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週末、久しぶりに大阪にいる姉とLINEで長電話した。
姉妹というものはいいものだ。
何せ、旦那よりも長く、私と同じ歴史を共有しているのだから。
あと数年したら、旦那の方が追い越しちゃうけど。
何ヶ月も話さなくても、ずっと離れていても、固い絆で結ばれていると、私は勝手に思っている。
姉と盛り上がる話題は、結構、仕事関係のことが多い。
彼女は晩婚だったので、子供の年代がかなり違うというのもあるのだが、
仕事をしたり、外に出るのが
性にあっているのだろう。
キャリアウーマンではお互い決してないのだが。
明日の予定を聞くと、幼馴染のSちゃんのお母さんの家に遊びに行くとのこと。
このSちゃんは、私たちが生まれ育った団地の同じ棟に住んでいて、家族ぐるみで仲良くさせてもらっていた。
我が両親は、生涯自分の持ち家を持たず、この団地暮らしで一生を終えた。
若い頃は、団地に住んでいるということが、恥ずかしかった。
一軒家や自分の部屋に憧れた。
姉も同じだったようだ。
この狭い団地暮らしが、私の海外への思いをより一層掻き立てたといっても過言ではない。
今になって思えば、豊かではなかったが、愛情を注いで、一生懸命育ててくれた両親に対して、
そんなことを思ったことを申し訳ないと感じる。
でも、両親に言わせれば、ちょうど高度成長期の頃にできたこの団地に、新婚当時当選したことは、宝くじにあたったような感覚であったそうだ。あの狭い、3DKがとても広く感じたそうだ。
あんな狭いところによくも4人で住んでいたなと思うのだが。
いかに当時の日本の住宅事情が悪かったかがうかがえる。
そんな団地群も、今では、老朽化そしてスラム化して、高齢者や生活保護者が大半を占めるようになった。
そして、とうとう私達が住んでいた団地も、取り壊され、新しい高層住宅ができることになった。
Sちゃんのお母さんも、ずっと同じ場所に住み、そして娘たちが独り立ちし、伴侶をなくして、あの団地で一人暮らしをしていた。
そして、今は市が用意してくれた借りの住まいで暮らしているそうだ。
母が亡くなり、一人で住んでいた父は、
「もうすぐしたら、ここを壊して新しいのが建つだろうから、それまでは、我慢して住むわ。」
と言っていたのを思い出す。
それももう十数年前のことである。
そんなことを思い出しながら、もう跡形もない実家の住所をGoogleマップで検索してみた。
まだ、建物が残っている画像があったので、記念にとっておこう。
昭和のノスタルジーの一場面として。
