以下、このサイトに書いてあることはいちいち納得がいく。というのは隠すまでも無いけど、、
私自身が社会適応に問題を抱えていた新入社員の20代前半ごろに激しい拒食症→過食症の症状に悩まされた当の本人でもあるから。当時の私の精神的な偏向がどのように、意識にゆがみを与えていたか、今になってみて次第によくわかってきたのである。今でもその傾向がまったく無くなったとはいえないが、私自身死ぬまで自分の足で元気に歩き続け、自分の健康な頭で考えつづけたいと思っているから、もうあまり無茶はしないように、ものごとをできるだけ客観的な目で眺める訓練をしているところだ。
まず完全な引用 ↓
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/griffin/eating_disorder.html
摂食障害の発症の全てに明確な家族因(両親の歪んだ育児態度・両親の病的な嗜癖)があるわけではなく、痩せた身体を過度に美化する社会の風潮や日常生活に おける心理社会的ストレスなど複数の要因が関係しています。摂食障害の発症原因には、機能不全的な家族関係以外にも、喪失感の大きい失恋や離婚、強い挫折 感を伴う受験(就職)の失敗、肥満恐怖と痩せ願望を煽るメディアの影響、他者の愛情を際限なく求める自己愛障害がある場合。
嗜癖の一種としての摂食障害は、社会活動(学校生活)における心理的挫折や対象喪失(愛する者を失うこと)によって急速に発症することもあり、不登校(登校拒否)やひきこもりの問題と合併することも少なくありません。
身体衰弱が激しくなり学校に行けなくなったアノレクシア・ネルヴォーザ(拒食症)の人や他人(社会)との接触を断ち切ってひきこもりながら拒食と過食、嘔吐を交互に繰り返している人は、『美しくなる為に食事を摂らないのです・自分に揺るぎない自信をつける為に痩せなくてはならないのです・痩せた魅力的な身体を維持しないと自立できないのです』と いった現実の状況と矛盾した発言をすることがあります。重度のアノレクシアを持つ人にとって、拒食を継続することが自分の自信や魅力、価値を飛躍的に高め ることであり、拒食から過食に症状が移行すると自分には生きている価値がないと思い込んでしまうのです。こういった摂食障害者の発言から分かるのは、食事 を過度に制限して体重をギリギリまで減らす『拒食(不食)』に特別な儀式的意味(主観的価値)を持たせているということであり、食事を摂らなければ摂らないほど『自分の存在意義(揺るぎない自信・脅かされない自尊心)』が高まると確信しているということです。
摂食障害の病理水準が深ければ深いほど、『食事を摂らないことが、価値ある自分を作り上げる』という非現実的な確信が強くなり、食べなければ食べないほど (痩せれば痩せるほど)自分に特別な魅力や不動の自信が身に付くと信じ込む傾向が見られます。
拒食症が軽度の場合。
『そんなに食事を拒否していると死んでしまう』という合理的 な説明をある程度受け容れられる人や『あなたの健康や生命が心配だから、何とか食べて欲しい』という親や医師(心理士)の感情的な心配に耳を傾ける余裕の ある人は、比較的摂食障害の病理水準が浅いと考えられます。
摂食障害の回復期には、それまで両親の意見や心配を頭ごなしに拒絶していたクライエントが両親の話に少し耳を傾けるようになり、医師(カウンセラー)の指
導や助言をまるで聞かなかったクライエントの態度も緩やかに変化してきます。『痩せ続けることには特別な価値がある』という主観的な強い思い込みや極度の
肥満恐怖と個人的な美(魅力)へのこだわり、食行動を完全にコントロールしようという強迫的な日常生活(行動パターン)が少しでも和らいでくると、摂食障
害の治療は加速度的に進展していきます。
拒食症が重度になった場合。
生命の危機が心配される重症の摂食障害の場合には、医師とカウンセラーが共同して治療に当たることが原則です。特に、カリウムやナトリウムの血中濃度が異 常に低下する低カリウム血症(野菜・果物などの食事の拒絶が原因となる)や低ナトリウム血症(水や氷の過剰摂取が原因となる)には、点滴による栄養補充な ど医学的治療が必須となりますので注意が必要です。低ナトリウム血症や消化器疾患(消化性潰瘍)を併発する摂食障害で多く見られるものとして、毎日大量の 水分を摂取し続けることでストレス解消をする行為や固い氷をガリガリと強迫的に食べ続けないと気持ちが落ち着かない『氷食症』の症状があります。
