春分の日に、新柵山という埼玉県の超マイナー低山に登ってきた。場所は比企郡ときがわ町、少し前に過疎指定されたところである。秩父盆地の東のこの町は、丘陵と山岳の境にある。ときがわ町には十座ほどの山があり、新柵山はその一座、有名な山としては、天文台がある堂平山と、ピラミッドのようにとんがった頂上の笠山がある。新柵山は、それらの山の連なりの南側の、500mにも満たない低山である。
 ときがわ町の十座を駆けめぐる、トレランの会も最近行われているが、登山やハイキングコースとしては、人気はない。弓立山という眺望がよい低山がすぐ隣にあり、そこが一番人気があるかもしれない。
 新柵山は、山としては特色が薄い山であることは分かっていた。が、とにかく登ってみたいのは、なぜか吾野緒濫人には分からない。
 すでに山行記録は、ヤマレコにアップしたが、今回の山行では、驚くべき発見があって、未だに頭が妄想で興奮している。それを鎮めるために、ここにその感想文を乗せることにした。

 

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6572070.html

 

♠天候(午後急変予報)
 テンクラの前日は、昼までは晴れで15時くらいから突風や雨予報だった。出遅れて、登山開始が9時半ごろ。11時になったら、下山しようと思ったが、新柵山(あらざくやま)の尾根道では北風に煽られ、頂上から刀爾の首(とうじのかしら)で11時だったが、日照が途絶え、北風に雨がまじり、焦った。予報が前倒しで荒れ模様になった。山の天気は低山でも舐めてはいけない。午後には陽射しが戻ったが、これも予報が外れた。

 


♠馬生登山口
 駐車場として、ときがわ町市民農園駐車場が見つかったので、利用させていただいた。さて、ヤマレコアプリで登山口を探す。ところが、何と開いたスマホ地図は、逆方向を示している。私は頭が白くなった(白髪ではない)。頭に入れていた配置が、スマホ地図では、逆になっている。道路を右往左往、何度かスマホを見ながら首を傾げていたが、やっと正常に戻った。スマホのGPSは、こんな奇妙な間違いを起こすこともあることを経験した。
 全長禅寺の入り口から登るらしい。ずっとそのまま登ったら、ヤマレコのルート警告。戻って、入り口から数十メートルの右に入る道かと進むと、あれれ、民家の入り口だった。
 登山道は、民家の庭を通るのだろうか?
 また、頭が半分白くなった(白髪ではない)。しかし、ヤマレコ地図は、その方向を指し示している。すると、数メートル先に、右に登る細い急登の道があった。そこが、馬生登山口だった。標識くらい出しといてくれ。ピンクリボンでもよい。つまらないロスタイム。

♠超マイナー登山道:新柵山は「あらざくやま」だった
 新柵山を、私はずっと「しんさくやま」と読んできた。がこの日初めて、「AR山ナビ」というソフトで、「アラザクヤマ」であることを知った。そのメジャーな登山道は、慈光寺の入り口方向からか、日向根バス停方向からのようで、馬生登山口から、滅多に使われていなようなルートではなかろうか。落ち葉や枯れ枝が散乱していて、歩き易くはない。すこし急な道が合流するまでずっと続き、疲れる。途中に数メートル、崩落しているところもあった。滑落注意。



♠新柵山の先:大杉と桜の感動
 新柵山の尾根道は、北側に、都幾山、育代山、金嶽、笠山、堂平山の眺望がちらりちらりと見える。反対側は雑木林に覆われていて何も見えず。ピーク感は薄いが、天候不順で怪しくなり急ぎ下山の分岐で、巨木の大杉が目に飛び込んできた。垂がきれいに巻かれている。越生稲荷神社の御神木だった。南斜面を振り向くと、なんということか、桜が満開だった。不順な天候の不安がすっとんだ。
 北からの強風は尾根に遮られて止まったが、雨混じりの風が吹く。トトロの停留所があったが、子連れで来たら、愉しいだろう。すぐ側に、浅間神社があった。ものすごく急登で、枯れ枝が散乱した石の階段は、登りかけたが、あぶなくて止めた。



