まれて育ってんだから、当たり前なんですが。

現在は、西ヨーロッパの某国にいます。

しかし、わたしはもちろん母語は日本語です。英語は20歳を過ぎてから勉強をしました。

この差はものすごいです。

言語というものはさまざまな音の組み合わせからできますが、3歳以前の子供にはすべての音を聞き取り、まねをする能力があるそうです。この能力はだいたい3歳くらいでなくなる、とか。だから、3歳までにどの言語に聴覚を通して触れたか、ということが母語の形成には非常に重要なんだそうです。

息子は細かい母音や子音の発音のちがいが聞き取れるし、分かります。わたしには、理論的には分かっていても、実践はいまいち伴いません。

また、7歳前後で子供は自分を取り巻く環境を分析的にとらえるようになるそうです。たとえば塗り絵をするとき、5歳くらいの子供は背景もそこに描かれている人物も同じような情熱で色を塗ります。ところが、7歳を過ぎたくらいから、そこに描かれている中心になっているものは何か、を把握するようになります。そうして、背景とそこに描かれている中心的人物(または物)を分けて色をぬりはじめます。

世界にあるいろいろなものは独立して存在している、ということを認識するわけです。だから、自分を周りの人が呼ぶように「太郎ちゃんはさ・・・」といっていた子供が「僕はさ・・・」「わたしはさ・・・」と、自分の視点からものを表現したり、見たりするようになります。

この段階で、言語習得の第一期が完成される、と考えられています。文法的な把握などは弱く、自分が今までに経験をした言語をもとにして表現が出来るようになった段階、といっていいかと思います。

そして、3歳くらいまでに出来上がる音の基礎と、7歳くらいまでに出来上がる表現の基礎が、その子供の言語能力を後々まで左右するらしい、です。

要するに、7歳までの期間にどれだけ環境の中に学ばせたい言語があるか、が鍵な分けです。

息子の生活環境は基本的に英語だったので、息子の英語能力は全く問題がないのですが、日本語は、かなり駄目です。日常会話のほとんどが英語で行われているていたらくです。このブログに描かれている会話も、日本語になっているのはわたしが英語を書くのが面倒くさいからで(すみません・・・)、ほぼ90%英語で行われています。

もう一つ大切なことは、言語とは意思を疎通させる道具であるということです。ですから、どれだけ学ばせたい言語がその環境にあっても、言葉を道具として使えなければ、話す能力は伸びない、ということです。

息子の場合、日本語は聞いていたけれど、英語でわたしに話しかけても理解してくれるので、日本語を使いませんでした。だから、話す能力は全く伸びませんでした。

本気で日本語も話させるつもりであれば、わたしに話してくるときに英語が一言でも入っていたら、分からないからもう一度いいなおしなさい、というべきなのだそうです。でも、そんなめんどくさいことは出来ないので、息子は英語で、わたしは日本語で、というちゃらんぽらんをしてしまったわけです。

救いは、日本語は生まれたときから聞いているので、かなり複雑な話でも理解できることです。

また、言語を学ぶことはその文化を学ぶことでもあります

英語は日本の封建的な社会構造とは違う、もっと個人主義的な社会構造を持つ文化の言葉です。たとえば、子供が親に向かって「YOU」、つまり、「お前」と呼びかけるわけです。ここに、言語的には親子の上下関係は入ってきません。「あなた」と「わたし」という独立した個人がいることになります。また、文章は必ず主語を取るため、自分が何を言っているのかが常に問われることになります。

このような英語的文化は日本語的文化とかなり違ったものです。どちらにもそれなりにいい点があり、それなりに悪い点があります。しかし、残念ながら、日本語的文化で思考をしている限り、英語は話せても、潤滑なコミュニケーションが取れるようにはならないのではないか、というのがわたしの現在の考えです。逆に言えば、英語的文化で考えていては、日本語は話せないのではないか、と考えています。

息子が日本語を話せないのはこのあたりにも原因があるとにらんでいます。

そして、また、このブログに描いているようなオープンな会話が出来るのも、わたしたちの言語文化が基本的には個人主義的英語であるからだと思います。日本語であれば、わたしはきっとここまでオープンに息子に性を語れなかったと思います。