拒食症の人は『抑えがたい慢性的な飢餓感』を抱えているものです。 逆に言えば、慢性的に襲い掛かってくる強烈な飢餓感(食べたくてたまらない衝動)を自分の力で押さえ込むことが出来たという『達成感(有能感)・征服感 (力の感覚)・満足感(安心感)』が、ある種の道徳的マゾヒズム(正しい事をやり遂げて受ける苦痛や空腹に対する被虐性)による快楽を生み出していると言 えます。食事を力づくで我慢することで得られる道徳的マゾヒズムと自尊心の高まりが、苦痛と空腹、社会不適応をもたらす摂食障害を慢性化させているので す。
摂食障害者がこの道徳的マゾヒズムと節食・過食嘔吐による身体感覚(自己存在のリアリティ)の強化によって、自分を特別な尊厳と価値のある存在にし
たいと考えているからです。そして、過剰な自己愛の表れとして、摂食障害の顕示的な激しい症状を通して、家族(両親)や周囲の人々の行動と関心を思い通り
にコントロール(操作)しようとするのも摂食障害の特徴です。
拒食と過食嘔吐の既往(エピソード)を延々と続けている摂食障害者は、毎日24時間『食事の制限・食欲の抑制・体重のコントロール』のことが頭の中を支配
しており、食行動のコントロールを失う恐怖と不安によって社会的機能(自由な行動の選択)が大幅に制限されています。拒食のアノレクシアのエピソードが過
食(無茶食い)のブリミアのエピソードに転換すると、自己嫌悪や抑うつ感が途端に強まっていきます。その為、『本能的な食欲に負けたという罪悪感(敗北感)』や『動物的に食物をむさぼってしまうという自己嫌悪』を薄めるために、自己誘発性嘔吐や下剤・利尿剤・浣腸の乱用といった
自己愛的な美をがむしゃらに実現したい理由としては、『他者からの承認欲求』と『家族への愛情希求(被保護感覚の欲求)』があり、痩せた美しい身体と食事をむさぼらない高貴な精神さえあれば『見捨てられ不安・成熟拒否の不安』に悩まされることがないという無批判な確信があります。 見捨てられ不安とは、自分にとって重要な位置づけを持つ他者(母親・父親・恋人・配偶者)からの愛情や関心を失って見捨てられてしまうのではないかという 不安であり、早期母子関係の不全や情緒的なコミュニケーションの少なさ、本人の性格傾向の過度の偏りなどが原因となって起こります。
食事を厳格にコントロールすることが彼らのレゾンデートル(存在意義)や理想的な自己アイデンティティにつながっているからです。摂食障害は現象面だけに着目すると、極度の痩せと顕著な衰弱によって生命の危機をもたらすものですが、不食(拒食)と過食嘔吐を繰り返すクライエントにとっては、傷つき挫折しながらも何とか生き残ろうとする『生への欲求』を象徴した病気なのです。 摂食障害の悲惨な現象面だけに注目して『緩慢な自殺(生の欲求の減衰)』として解釈する人もいますが、一般的には、意味ある生活と価値ある自己を目指そうとする『生への敏感なこだわり(不器用な生きる意味の追求)』として摂食障害を解釈したほうが適切ではないかと思います。
- 時代の美意識に適合した『痩せた身体(実際には痩せすぎた身体)』を手に入れて、肥満恐怖を和らげ自己の魅力を実感できる。
- 両親や周囲の人々の関心(心配)と注意を引きつけて、他人に大切にされたいという自己愛を満たすことができる。
- 『深刻な問題を抱えた子供』として家族の中で中心的な位置を占めることができ、両親の愛情と関心を強く引き付けることができる。
- 摂食障害の症状の維持・悪化によって、それを心配して助けてあげようとする他人をある程度思い通りにコントロールすることができる。
- 衰弱して苦しんでいるからということで、『自分がやりたくない事柄』をしないでよくなる。
- 症状が悪化すると身体機能が低下して社会生活・学校生活が困難になるので、社会的義務(職業的責任)が大幅に免除される。
特別な心身症状で両親の注意や心配を惹きつけなくても自分は無条件に愛されているという感覚(対象恒常性の感覚)を培うことが大切になってきます。 摂食障害の心理療法(カウンセリング)において家族病理が明らかになる場合には、精神内界に形成されるべき対象恒常性の欠損として現れてきますが、対象恒常性(object consistency)というのは、心の内面にあって決して消えることのない『自分に愛情を注いでくれる対象』のことです。 対象恒常性の多くは、自分を大切に育ててくれた母親や父親のイメージ、あるいは、子供時代に優しく面倒を見てくれた祖父母のイメージとして現れてきます。 摂食障害に対処する心理療法や家族療法(家族合同面接)の最終的な目標は、いつも心の中で自分を見守ってくれているイメージ(表象)を再形成することであ り、他人の保護的な関心を集める拒食や過食に依存せずに自分の価値・魅力を実感できる『適応的な自己アイデンティティ』を再構築することなのです
