8.4.10…最期臨終を見据えて思う」…世代を超えて(33)

8.4.13投稿


その頃、創価学会と御宗門とのことが取り沙汰されていることは、電車のつり広告でも何となく見ていましたので、正しい仏法を求めるには、何処へ行けば良いのか、どこへ行ったらいいのだろう?

迷いの中にあった私でした。

そして、何かに導かれるように、品川の妙光寺へ足を運んでいたのです。その妙光寺は、父が入信したときに御授戒を頂いたお寺でした。

ソウです、その日が、再び信心する第一歩の歩みでした。


その日の尾林御住職様の御法話は、不思議にも「発心」ということだったのです。

そして、「光久先生にお会いしたい」と思ったのでした。(創価学会時代には、御住職様を先生と呼んでいました)

受付でお聞きすると、その光久先生が東京に入らしたのです。何という歓びでしょう。大石寺は遠すぎます。嬉しさでいっぱいでした。


そして、光久先生を本所吾妻橋の妙縁寺へお訪ね出来たのです。

お会いして御住職様は、「覚えていますよ。ご縁です。仏法は因縁が大事ですよ。お父様とのご縁があって今此処に来たこと。先ず、お父様の追善供養をしましょう!」と、仰ってくださいました。

昨年家を出た時が、父の二十三回忌の節目の年です。父がキッと私を護ってくれたのでしょう。


そして、この年は御不敬から満23年です。罪障消滅を祈り、信行に励む以外にない、私のこれからの人生はこれしかないでしょう。

何度となく死に損なって、生かしていただいていたのでしよう。

私の生きていること、生かされていること、何か使命があるのかも知れません。

御本尊様、私を導いて下さい。私の生きる道を!祈り、信ずることが出来る私にさせて下さい!

今は、先ずそこから始まると思っています。


その二 正しい信仰(人生の羅針盤と言えるもの) 

平成9年~

(私が、今現在(当時)知り得たことを、順次書き記したものです)

   その後私の書いた拙書「六根清浄ー親と子の絆ー」で書いた出来事は、一見哀しい出来事でしたが、信仰の大地に辿り着いてもまだ、心を傷つき病んで回復の途中、元々人間関係が苦手でしたので、様々なことがありました。

  その間に、色々な出会いを頂いたこと。仕事も非常勤職員となり、少し時間が出来た平成17年頃、この項のことを纏めることが出来る様になったのも、不思議です。 

(当時書き記したまま)

  何事も無駄はないのだと!!


(二)正しい宗教と信仰」

日蓮正宗総本山大石寺大日蓮発行(平成6年第27刷)を読んで


 ①人生の目的は幸福(成仏の境界)であり、その目的に向って、一つひとつ障害となるものを取り除き、前進して行くこと。

そこへ向かおうという人生の姿勢について、日蓮大聖人の御書には、

◎立正安国論……

「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ」

◎衆生身心御書……

「小事つもりて大事となる」と、正しい信仰に対する小さな発心、ほんのわずかな精進が、あとに大きな力となって現われてくることを御指南下さっております。

良き人材になろう、幸福になろうという発心が大事です。

◎新池御書……

「かなしきかな今度此の経を信ぜざる人、抑も人界に生を受くるもの、誰か無常を免がれん、さあらんに取っては何ぞ後世のつとめをいたさざらんや」

せっかく人間に生まれたからには、正しい信仰をもって将来の幸福を築くように努め、いたずらに無為な時間を過ごす事なく、意を決し勇気をもって正法につくことと、お示し下さっております。


② 信仰の必要性の認識

生き方の相違や宗教に対する認識の相違があり、欧米では、信仰を持っていない人は、信念・指針を持っていない人だと評価(軽蔑)されています。

また、現代は、宗教の時代と言われているようです。人生を充実させるため、宗教の必要性を痛感している心ある人が増えていることも確かであるのです。

信仰を持つことは、人生を深く考え、より向上しようという心ある行為といえましょう。


◎一念三千法門御書……

「百千合わせたる薬も口にのまざれば病癒えず、蔵に宝を持てども開く事をしらずして、かつへ、懐に薬を持ても飲まん事をしらずして死するが如し」

せっかくの薬も宝も用いなければ何の役にも立たないように、正しい信仰をしなければ真の幸福は築かれない。

   持妙法華問答抄……

「されば持たるる法第一ならば、持つ人随って第一なるべし」

最高の教えを保つ人は、又最高に素晴らしい人である。


③ 特定の宗教という考え方について

私達は、所謂「特定」の学校・会社・国家・地域等の特定の社会や集団・組織の一員として生きているのです。

もし、不定であれば、又これといった信念も持っていないならば、逆に信用されないでしょう。

こと、宗教になると「特定の信仰を持つことがいけない」との錯覚にとらわれるのは、何故なのでしょうか?

欧米人は、一つの信仰を持つことに誇りを感じています。むしろ、信仰を持っていない人間を心に深みとゆとりのない無教養の人として見ます。


特定の信仰を持つ事に対して、次のような心配をしている人がいます。

   考え方や意見の食い違いにより嫌われる

   信仰活動により、つきあいの時間がなくなる

   色メガネ、異端者としてのレッテルを貼られるなど、正しい仏法に帰依して、真実の人生を歩もうとすれば、一時的に周囲に変化はあるかも知れませんが、本来、信仰者の姿や言動を通して理解を深め、より以前に増し、人間関係が良くなっていくものです。

宗教に無知な周囲の人と意見や考え方に食い違いがあるのは当然、誠意をもって教えてあげましょう。

信仰で培った生命力と快活な人間性を発揮して、よい人間関係を積極的に作っていくことです。


   檀越某御返事……

「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」

法華経を持つ者は、社会人としての努めに対しても、真剣に取り組まなければならないと戒められています。


④正しい信仰は人生の羅針盤のようなものです。

人生の岐路(就職・結婚等)は、ゴールではなく、スタートであるとの心構えを持つことが大事です。

生活の中で、必ず起こる様々な問題や困難を雄々しく克服して、着実に幸福に向い前進するためには、その根本に正しい信仰が必要なのです。

自分の人生に何が最も大事かを考えたいものです。


 仕事に励む目的は、自身の生活をより豊かに、精神的にも物質的にも安定した幸せを得ようとすることにあるといえましょう。

しかし、この幸せは、恒久的なものとはいえないのです。(表面的一時の結果や、前世の善因に基づく果報によるもの等もある)

この幸せを恒久的なものにするために、正しい信仰が必要なのです。

正しい信仰による果報は、今生の幸せはもとより、未来世への福徳を無間に積み、永遠に繋がるものなのです。

「世法即仏法」、「社会即仏法」、「信心即生活」……

この原理は、生活そのものの中にあるものです。(続く)