ときがわ町西平に「宿」という交差点がある。町の中心から都幾川の脇の道を大野方向に遡ったところ、この交差点を右折すると有名な慈光寺に至る。左折すると北向きのパワースポット、萩日吉神社に至るが、川沿いをさらに遡ると、新冊山(あらざくやま)を右に見て、ときがわ町の深部、椚平に至る。
 さらに奥に踏み込むと、地図で道筋が曖昧だが、Googleマップで「同祖神」(2メートル長の巨砲のような男根神)や「お大日様」(北向き巨岩の大きな縦の割れ目に鎮座した大日如来像)とか「大日如来」(山道の脇の小さな石碑)などの伝承が曖昧だが相当に古そうな史跡がある。

 


 その辺りから東北方位を辿ると、稲荷神社があり、さらに東北に辿ると、「多武峰神社」がある。
 そしてさらに東北方向には、臨済宗の「全長寺」、さらにさらに辿ると、「萩日吉神社」が見つかる。

 


 これらのパワースポットは、新柵山の裾野から中腹に走る東北方向の鬼門ライン上にあることが地図上で確認できた(これは私の発見であるが、牽強付会でもある)。

【新柵山パワースポット鬼門ライン】
 萩日吉神社→全長寺→多武峰神社→稲荷神社→お大日様・同祖神

 この鬼門ラインの中心にあるのが、「多武峰神社」である。
 この神社への道程はやさしくない。入口の表示は、まず全長寺の入口にあるが、この道は新柵山の頂上直下の中腹まで登るが、車のすれ違いに冷や汗が出るようなところが随所にある。
 もう一つ、道路と氷川の間にある奥畑農民センターのところから少し先にある。今回は、この案内を信じて入った。新柵山の南面をジグザグに登るが、狭い。「対向車が来たら、どうすれば?」その心配でストレスが続く。ほとんど避けることができないほど、狭い。10分? 20分? カーブも勾配もきつく、びくびくしながら、やっと、それらしいところに着いた。

 


 

 すると山の左から人が出てきた。
「すみません。神社はどのへんでしょうか」
 すかさずその人に問い掛けると、ここだと教えてくれた。
 左に、車が二三台駐車できそうな叢があった。そこに駐車をしなさいという。
「ほら、あそこ、石の鳥居が見えるでしょう? あの一本道の先!」
 叢の奥に鳥居が見えた。

 


「よくこんな道を登ってきたね。すれ違えないから、怖い道だよ」
「はい。怖かったです」
「これをもう少し登ると、少し広い道に出る。それを左にいけば、広い道にでるよ」
 ていねいに、すれ違いができる帰りのルートを教えてくれた。

 あとで気づいたが、この方は、神社から降りてきたところのようで、地元の方だった。地元の方というと、ここには一軒しかない。ひょっとして、この神社の神職、武藤氏ではなかったか? とにかく深く御礼申し上げます。

 

 

 良く見ると、左に文字が風化しかかった神社の由来書があったが、読めない。鳥居の前から続くたぶん西北方向からの参道は、きれいに整えられていて、歩きやすい。放置された山道なら、ふつうには草ぼうぼうになって荒れるが、こんなにきれいなのは、まめに整備がされているからだ。さきほどの方は、整備のために入られたのではないか? ありがたいことだ。
 数十メートルほどの尾根道を歩くと、塔のように尖ったピークの南西側を左に巻いていた。右は急峻な崖で、下の道路脇に、八大龍神碑があるようだ(未確認)。
 左巻きを東南まで来ると、瓦で土留めをした階段が出てきた。ここを中程まで登ると、神社の社殿が見えてきた。階段を登り切ると、目の前に社殿が聳えていた。これは近年山火事で焼けたあとに再建されたものだそうだ。

 


 