♠大日様捜し(天候がもちそうだったので)
 今回の登山の目的は、新柵山を登るのだったら、Google地図にポツンと出ている「大日様」を探すことだった。
 「大日様」というところには、大日如来像が安置されている写真があった。
 この場所は、国地理院地図には何も書かれていない。Google地図では、道路も何もないところに、ポツリとあるだけで、まず、道が全くわからない。
 大木戸というところ大きな案内板があった。現在地から地図を隈なく見てみると、下の左のあたりに、「大日様」という文字が見つかった。それを写真攝りしたが、この案内板の地図には、Googleマップにも、地理院地図にもない道が、きちんと描かれていて、そこから、大日様の、おおよその位置が判明した。
 「これを頼れば、見つかるかも」と期待を膨らませ、天候がなんとかもちそうだったので、寄り道して「大日様」捜しに氷川の流れに沿って、登って行った。1キロ以上、2キロ近く氷川沿いを遡ったところで、案内板の分岐地点らしきが出てきた。



♠男根石像の御神体?(正式な呼び名が分からない)
 大日様捜しで椚平へのルートを辿ると分岐が現れた。左に登ってみることにした。ほどなく目に焼きついたのが、なんとこれは、男の「アレ」か。「アレだよな」と私は自分の下腹部の中を想像した。
 大きさは、タタミ一畳ほどもある。しかもそそり立っている。ジイさんの私にも、再びこんな元気が欲しい~!と妄想した。
 なぜ、こんな山の奥深いところに、タマまでが二つ並んで、こんな大砲の砲台のような御神体的なるものを、だれが、何の目的で??? 謎、なぞ、ナゾ……! そのいまにも発射しそうな方位はというと、西北に向かっていた。
 「ひょっとして、この先に大日様?」とさらに登ったが、気配はなく引き返し、分岐に戻って右の方向に歩みを進めた。
 後で気づいたが、大日様への道を間違えたわけではなかった。どうしても、この、そそり立つ石の像を、先に見ておく必要があったのだ。つまり私は、何者かに導かれてこの巨砲のような、男の「アレ」の御神体的石像を拝することになったのである。

 



♠岩の渓谷の道から隠されていた大日様を発見!
 渓谷を渡る橋が見えた。左の渓谷を見ると巨岩が切れ立っている。ふと直観がビビリと走る。
 「ここかも?」
 よく見ると橋の手前に渓谷に入る階段らしきが、スギの枯れ枝に隠れて見えた。そこを下ると、渓谷は、雑然としているが、なんとなく道らしきがあり、奥に進む。
 巨岩の下をくぐり歩を進めると、「あっ」人工的な階段が見えた。「ここに違いない」と確信した。が、階段は途切れ、先に行けない。ひょっとして崩落してしまったのか? と不安になりる。
 あたりをキョロキョロ見回すと、左上に鋼鉄製の手摺りと鎖が見えた。振り向いた上のほうに、石の灯明らしきが見えた。「ここだ!」。なんと、錆び付いていて不安だったが、鎖にしがみついて登る。ものすごく狭くて足場が極端に悪く、手摺りと鎖がないと絶対に登れない。ほんの数メートルなんだけど。

 



♠たった一人しか拝めない、大日如来像
 やっと一人だけ、手摺りに守られて拝することができた大日様は、手印から大日如来像である。びっくりしたのは、その大きさ。20㎝くらいだろうか。とても小さい。
 岩と岩の縦の割れ目に嵌まった大日様。これを拝することができたのは、導かれたとしか言いようがない。後で知ったのだが、この石の割れ目、なんと、「アレ」だった。つまり今回二つ目の「あれ」である。
 実はまだ、大日様を発見した時点では、前に見た男根石像との関係をまったく気づいていなかったのだが、それが符号していたと分かったのは、2時間ほどあとである。
 大日様は北向きだった。なぜだ? そこから左を振り向くと、石登楼の左下に渓谷の橋が見え、荒れ模様だった空から、何と太陽の光が降りてきた。奇跡を感じないわけがない……。ということにする。

 



