タモリが富士山の宝永噴火を探索するテレビを見ていた、吾野緒濫人(わがのおらんど)はふと考えた。宝永大噴火は、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の噴火である。いまはその噴火口の近くまで、五号目から歩いていける。
 富士山に二度登ったことがある吾野緒濫人は、妻や息子と登ったときに、妻が高山病気味で苦しそうで困難したにもかかわらず、ただ励ましたり待ってやるだけしか助けてやれない自分の無力さを知った。
「小さな子どもなら、抱いて登ることができるだろうか?」
 それすらも、富士登山では困難だろう。自分の7~8キロほどのリュックを背負っているだけで、精一杯だった。「はあはあ,ぜいぜい」と呼吸を荒らげ、自分のことだけしか自分の力が使えない。しかも、8合目を越えたあたりから、頭痛を感じるようになった。
「これ、高山病の徴候かぁ?」
 酸素の吸入缶みたいなのを持っていって吸ってみたが、何の効果もない。吾野緒濫人は、登れば登るほど荒れた岩のガレの命を吸い取るような急登を前にして、殺漠とした気持ちに悩む自分を見た。
「なぜオレは、こんな苦しいことをしているんだろう?」
 登山では、必ずいつも途中でこんな苦しい自分の愚かさに出会う。これまで何度もも出会ってきた。が、いつも頂上を極めると、すべてがリセットされる。登山の苦しみは、一瞬で消え去る。が、……と吾野緒濫人は考えてから、呟いた。
「人生の苦しみは、死んだらリセットできるんかぁ?」

 



絵:宝永噴火を描いた絵図「夜ルの景気」〈静岡県沼津市土屋博氏所蔵〉:内閣府 防災担当 - https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1707_houei_fujisan_funka/pdf/1707-houei-fujisanFUNKA_02_kuchie.pdf, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=126285726による
 富士山は宝永年間よりずうっと古い、縄文時代よりももっと古い、人類が棲息するもっと前から高い頂きを見せつけてきた。それなのに、なぜか古事記に富士山の記述がないという。
 これには当時の政治的な意図で、その崇高な存在は隠されたと言われる。
 TOLAND VLOGというYouTube番組がある。そこで語り部のサムがその秘密のヒントをさらりと語っていた。それは山頂にある二つの神社の標高である。よく知られているのが、富士山本宮浅間大社の奥宮である。ここが頂上の神社であるが、じつはもう一つある。
 久須志神社、東北奥宮ともいう。廃仏毀釈の前の江戸時代では薬師堂だった。以降は、富士山本宮浅間大社の末社として統合された。……のであるが、なぜか富士山の頂上にあるこの二つの神社の標高は、末社の東北奥宮の方が3mほど高い(3715m)という。さらに御祭神だが、奥宮は、木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)、配神は瓊々杵尊(ににぎのみこと)と大山祇神(おおやまづみのかみ)、いわゆる大和陣営であるのに対し、東北奥宮の久須志神社は、大名牟遅命(オオナムチノミコト)と少彦名命(スクナビコナノミコト)、つまり出雲陣営なのである。
 吾野緒濫人はビビッと来た。
 古事記が編纂されていた時期、富士山を望む駿河の国は、まだ大和の勢力が及んでいないエリアだったのではなかろうか? 久須志神社の御祭神が元の地主神であったことを裏付ける名残として祭られているのではなかろうか? いまは末社として裏に追いやられているわけだが。
 古史古伝の代表的な文献に「宮下文書」がある。これには、超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承が見て取れ、中国・秦から渡来した徐福によって筆録されたものとされている。信憑性についての議論はあるが、大和王権が成立するはるか前に、いわゆる出雲係による日本の文化的繁栄が関東から東北地方を中心にあった可能性は小さくない。さらに山岳信仰は超古代から紛れもなくあったはずで、いまはもちろんだが、古代人も、ときどき噴火をする富士山の存在に、格別の霊威を感じないわけはない。
 そんな霊峰富士は、古事記の時代には、大和陣営のエリアではなかったのではないか。
 富士山の存在が初めて出てくるのは、日本最古の物語といわれる「竹取物語」である。平安初期ごろに書かれたものとされるが、都に、日本一高い山として駿河の国の山が存在していることが知られていたことになる。そこから、「富士山」という名が生成されたという。

 



絵:「主人公・かぐや姫と竹取の翁」〈満谷国四郎筆、笠間日動美術館蔵〉:Mitsutani Kunishiro 満谷国四郎 (1874-1936) - http://www.nichido-museum.or.jp/exhibition_archive_1104.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=44483767による

 ウィキペディアから「竹取物語」の一部を引用する。
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 エピローグ 富士山の由来
 帝は手紙を読みひどく深く悲しみ、何も食べず詩歌管弦もしなかった。大臣や上達部を呼び「どの山が天に近いか」と尋ねると、ある人が駿河の国にあるという山だと言うのを聞き「会うことも無いので、こぼれ落ちる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬が何になろう」と詠み、かぐや姫からの不死の薬と手紙を、壺も添えて使者に渡し、つきの岩笠という人を召して、それらを駿河国にある日本で一番高い山で焼くように命じた。
 その由緒を謹んで受け、「士(つわもの)らを大勢連れて、不死薬を焼きに山へ登った」ことから、その山を「ふじの山」と名づけた。その煙は今も雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている(つまり、書かれた当時の富士山の火山活動が活発であったことを示している)。
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 なるほどと、吾野緒濫人は納得した。かつては富士山という名は知られていなかったが、古か(788)、甲斐守紀豊がこの丘の北東に社殿を創立し、浅間大神を遷座させたのが、いまの北口本宮富士浅間神社のはじめだそうだ。つまり、その日本武尊の時代には、富士山の霊威が知られていたわけである。
 が、それでも、大和王権の統治は、万全ではなかったのではなかろうか。
 統治が安定したのは、平安初期、坂上田村麻呂が蝦夷アテルイを平定する桓武天皇の晩年まで待たなければならなかったのではなかろうか。