5.7.9…「きたない言葉」


「きたない」の意味には、下品な敬意、あるいは道徳の欠落があること、あるいは示すこととあります。漢字には、汚いと穢いがあります。


さて、自分の口から出る言葉を「一番先に」聞くのも見るのも自分です‼️


世間で聞くところによると、「脳は意外におバカさん、主語を持たないのだと。誰が言って誰に言っているのか理解しない。自分の発する言葉は自分に発せられた言葉だと、受け取る」と言うのです‼️


それを聞き見た自分の脳は、自分への攻撃と見做して受け止めます。だから→→→とても嫌な気持ちになると同時に攻撃されたと受取りますので、やり返す。

まさにこの姿も「因果応報」「原因結果の法則」でしょうか⁉️その連鎖は永遠に繋がってしまうでしょう。


先ず、自分の置かれている処の結果の現象は、自分の蒔いた種(原因)によるのではないでしょうか?

出来るだけ、人からのきたない言葉(特に、人をこき下ろす様な→→その、心根の奥には「慢」の心が潜んでいると感じています)は、聞きたくないし、自分も自分の耳に聞かないで済むためにも、言いたくない、言わない様に心掛けていきたいと思うのです。


日本には「言霊」という言葉があります。

神国日本と言われる古代から、とても言葉を大事にしてきた文化があります。


ググってみると……次の様な記述がありました。参考迄に。

声に出した言葉、音声言語が、現実の事象に何がしか影響すると信じられ、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。

日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。『万葉集』に「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さきは)ふ國ぞ福(さき)くありとぞ」

古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。

例えば、『古事記』において倭建命(ヤマトタケルノミコト)が伊吹山に登った時、山の神の化身に出会ったが、倭建命は「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と言挙げした。それが命の慢心によるものであったため、神であったことを見抜けず、倭建命は神の祟りに遭い亡くなってしまった。


中国から漢字が導入された当初も、言と事は識別されずに用いられた。

自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には、悪い結果がもたらされると信じられた。


すなわち、言霊思想は、万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものだった。


言語学者の金田一京助は『言霊をめぐりて』の論文内で、言霊観を三段に分類し、「言うことそのままが即ち実現すると考えた言霊」「言い表された詞華の霊妙を讃した言霊」「祖先伝来の一語一語に宿ると考えられた言霊」とし、それぞれ「言語活動の神霊観」「言語表現の神霊観」「言語機構の神霊観」ということに相応しいと記している。

などなどの意見が見られます。


私のBlogで、5月にも「悪口」について書かせていただきましたので、ご覧いただけたらと存じます。


これらのことを記したということは、自分が一番最初に感じ、目で見ます。心していきたいと思います。

兎角ともすれば「慢心」が強いかもと、自覚していますので、ご意見がありましたら、お教えくださいませ。


次回は何時になるか分かりませんが、「慢」について記してみたいと思います。