だから、ある意味で、わたしたちの会話を日本語に翻訳して書く、というのは、わたしにとってはちょっとした挑戦といえるかも知れません。




英語と日本語の取得について文化的背景を考えながらかかれたものは、現在休止になっていますが、蝶々さんのブログがとても参考になると思います。

こちらです。




追記をアップしました。こちらです。

フレームワークの大切さ

春休みに入った。ぶらぶらしていないで、フルートの練習をしなさい、ピアノの練習をしなさい、国語は、算数は、理科は・・・・と息子にうるさく言っている自分がちょっと嫌。

でも、言わないでもするような息子ではないので、ほれほれ、やれやれ、うるさく言ってしまう。

だんなが息子に聞いていた。

「なにをしているの?」
「算数の復習」
「出来たら見せなさい」
「あ、き、昨日してたところを・・・・み、み、見直してるの」

嘘丸出し。

「大ばかもの」

かみなりが落ちまくるこの春休み。これではいかん、と、だんなと鳩首会議を開く。

結果、することがはっきり息子に分かっていないのがよろしくない。時間割を決めて、なにをいつするのか、を、きちんと決めよう。

時間割:
9時~ 音楽1
9時半~ 音楽2
10時~ 音楽3
10時半~ 休み
11時~ 国語
11時半~ 算数
12時~ 理科・社会
12時半~ 昼飯そのほか
2時半~ 自由時間

週末は11時以降、家事手伝い(掃除そのほか)。


これを決めたら、一気に怒らなくなった。息子もせっせと時間割をこなして、午後は友達と遊んだり、図書館に行ったりしている。

よく考えてみたら、息子が小さかったときから時間にはかなり正確に生活をさせていた。

たとえば、夜は、6時半にご飯。そのあと、入浴。7時半には自分の部屋に行く。9時に寝る。このパターンは息子が生まれたときから続いている。

育児相談員のメアリーに、この子が7歳になったときにどうしてほしいか考えて、今からそのパターンで生活させなさい、と言われたのだ。新米親のわれわれは、特に育児書を熱心に読むタイプではなかったので、彼女に言われて、なるほどね、と、実行に移しただけなんだけど。

だから、夜にいつまでも子供が起きている、という事はなかった。7時半以降はだんなとわたしは静かな時間が過ごせる。お客が来て食事をしたり、二人で話したり、それぞれの仕事をしたり。

そうかあ、生活にフレームワークを作ることって大事なんやなあ。

はてさて、わたしはどうやねん? フレームワークのある生活をしてるんかいな? 

反省しきり。

おしゃれ?

懸命な読者の皆様はもうお気づきだと思いますが、わたしはファッションに関心がありません。全くない。ゼロ。

ハンドバッグは一つ、持ってる、かな? あ、持ってます。ロンシャンの。普段は山登り用のリュックサックを背負っています。

靴は三足持ってます。毎日履いている山歩き用のごついしかし軽いブーツ、夏用のサンダル(これも山登り仕様)、それから普通の革靴。とにかく、毎日、ものすごく歩くので、普通のおしゃれな靴やハイヒールなんか履いてたら足が痛くて痛くてたまらなくなるんですね。

化粧はしません。ゆえに、化粧水やクリームも買いません。自作の化粧水だけです。夏には日焼け止めは欠かしません。

洋服は、基本はジーンズにTシャツ。この上に綿のシャツか、寒くなるとフリースを着ます。

アイロンが必要な洋服は一切持っていません。アイロンすら持っていません。

ヘアードライヤーも持っていません。髪の毛を染めたこともパーマをかけたこともありません。鏡台も持っていません(化粧をしないので当たり前ですが)。

あ、でも、SDSドリルという強化セメントにも穴をあけることができる、超強力電動ドリルは持ってます。ダカラドウシタ・・・。

流行は自然に出来るものではなくて、アパレルメーカーが作るものです。今年の色は白、とか、ミニスカートが素敵、とか。そのたびごとに洋服を買い換えることがいやなのです。

とにかく、洋服を買いに行くことが嫌いなのです。大嫌い。だいたい、買いに行っても、一発で見つからないと、探すということもしない。とにかく、いらいらして、もういらない、といって帰ってきてしまう。