♠全長寺の御住職様からの貴重情報
 下山して、帰路、せっかくなので、馬生登山口の先にあるはずの全長寺を参拝することにした。新柵山の南斜面の細い道を、案内にしたがって登ると、そのまま寺の境内に入ってしまった。家で言えば、不法侵入となる。
 母屋から大きな犬が、私に向かって吠えている。
 参拝だけさせていただこうと寺の前に行くと、御住職様と思われる、スマートな方がいらっしゃった。恐らく、不審者への対応で、お出ましになられたと思ったので、挨拶をさせていただき、ついついいろいろとお話を伺う展開になった。臨済宗のお坊様である。みなさん論議には長けている。
 そのお話の一つに、大日様について問い合わせると、なんとときどきお参りをされていると聞いた。全長寺の創建は、1240年ごろだが、大日様については、分からないという。興味深いのは、実は、大日如来像が祀られている岩の縦の割れ目に本当の御神体らしきがあるという。それと深い関係があるのが、少し離れたところにある、男根の石像だという。
 ご住職様は、男根石像が大日様の方向を向いていると教えてくれた。戻って地図から配置を調べると、まさしくそのとおりだった。そそれ立つ男根のエネルギーは、何を目指しているのか。あなたの想像しているとおり、男根は「アレ」に入ろうとしている。その構造が、きょう見てきた男根石像と大日様(岩の割れ目)にあるのではないかという示唆を、いただいた次第である。
 この近くに、それを祭化した風習もあるのだそうな。
 ただし、現在になって、大日様のお祭りは、集落の限られた人だけで、受け継がれるようになったようだ。
 もう一つ、新柵山の中腹、全長寺から西方向になる多武峯(とうのみね)神社は、慶雲3年(706)に大和国磯城郡多武峯(奈良県桜井談山神社)から藤原鎌足の遺髪を移し、祭神として祀った多武峯大権現が始まりだそうである。古の藤原氏に関わる由緒深い神社であるというお話しをお聞きした。この神社を管理しているのは、すぐそばにある武藤家で、当時は、藤原姓だそうだ。
 それらから、このような山奥だが、ときがわ町には奥が深い歴史文化がもっとたくさん眠っているのかもしれない。
 もう一つだけ教えていただいた寺の歴史だが、都幾山の霊山院から正法寺~全長寺~皎円寺の関わりは、鎌倉時代から続いている臨済宗、妙心寺派の寺院となる。。

♠まとめ
 新柵山登山だが、その呼び名が、「あらざくやま」であることを知り、大杉、桜、男根石像、大日様、全長寺……と、驚くべき発見がざくざくあった。とくに、男根石像、大日様、全長寺の繫がりは、まさに何者かに導かれた感がある。もし、予定どおり早朝から登山したなら、ルートが少し違うので、大日様を見つけることができなかったろう。朝出遅れて、下山の場所を変えたので、大日様の位置を絞ることができたわけである。男根石像も、道迷いで発見したのではなく、道迷いを強いられたように思う。大日様を発見し、拝したあとに、太陽が燦然と降り注いだ。
 超幸運と言える連続を経験できた、すばらしい登山だった。ありがとうございます。

♠おまけの追記(胎蔵界曼陀羅からの妄想)
 「大日様」を捜して歩いた今回の登山のおまけで、分け道で間違えて登ったところに発見した男根石像。それに仰天して訝しみ、しかしそのリアルな造形に密かに心踊ったその後に、やっと辿り着いた「大日様」。さらに登山後に、なんとなく行ってみた臨済宗妙心寺派の古刹、全長寺でお目にかかったご住職からの情報。そこから、男根石像と大日如来が安置されている縦の割れ目の磐座が,微妙なしかし深い関係があることに気づかされ、妄想ロマンが拡張した。
 そこからその関係性は、曼陀羅絵図から大日如来がなぜ、縦割れ目の磐座にましますか、その理由が浮かび上がってきた。
 全長寺のご住職のお話を聞いたときには、本当は如来像の後にある磐座の窪みにあるというお言葉から、そしてそれは女陰ではないかということから、私はそれは、ひょっとしたら縄文時代からあったはずのアラハバキ神ではないかと疑い、それをカモフラージュするために、大日如来像で隠したのではなかろうかと考えたりしたのだが……。
 調べて出てきたのが、胎蔵界曼陀羅だった。胎蔵界曼陀羅の中央にいるのが、大日如来である。宇宙のド真ん中に存在している。時系列で言えば、もっとも根源的な最初期に発生した佛である。大日如来は、宇宙のビッグバンの根源の象徴なのである。そこから、続々と細胞分裂そのもののように、さまざまな役割を担った佛が発生する。その生命が生成される構造が、胎蔵界曼陀羅に象徴されているわけである。
 曼陀羅は、大日如来から派生した八体の佛を描いた「中台八葉院」の真上(方角的に言えば北)に「遍知院」というブロックがある。
 「遍知院」には、横一列に五つの図が描かれている。

