吾野緒濫人は、最近あの病気がぶり返して重症気味である。オーディオという病、治るクスリがない。
 一昨日、毎日熱にうかされて、とうとう妄想が現実化した。
 廃棄寸前のフォステクスのFE106Σをホッカイボイドという紙製の筒(建材)に強引に取り付けて、ローパス音で鳴らしてみたら、驚異的なスーパーウーファーとしてパンチと深みがある壮絶なスピーカーシステムが誕生した。
 そして聴いた。低音、超低音をアンプでブーストしてガツンガツンと入れまくった。弾けるような低音が、ぶるぶると部屋中の空気を震わせる快感に酔った。何曲も酔いしれて聴いた。
 が、昨日右の180センチ長さのユニットから、低音でカサカサとかジリジリとか雑音がする。それがだんだん大きくなっていった。
「あらぁ、コーンがやぶけたかぁー?」

 


 その想像は正しかった。分解してみたら、もともとカサカサしていたコーンの半分くらいに亀裂が走っていた。ガンガン低音をいれまくったので、コーンが破れてしまったのだ。それでもブルンブルンと音が出る自体が驚きであるが、ここまでぶっこわれてしまっては、もうつかえない。とうとう、廃棄処分決定である。30年以上も使い切ったスピーカーであるが、まだコーン以外のフレームは丈夫だし、強力な磁気回路は健在である。なのに、肝心なコーンは紙である。残念な気持ちを切り換えて、思い出した。
「先月までメインで使っていた、ALPAIR 7Aが眠っている。それに替えようか?」

 


 マークオーディオのALPAIR 7Aはそこそこのフルレンジである。能率は低いが、トータルでバランスのよいきれいな音が出る。これは、別な機会にとっておくつもりだったが、ウーファーにするのはもったいないがしかたない。取り替えることにした。

 


 試聴――。
 やっとビリツキはなくなった。ALPAIR 7Aは紙ではない。メタルコーンである。それだけに、コーンは強いはずだ。FE106Σに比べると、スピード感、レスポンスがやや劣る。が、共鳴管は問題なくドライブしてくれた。

 Audictyでサイン波を入れて低音域を調べてみた。70ヘルツあたりで小さな谷があるが、40ヘルツくらいまで、ゆったりくだり気味だが十分な再生音。以降はだんだんと音が小さくなった。33ヘルツくらいまでは実用の範囲か。その先が、小さくなって行く。なんとか30ヘルツくらいまでは出ることは出る。

 鬼太鼓座の95年録音で、大太鼓を聴いてみた。部屋を揺るがすほどの低音に、共鳴管スピーカーの威力が出た。リアルである。ピアノも、低音を叩いた響きは、ピアノの胴鳴りがわかるほど。低音は重くはないので、レスポンスがよく伸びやかだ。

 と、そんなことで貴重な昼間の3時間を費やしてしまった。
 いったい吾野緒濫人は、貴重な人生の時間をこんなことで消費してよいのかどうか、悩み始めた。
 オーディオという病は、仕事の時間を奪い、夜の睡眠時間を削ることになる。酒飲みが、仕事帰りに中間に「ちょっとだけ寄って行こうぜ」と居酒屋に誘う。気づくと時計の針は11時をまわり、終電がやばくなるということを、まさに予定調和のように繰り返す。

 緒濫人は「予定調和」という言葉にひっかかった。元来勉強しないたちなので、正しい意味を知らない。この言葉は、いまYouTubeで大人気の、イカリちゃんこと、飯山陽さんが、テレビ業界の問題を解説していたときに使った。緒濫人は、その解説の「予定調和」という使い方に、なにかもやっとしたものを感じたので、ウィキペディアを開く。

――予定調和説(よていちょうわせつ、フランス語: harmonie préétablie)は、すべての「実体」は自分自身にのみ影響し独立しているとする、因果関係に関するライプニッツの哲学、神学的原理である。――

 吾野緒濫人は、思わずよろけてしまうくらいに驚いた。
「ライプニッツの神学的原理だとぉ?」
 何かが緒濫人の脳味噌の中で弾いて煌き、「ライツニッツって、なんだっけ」と進む。そしてさらに激しく動転しそうになるくらいに驚いた。

――ライプニッツはこの実体をモナドと名付け、「モナドには、そこを通って出入りできる窓はない」(相互作用しない)と『単子論』(Monadology§7)で説明した。――

 何と何と「モナド」が出てきたのである。神智学の言葉ではないか? 神智学では、エーテル、アストラル、メンタル、コーザル、ブッティ、アートマと精神的階層が上がってゆき、最後の到達境地が、モナドになっている。オランドには、理解が及ばない聖域の言葉であった。
 さっそく、アマゾンで電子書籍、ライプニッツの『モナドロジー』という書籍を買った。まだ読んでないが、わくわくが止まらない。どうやら、ライプニッツの言うところのモナドは、ブッダの悟りそのものに直観した。
 予定調和は、モナドに起因するのか?

 緒濫人のオーディオ病は、まさに予定調和のように、けっして治ることがない。

 蛇足だが、YouTubeで、クラシックの古い録音を解説している台湾在住の指揮者、徳岡直樹氏が、AIと音楽表現の話題から「AIにはリビドーがない。そこが人間に代えられないところだ」みたいなことをおっしゃっていた。このことば「リビドー」と聴いて、吾野緒濫人は、またまた驚愕した。久しぶりに聞いた「リビドー」という言葉。そこに、人間の性欲の根深い原初エネルギーがあると思う。徳岡氏のおっしゃるとおり、リビドーという生きる力の大元がないと、表現芸術は起こらない。AIには、性欲のことは逆立ちしても理解できないだろう。リビドーの本質は、芸術という表現形態でしか伝えることができないからだ。
 こうしてリビドーは、ついにはモナドに至る。これも予定調和としてか? 吾野緒濫人の妄想が、オーディオ病の発症とともにとまらなくなった。