いろいろ着てみて・・・なんて絶対にいや。

だから、息子にだっておしゃれな洋服なんか一切買ったことはありません。実用一点張り。

「おかあ、学校のクラスの中で、ヘアー・ジェルを使ってないのは僕だけって知ってた?」
「そやからなんやねん? 髪の毛おったててるすきに、頭の中身を何とかしぃ」

それでも、息子もお年頃ですから、彼なりにおしゃれをしたいらしいです。彼はネックレスが好きです。紐の先に勾玉がついたもの、とか、木のビーズをつなげて作ったネックレスとか。時々、ほしがるので買ってあげます。

実は、わたしは洋服には関心がないのですが、こういったアクセサリーは好きです。

「なあ、ピアスもあけたらどうや?」
「それはまだいいよ」
「いつでもおかあがドリルで開けたるで」
「・・・」

いえ、ピアスの穴をあけるときは、ちゃんとしたところであけて貰ってください。



ここで、恨みを晴らしたい! 晴らさせてください。

聞いてください、皆様。

わたしの母親は、わたしが20歳になったとき、「ピアスでもしようかなあ」といったら、「いいわよ、お金を出してあげるから!」といって、電光石火の早業で近くのお店でピアッサーを買い求めた。

そして、帰宅し、母は、わたしの耳たぶに氷を押し当てて冷たさで感覚が麻痺したところに、ぶすぶすっとピアスをつき立てた。

こうして、わたしはピアスをした。だから、

「親からもらった体に・・・」

という、時代遅れの説教を垂れてる奴には言い返せて便利だった。が、日本をでて、8年ぶりにあったときに、わたしは母のホンネを知った。母はピアスをしていた。ピアッサーでしたの、と聞くと、おほほ、上品に笑いつつ母は答えた。

「あんな危ないこと、もちろんしないわよ。雑菌が入ったりして危険なんだから。あなたも膿んだりして大変だったじゃない。もちろん耳鼻咽喉科に行ってしてもらったわ」

人体実験をするんじゃない。



Memento mori

Remember that you have to die.
いつか死ぬことを忘れてはいけない。


死を思え。

このラテン語が

Memento mori.

である。知ってるラテン語はこれ以外にはいずれも英作文で使う、pa se、etcetera、a priori、くらいしかないけど。だから、ラテン語が出来るわけじゃないのよ。

クロちゃんが死んだときに、息子は当然のこととして悲しんだ。そのときに教えた言葉だと思う。

誰でもいつかは死ぬ。いつまでも自分の時間があるわけやない。そやから、いま何が出来るかを考えて、今を大事にしていかなあかん。

クロちゃんは猫として立派に生きた。12歳という年齢は猫としては若いけど、クロちゃんはきっと後悔してへんよ。自分の死ぬ時期が来たことを知って、ゆっくり自分の死に場所に向かって歩いてったんや。

Memento mori.

クロちゃんは自分が死ぬことを知って、それを受け入れたんや。

Memento moriは、もともとは、ドイツ・ルネサンス期に『どんな栄光も死んでしまえば無に帰する』という、無常観や末世観を表現していた言葉らしい。でも、わたしは、死を思うことによって、今の大事さが分かると、ちょっと曲げて解釈。

今朝、朝ごはんを食べていると、急に息子が言った。

昨日の話に似た話で、ラテン語を教えてくれたことがあったでしょ」
「あったかいな?」
「クロちゃんが死んだときに。あれ、なんていうんだったけ?」
「ああ、Memento moriやろ。メメントモリ。死を思え」
「うん。今日からそれを僕の標語にしようっと

そういって、息子は便所へ去っていった。

めめんと~めめんと~もり~もり~
めめめめめめんと~も~りぃ~
もりもりめめんと~

便所から陽気な歌声が聞こえてきた。

すっげーな奴。


明日はいよいよ復活祭本番

というわけで、イースターエッグを恒例の卵立てに立てました。



この卵立ては、イングランド・ヴィクトリア王朝期のもので、銀メッキです。が、磨いていないので、真っ黒。磨けよな。

ちなみに、よく見るとわかるかもしれないんだけど、卵立てはフレームの中で宙吊りになった形になっています。これ、ゆで卵の熱が卵立ての足に伝わり、それでテーブルの上にシミをつけるのを防ぐためです。

古道具のテーブルって、ことに20世紀以前のものは、木の表面を蜂のワックスで磨いているだけなので、水をこぼしたり、熱いものを直接おいたりすると、シミになっちゃうんです。

