時は字幕でパラパラと遡る。風景にはセピアの風が吹き、木造のシックな和風の家と庭、ヴァイオリンの単旋律の音がした。
 『運命』
 無伴奏で奏でられるヴァイオリンはベートーベンのあの名曲の1楽章。そこから、手話を交えたプロローグが始まった。
 「ジャジャジャジャーーーーン」
 高橋潔という聾唖学校校長先生の物語の開始がたんたんと紡いた糸を解くように告げられる。
 吾野緒濫人は、ほとんど予備知識のないまま、銀幕に写る光と色と影の動きを眺めていた。ぼーっと見ていたはずだが、いつの間にか緒濫人の意識は、銀幕の中に吸い込まれ、不思議な異空間にタイムスリップした。
 教会に一人の青年がいた。牧師がやってきて、大阪に行けと指示する。唐突なやりとり、自然ではないぎごちなさ、どうもプロではなさそうな演技。冒頭の運命の暗示の後にキリストの暗示が続く。しかし、キリスト教の教えを垂れるような押しつけは全くない。

 そこから銀幕の中の時空間は、さらに言葉がない異次元に飛ぶ。
 生まれながら、音が聞こえない少年が、セピアの大地で泥にまみれる。冒頭の『運命』の暗示が被る。
 懐かしい木造の渡り廊下。吾野緒濫人の記憶にある子どものころの小学校の風景が被る。そこは、聾唖の子どもたちを教育する学校の校舎だった。そこには、聾唖の先生としゃべれる先生が数人いて、主人公の高橋潔は、この学校の校長になった。
 聾唖学校の中の物語なので、ほとんど言葉がない。手話が大半である。
 吾野緒濫人は、手話を知らない。とくに興味をもったこともなかった。手話の世界というものがあることを、このとき初めて知ったのだ。
 そして、驚くべきことに気がついた。

 手話の会話は、手振りだけでなく、顔の表情が激しく微妙に動く。首も頭も身体も動く。腕を上げたり下げたり、さすがに脚の動きはなかったが、パントマイムを見るようなコミカルさもある。身体や腕や手振りは、舞踏のようでもあり、それぞれ演技者の独特な個性が手にとるように分かるのだ。手話のリアリティがものすごい。演技を超えた、圧倒的な迫力がある。
 とはいえ、手話がわらない吾野緒濫人は、手話を翻訳した字幕の文字を追う。
 しかし、しかし、しかし・・・言葉にしなくても、人の意思や意図、喜びや悲しみ、戸惑いや怒りは、強烈にストレートに伝わった来る。手話の伝達能力はすばらしい。
 言葉は、言語が変わると伝わらない。翻訳しなければならないが、手話は言葉の壁を軽々と超える。
 吾野緒濫人は、古の日本、縄文時代をチラ見した。そこには言語がなかった。そのとき人々はどうしたか? 手話を使ったはずだ。身振り手振りで、意思と思いを伝達し、共有したはずだ。言葉は言葉の凄さがある。が、言葉だけに偏ったら、人と人との繫がりで切り離されてしまうものもある。神事や祭りは、言葉だけでは失われてしまう人間文化の繫がりを取り戻すための、智恵であったのではないか。
 人と人とが集う。それで何が起こるのか。人は一人では生きられない。人が集ったときに、言葉だけに偏向してコミュニケーションをとろうとしたら、知識や技術は伝わるだろうが、人間であるべき感情が伝わらない。宇宙の生命体の中で、人間が創造した感情ほど豊かで深いものはない。神や天使ですら、人間の感情の豊かさには嫉妬を抱いているはずだ(妄想だが)。

 吾野緒濫人は、演技者の手話の動きを見ていて、もう一つ、気づいたものがあった。
 オーケストラの指揮者の指揮という動きである。
 指揮者は、身振り手振りで、作曲家が意図した音楽表現をオーケストラの全員に伝達する。指揮者は滅多に言葉を発しない。指揮棒と指先、腕の動作、そしてバーンスタインなんかは脚で飛び跳ねたりもして、指揮をして、音楽表現を伝達した。
 手話表現には、オーケストラの指揮者の指揮表現と同じである。
 じつはこれには、神智学まがいのところで言うと、人間の人体の周囲に広がるエネルギー体、エーテル的、アストラル的エネルギーが、特に手指の動きに深く関係していると見る。腕や手指は、とくにアストラルエネルギーをコントロールして伝達する機能があると見る(妄想だが)。そうだとしたら、こと感情伝達については、言葉だけではなく、手指を作動させたら、その伝達量はぐんと増える。ひょっとしたら、言葉よりも、手話のほうが、感情エネルギーをより豊かに伝達できる可能性があるかもしれない。
 妄想ばかり書いてしまった。
 この映画の紹介として、会場で配布されたビラをそのまま引用させていただく。



 吾野緒濫人が、この映画を見たのは、知人からの誘いがあったからだ。日本フィランソロピー協会の定例セミナー特別企画、2023年12月14日、日比谷図書館の地階のホール。
 「フィランソロピー」って何?
 吾野緒濫人は訝しんだ。なんか哲学みたいな響きだけど、知らない。
 語源はギリシャ語で、「フィリア」は愛、「アンソロポス」が人類、これを合成した英語で、人類愛という意味らしい。日本では1963年に設立した協会というので、かなり古いが、恥ずかしながら、吾野緒濫人には初耳だった。



 映画は、聾唖学校の校長先生が主人公。どうも、慈善事業っぽい雰囲気があり、タイトルが、赤ヒゲ先生のイメージがもろ被り、有名な俳優さんや監督の名はみつからず、げんなりした。あまり見たいという触手が動かなかった。が、知人の誘いなので、乗ってみた。
 そんな経緯で臨んだ映画会だったのだが、この映画を見終えた感想は、人生のエポットと言えるほどの衝撃的な感動を得た。

 吾野緒濫人は、映画を語るほどの知識は全くない。が、感動に残る映画は少しだけある。一番感動した映画は、パゾリーニ監督の『アポロンの地獄』だった。父殺しのギリシャ悲劇である。そこに人間の運命とも言うべき業の深さに驚愕した。
 この映画から受けた感動は、それ以来のものである。

 ただしこの映画には、名のある監督かどうかがわからない。役者さんには有名人の名がみつからない。キリスト教の暗示はあるが、人が人として、適切な教育を受けるべきであるというほどの、十分に常識的な権利を貫くという程度で、思想的なおしつけはない。聾唖者を特別視するところも薄い。物語はとてもよくできているが、格別そこが凄いというわけではない。役者さんには、いわゆるアイドル性や美男美女はいない。それでも、銀幕の中に意識は吸い込まれるほどの、理由がみつからない魔力があった。

 こんな映画は見たことがない。評論家なら、映画づくりとしての評価をするだろう。そんなものを、無効にしてしまうほどの、素朴と言ったいいか、魂と言ったらいいか、手話表現で展開される、言葉が少ない、ほとんど言葉がない、無声映画のような、なんとも表現できない、異様な異次元世界の映画を見た驚きを、お伝えする。
 吾野緒濫人がカンヌ国際映画祭の審査員だったら、間違いなくグランプリものである。