昨日の夕焼けはやけに綺麗だった。
「きれいな夕焼けは癒されるね、ここで暮らせて幸せだね。」と娘に話しかける。
きれいな景色を見て心が満たされるという何気ない幸せが、真の幸せなのかもしれない。
ふと娘が、「カンボジアの人たちは貧しいけど、ノルウェーにだって貧しい人がいるのに、なんでその人達を先に助けないの。」と、前回書いたODW(記事はこちら)の活動について疑問を投げかける。
私は答えに困った。
「ノルウェーは、政府が税金を出してその人達を救済してくれるけど、カンボジアは政府がきちんとしていないからじゃないかな?」と、適当な考えで答えた。
「オスロの駅に、お金が必要な人たちがたくさんいるのに、どうしたら、そういう人たちを助けることができるのかな。」と娘。(これも以前の記事について)
ごもっともな意見だ。
目の前の困っている人を助ける方が、遠くのカンボジアの子供達よりも大切なんじゃないかということ。
「でも、困っている人を全て助けていたら、私達は自分の家も売って、その人たちにあげなくちゃいけないよ。それでもいいのかな?」と私。
「あの人達はどこから来たの?なんで、ノルウェーに来るの?」と娘。
「ノルウェーは物価が高いから、ここで稼いだお金を自分の国に持ってかえったら、沢山物が買えるからじゃない?」と私。
「あの人たちを助けないのは、あの人達が違法でここにいるからだと思うよ。もし、助けたら、助けて欲しい人がみんなノルウェーに来ちゃうよ。そしたら、私達のものもあげなくちゃならなくなるよ。」と私。
そんなことを理解するためには、
「どうして貧困が生まれるのか」
「どういう国からやって来た人々なのか」
「歴史背景はどうなっているのか」
「どうしたら貧困をなくせるのか」
「政治や経済ってなんだろう」
色々なことを学ぶ必要がある。
「カンボジアでは、子供が学校にいけないって聞いたけど、学校は無料じゃないの?」と娘。
「無料かもしれないけど、生活できないから子供に働いてもらうしかないんじゃないの?」と私。
「そしたら、教育が受けられなくて、また貧しくなっちゃうね。」と娘。
カンボジアの子供たちへのチャリティ活動は、ただ、お金をあげて助けてあげるということだけではなく、多くのことを学ぶ機会であるということに改めて気づかされた。
その後、娘とはさらに長いやりとりがあった。
娘が自分の将来、自分が社会にどう貢献できるかなど、色々と考えるきっかけになればいいな。
「村に住む人びとの100人のうち20人は栄養がじゅうぶんではなく1人は死にそうなほどです。
でも15人は太り過ぎです」
*「世界が100人の村だったら」より抜粋。