 ・左端;七具胝仏母/准胝観音
 ・中央左;仏眼仏母
 ・中央;一切如来智印(炎を伴った三角形)
 ・中央右:大勇猛菩薩
 ・右端:大安楽不空真実金剛/普賢延命菩薩

 ここに配置されているのは、すべてが生命の根源に関するものである。生命はどこから始まるか? あなたは母の胎内に宿ったことを連想するだろう。そのことが、胎蔵界曼陀羅の「遍知院」に描かれている。
 まず左端の七具胝仏母(准胝観音)は、七十億の仏の母、仏子、仏弟子を生む仏とされる。次の仏眼仏母は慈悲深い母の願いである。
 さて問題は、中央の「一切如来智印」という三角形の図だ。これは、「毘廬遮那仏の悟りの顕現、大悲の発動、智慧の発動を示す」とされる。が、もう一つ、これは「女陰」のことだという説がある。
 
 「さらにある真言宗の碩学のお話に胎蔵曼陀羅の遍智院は仏母院ともいい、准胝様や佛眼仏母も並んでいますが、中央にある『一切如来智印』という△印は実は女陰の図形でもあるというお話を伺いました。いうなれば、この遍智院から一切の仏が生まれる」(https://konjichouin.hatenablog.com/entry/14936081)

 曼陀羅の名称をよくよく考えてみれば,「胎蔵界」とは文字通り、胎児が宿る蔵、すなわち子宮のことに間違いない。
 つまり、子宮宇宙の中央にまします佛が、大日如来となる。

 ときがわ町の椚平の「大日様」が、縦割れ目磐座の女陰を彷彿とさせるその位置に、像として配置されているのは、胎蔵界曼陀羅からその理由が見えてきた。
 ところで、なぜ大日如来が北向きに配置されているのかは、分からない。正法寺近くの大日如来像も北向きだった。調べると、かつて大日如来像が北向きに拝されていたことを確認した方のブログがあった。北向きでは、信者は南に向かって拝することになる。太陽の方角を拝するようにするために、北向きとしたのではないかという理由はわからないわけではないが、シンプルすぎる。
 もう一つ気になるのが、「大日様」を狙いすましたように設置されていた、男根石像である。「魔羅石像」と表現したほうがよいだろうか? もしこのような話を不謹慎な話題と毛嫌いする気持ちがあったなら、真言密教の教典「理趣教」の「十七清浄句」を見てほしい。伝統的仏教の教えが悟りへの迷妄として禁じていた異性との交わりを、ことごとくが菩薩の位であると、大肯定している。愛も性欲も性交渉もすべてが菩薩の位のもので、清浄な行為であると表明している。もし、男女の交わりが性悪なものだとしたら、私も、あなたも、父と母の性悪な行為によって生れてきたことになる。
 男女の交わりは、生命活動の根源である。その根源のエネルギーの高まる必要性を、あの魔羅石像(男根石像)は、ほと(女陰)と見做される大日様との関係で表して、世の中の子孫繁栄に願いを込めたのではなかろうか。

 


図:出典:Buddha_detail,_Mandala_of_the_Two_Realms_(Kyōōgokoku-ji)_9th-century_painting_of_Japan_(cropped)、東寺、胎蔵界曼陀羅、パブリックドメイン


♠おまけの追記2:男根石像=道祖神?

 地理院地図に、大日様の情報はないが、Google地図を拡大して見ていくと、「大日様」という文字が出て来る。しかし、道がない。
 さらにGoogle地図には、「大日様」からの東南方向に「道祖神」という表示があった。私が見た男根の石像は、道祖神なのだろうか? 道祖神は、あちこちにある。いろいろと見てきたことがある。けれど、魔羅そのものの石像が道祖神だというのは、見てきた印象では納得がいかない。
 ウィキペディアを調べて見た。引用する。
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 道祖神は様々な役割を持った神であり、決まった形はない。材質は石で作られたものが多いが、石で作られたものであっても自然石や加工されたもの、玉石など形状は様々である。像の種類も、男神と女神の祝事像や、握手・抱擁・接吻などが描写された像などの双体像、酒気の像、男根石、文字碑など個性的でバラエティに富む。
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 なるほど、「男根石」の道祖神もあることがわかった。それにしても、これほどリアルな造形の男根石の道祖神は、他に類例がないのではなかろうか。