4.4.15…「最期臨終を見据えて思う」…世代を超えて(37) 8.4.18投稿
(16) 最も正しい宗教とは、
⑴ 教主が、生命の本質に立脚して、宇宙の真理と人間の生命の実相を完璧に悟った方であること
⑵ 教義が、因果の道理に基づいたものであり、教典として誤りなく表記されていること
⑶ 本尊が、全人類にとって尊崇に値するものであり、現実に即したものであること
⑷ 信仰修行の規範が、普遍的で、社会的・人道的通念に反しないものであること
⑸ 信仰に依って得られる利益が、教説に適っており、表面的・一時的なものでなく、本質的・永続的なものであること
それらを示す日蓮大聖人様の御文は、
◎ 経王殿御返事……「日蓮がたましひを墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」
◎ 三三蔵祈雨事……「道理・証文よりも現証にはすぎず」
◎ 諌暁八幡抄……「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべし」
◎ 九郎太殿御返事……「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」
◎ 法華経方便品第二の中で、「正とは一に止まる」
「十方仏土の中には、唯一乗の法のみ有り、二無く亦二無し」
◎ 上野殿御返事……「今、末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし、但南無妙法蓮華経なるべし」
◎ 教行証御書……「抑、当世の人々何の宗にか本門の本尊戒壇等を弘通せる、仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず」
法華経の預証どおり末法に出現された御本仏日蓮大聖人様の教えを、七百年間に亘って現在まで清浄に誤りなく受けついできた唯一の教団が日蓮正宗です。
日蓮大聖人様は、日興上人様を選んで本文戒壇の御本尊様はじめ法門の全てを相承附属なされたのです。
そして、日興上人様は、日蓮大聖人様が弘教活動されていた地(身延)の地頭の不法によって、謗法の地になった身延の地を去り、南条殿の御寄進により、現在の大石寺のある地に移られて今日があるのです。
◎ 身延相承書……「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか、時を待つべきなり」
◎ 法華経法師品第十の中で、「此の法華経、最も為れ難信難解なり」
日蓮大聖人様の教えは随自意(衆生の機根に関わりなく)仏が悟った法をそのまま説かれたもので、教義が深遠であり難信難解なのです。
また、その説き明かされた正法を信ずる時、必ず大難や障害が起ると説かれています。
末法は衆生の機根も邪悪な時代であり、出現される仏も弘通される教法も鮮明な破邪顕正を旨とするものであることから、迫害・誹謗は身命に及ぶものとなり、弘教は困難を極めるであろうと釈尊は預言されています。
その末法に入って、出現された日蓮大聖人様の仏法を布教する日蓮正宗は、封建時代の弾圧があり、本格的に始まったのは、信教の自由・布教の自由が認められた後になります。
人には、過去世からの種々の宿業があり、信仰の功徳の開花時期は人により異なります。
他人がどうあろうと、周囲にどう評価されようと、正しい道を知ったならば、確信を持って自ら邁進する人こそ、真に勇気ある人であり、聡明な人といえるでしょう。
◎ 法華経方便品第二の中で、「如来の知見は広大深遠なり」
◎ 観心本尊抄文段(日寛上人)……「この本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり、故に暫くも、この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、即ち、祈りとして叶わざるなく罪として滅せざるなく福として来らざるなく理として顕れざるなきなり」
「仮使(たとえ)、発心真実ならざる者も正境に縁すれば、功徳猶多し」
◎ 御義口伝……「功徳は六根清浄の果報なり、悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云うなり。功徳とは即身成仏なり」
六根に具わる煩悩の汚れを払いおとされて清らかになり、物事を正しく判断出来る叡知が生まれること。
正しい御本尊を信ずる時、煩悩はそのまま仏果を証得する智慧となり、生命に内在する仏性は活き活きと発動し、迷いの人生は希望に満ちた楽しい人生に転換されていくのです。是を即身成仏というのです。(続く)