うちも、基本的に家具は古道具のテーブルや引き出し、椅子なので、けっこう気を使います。それで、年に二回、クリスマスとイースターの前に蜂のワックスを持って家中を磨きまくり、この時期だけ主婦っぽいことをしています。普段はおっさんなんですが。

そして、明日は復活の日曜日です。Easter Sunday。

「キリストが生き返ったんでしょ?」
「そや。復活の日曜日、言うくらいやから、生き返ったろ、思ったんやろなあ。ターミネーター見てて、カッコええ、思って、『I’ll be back.』ってゆうたんやろなあ。」
「おかあ、違うと思う。・・・・でも、クロちゃん、帰ってこないかな」

クロちゃんとは、息子が生まれる前から家にいて、息子を弟のように守り、情けない親に育児の何たるかを教えた立派な猫である。

「帰ってきたら、それこそ怖いがな。死んだものは生きかえらへん。そやけど、覚えてることはできるやろ。そやから、クロちゃんは自分の一部になってずっと一緒に生きていくんや

キリストのことをずっと覚えててキリストが教えてくれたことを自分の一部にして生きて行く、という決意を、キリストが生き返った、って表現したんやと思うよ。

それが、復活の意味やと思う。




自分勝手な解釈で、クリスチャンの方、気を悪くされたらすみません。

そして、現在、主婦してますので、レスポンスなど遅れると思います。ごめんなさい。

初めてのコスモポリタン

昨日は一家で近くの町まで出かけていました。近く、といっても2時間かかります。なんせ、田舎に住んでいるので、ちょっとしたことがあっても、2時間かけてこの町まで行かねばならないのです。

掃除機を買い、髪の毛を切りに行きました。

わたしの住んでいる町にも床屋くらいはいます。が、下手なのです。

ちょっと早めについてので、雑誌でも読むか、とコスモポリタンをラックから取り出して読んでいたら、ついてきていた息子が興味しんしんで覗き込んできます。

ちょっと最近人気があるらしい俳優が上半身裸で出ています。

「おかあ、この人の腹筋すごいねえ」
「こら、偽もんやで。女の人のおっぱいと一緒で、中にシリコン入れてるねん。見てみ、腕やら肩やら首やら、ぶよぶよやん」
「分かるんだあ、おかあ、すごいね」
「おお、芸術家を舐めたらあかんで。裸なんか飽きるほど見てるさかい、こんなもん一発や」

息子に威張れてうれしいわたしでございます。

「でも、何で美容整形なんかするの?」
「犯罪を犯した奴が逃げるためにすることがあるなあ」(あまり一般的ではない例ですが。)
「へえ、そうなんだ」
「もともとは、戦争で顔にものすごい怪我をした兵隊さんのために出来た技術なんやけどな」
「じゃあ、美容整形は男の人のためのものなの?」
「まあ、女の人もしはるなあ。ちょっときれいになりたいとか、しわを伸ばしたい、とか、いろいろやな」

その辺は個人の選択でしょう。

「おかあはしたい?」
「絶対、嫌。顔みたいところに、針やらナイフやらをぶすぶす突き立てるんやで。絶対、嫌」
「ふーん」
「それだけやない、ようお聞き。一旦、美容整形したら一生やり続けなあかんねん」
「何で?」
「整形したところだけ、ちょっとほかの部分と年の取りかたが違ってくるンや。薬やらなんやらでいじってるさかい。そやから、5年くらいすると、整形したところとしてへんところで、ちぐはぐになってくるんや。そうすると、おかしいやろ。そやから、直す。またちぐはぐになる、また直す。なあ、そんなに何度でも顔を切ってもええと思うか?」
「よくないみたいだね・・・」

そやから、美容整形はやめといたほうがええねん。

と、初めてコスモポリタンを見て、息子はまた一つ、知識を増やしました。侮れないぞ、コスモポリタン。



わたしはどういうわけか、雑誌というものを一切買いません。ファッション誌も週刊誌も。まあ、ファッションにもセレブにも、あまり興味がないので。だから、息子もこういう女性雑誌は見たことがなかったんですね。たまに髪の毛を切りに行ったときには、そこで読むこういった雑誌がとっても楽しみです。特に、「男のホンネ25」みたいな記事が、大好き。