回復拒絶の心理として現れる過剰な自己愛は『平凡恐怖・標準嫌悪・自己の特別視の心理』として表れてきます。摂食障害 を発症することによって得る自己アイデンティティの特徴を一言で表現すれば『私は平均的な大衆とは違う特別な価値(意味)を持つ存在である』ということで あり、見捨てられ不安や心理的挫折(トラウマティックな体験)によって生じた自己否定的な感覚を『食行動の徹底したコントロール』という特殊な方法で補償しようとしているのです。
食行動の徹底的なコントロールは健康な人であってもなかなか出来るものではないのですが、摂食障害の強迫性が『コントロール欲求・秩序志向性・完全主義・スケジュール管理』として現れることで摂食障害の症状にある種の義務感や達成感、充実感が生まれてきます。
この内容はこのテーマ”男と女”の範疇の話にはあてはまらないかもしれないが、(広義の)愛情の欠如→不安→不安を払拭するためにいろいろ試みて、たとえば一番簡単な”食事をコントロール”→褒められる→愛情と解釈し満足→という思考回路により、ますます深みにはまっていく、、、、、ということに鳴ると考えられるかなあと、、、、、
なぜ、こういうことを私が書くかというと、私も一時期拒食症だったから(20代前)。
というか、拒食と過食が嵐のように襲ってきて、気の休まる暇がなかった。というのが正しい。
拒食症の時期は全能感に溢れていて自信にみちあふれていても、いざ甘いものやあたたかいご飯、脂っこいてんぷらなど胃に残るものを食欲がおさえきれなくてふとくちにしたとたん、いいしれようのない罪悪感に突き落とされてしまっていた、じぶんはもうだめだ、、、、、世界中から忌み嫌われる醜く愚かな女になってしまう、という、当時はそれでも本気だったし、いまだにあの感覚は思い出せるが、客観的にみるとほんとうにどうかしていた。
沢山の食べものを得るためのお金を稼ぐのはサラリーマンの給料ではたかが知れていたから、それ以外にも法をおかすすれすれの事、ここに書けないことまで手を出して自分が傷つくのも構わずできるだけ沢山の食べ物を手に入れようとしていた。それと同時に食べ物に対する拒否感食べることへの同時に太り続けることへの罪悪感、嫌悪感も強まっていた。
食べる、食べないの二律背反的な考えのなかでずっと矛盾に混乱し、がんじがらめだった。ほとんど鬱状態だったのだと思う。
だから人が拒食症になってあらゆる生命的なもの、ポジティブなものを拒否してしまう気持ちの偏向具合はいまでも理解できるのだ。理屈で説明できないのだけど、あのときはほんとうに確かにあの拒食症へのみちすじがたしかにしっかり見えていて、坂道をすべりおちるようにごく自然に、最初はゆっくりと次第に速度を増しながらどんどん、すり鉢の底へと落ち込み続けていったのだった。もし最後まで行き着くと、おそらくさらにひどい鬱病か自閉の果てに自分で自分の命を奪うところまで行き着いたかもしれない。かろうじてどこかに木の枝か木の根っこかなにか(私の場合は自分の本質的な尊厳を取り戻そうとおもったのがきっかけだった)にひっかかったらしく、谷底まで落ちこまなくて済んだらしいけど。
だからいま拒食症になっているひとたちに、それは病気だから、そっちの道をゆくのは間違いだから、、そんなことしてもあなたはいいことにならないからこっちに戻ってきたら とえらそうに上から目線で言うことができない。
彼女たちの道が行き着く先はすり鉢の底でしかない、落ちるしかないのよ、などとは言えない。それらすべては自分で判断することだから。あらら、危ない、ここから先にはすすんではいけない、と自分の本能がどこかで訴えるのを聞かないことには治らないとおもうのだ。そのときはそのすり鉢の底への坂道が、まったく逆の輝く天へ上っていく道にみえたりするのだから、どんなに傍から危ないといってもムダだとおもう。
自分で危ないことしてるわ、と気づかせる以外の解決方法はないといっていい、と今でも私は思う。
(客観的に診断すればあきらかな拒食症の)本人たちは
救ってくれなくてもいい、私はいまのこの状態が一番幸せなんだから 余計なお世話しないで!とそう思っているんだから。だれにもどうしようも無いと思うのよ、、、、、、、
どこかでわたしも、自分があんなに辛かったからもしもいま誰かを助けられるのなら、自分が例の”途中の木の枝”かなにかになったらいいかなあとおもったこともあったけど、それはなろうとしてなれるもんでもないだろう、それを当事者たちにとっては余計なおせっかい、と思われ余計に拒否されてしまうのがオチだから、手を出さずほうっておくしかないのだと、理解している。
私に世界を変えることなどできない。
私はヒーローではない。
私は永遠にただの傍観者にすぎない、でもそれでよいと思っている。
私はただ世界を生命をできるだけ深く理解し、できるだけ正確に知り、できるだけ真剣に考察し、味わい尽くしたい、それだけだ。