 由来書を引用する。
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 多武峯神社は慶雲三年(706年)に藤原鎌足の遺髪を大和国多武峯(やまとのくにとうのみね)から遷して祀ったのが始まりとされています。その後、同所に福聚寺(ふくじゅじ)観音堂が建立されました。観音堂は三間四面の朱塗りの堂宇であったと伝えられ、南北朝時代の頃に火災に遭い、再建されています。明治二年(1869年)に多武峯神社と改称されましたが、明治四十年(1907年)に再び山火事により延焼し、現在の社殿は大正十五年(1926年)に建立されたものです。
 神社名になっている「多武峯」は「塔の峯」とも称されています。それは、社殿のある峯の形が塔のように見えること、あるいは往古瓦塔があったと伝えられることからです。その証拠に大正十三年、社殿の北西側にある塚から瓦塔、瓦堂、須恵器杯等の破片や十四世紀作と考えられる蔵骨器、片口鉢が出土しています。多武峯神社の瓦塔は、県内出土の瓦塔の中でも最古に分類されるもので、九世紀頃と推定される貴重なものです。塚の上には、文亀四年(1504年)銘の五輪塔も祀られています。
 また、かつては社殿西側には、文安二年(1445年)銘の十三仏板碑や長禄五年(1461年)銘の六観音・六地蔵板碑など、都幾川村(現・ときがわ町)を代表する板碑も十数基立ち並んでいました(現在は武藤家東側に移動)これらのことから、多武峯神社は、古代・中世の文化財が多数発見された貴重な遺跡でもあります。
 神社の祭典は、郡村誌には3月15日と記されています。その後4月15日に変更となり、現在は5月30日に行われています。なお、社殿は標高368mに位置していますが、南側は高さ99丈(約300m)と言われる断崖絶壁となっており、その中腹には椀貸し伝説が残る「竜宮の穴」と呼ばれる横穴があります。
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 この由来書には驚くべきものが書き記されている。
「706年に藤原鎌足の遺髪を大和国多武峯から遷して祀ったのが始まり」とある。この神社の御祭神は、藤原鎌足公(614~669年)なのだ。

 



・写真説明:『大織冠像』(ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵)、室町時代(16世紀)の作。藤原鎌足が半跏の姿で、息子の定恵・不比等の上段に座る。/出典:Kingturtle - 投稿者自身による著作物, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6033626による

 藤原鎌足は日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖である。飛鳥時代の貴族・政治家で、中臣鎌足として活躍した、大化の改新の中心人物である。改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いたとされる。
 藤原姓を賜ったのは、死の直前だった。
 死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祀られたとされる(他説あり)。ときがわの多武峰神社は、多武峯の談山神社にルーツがある。鎌足の死から数十年後に遺髪を分けいただき、祀ったという。
 ときがわの多武峰神社社殿の北西のピークに、五輪塔が西南向きに建っている。ここが遺髪を安置したところだという。聞けば丸い筒が埋められていることが近年確認されているという。

 因みにときがわの多武峰神社の始まりとなる慶雲三年(706年)とは,どういう時代だったかをまとめた。
 ・慶雲の改革: 律令体制の改革が行われた。
 ・租の課税方法変更: 租税制度が見直され、田一段あたりの租が2束2把から1束5把に変更された。
 ・伊予国での疫病流行: 感染症が流行し、朝廷から薬が給付された。
 ・文武天皇: 文武天皇の統治下で改革が行われた。
 ・飛鳥時代: 飛鳥時代の末期にあたる。

 その後には、福聚寺観音堂であった経緯がある。それは平安時代ごろからかもしれない。福聚寺をいま調べると、臨済宗か真言宗の系譜だとわかった。ときがわの寺院は、すぐ近くにある全長寺は臨済宗、その関連の北にある正法寺も臨済宗だ。が、臨済宗は宗派としては鎌倉時代からなので、それ以前から寺があったとすれば、律宗であったか、天台宗であったか、真言宗であったかもしれない。たとえば、臨済宗の正法寺の近くには、北向きの大日如来像があり、正法寺の東側の観音山には、四国八十八か所霊場を模した石碑がある。臨済宗の前には、真言宗であった名残と考えざるを得ない。

 そこから推測すれば、福聚寺観音堂は真言宗の可能性が高い。ときがわの多武峰神社の場は、一般人をよせつけない修験道の霊場として目されてきた経緯もあり、真言密教の山伏装束が目に浮かぶ。
 そして福聚寺観音堂が真言宗であったなら、そこから鬼門ライン上(南西)の裾野にある大日如来石像やお大日様(大日如来像)が祀られている理由がわかる。エネルギーは連鎖しているはずである。
 
 ところで、多武峰神社の鬼門ラインの東北にある、萩日吉神社の御祭神は、大山咋命、国常立尊、天忍穂耳尊、国狭槌尊、伊弉冉尊、瓊々杵尊、惶根尊である。創建はなんと、欽明天皇6年(544)12月、蘇我稲目(馬子の父)によるものとされる。慈光寺の開創が天武天皇の時代なので、萩日吉神社は、100年ほど前となる。大山咋命、国常立尊などの根源的神格を祀る神社が、6世紀の半ばに創られたということは、この辺りが政治を司る中心地であった可能性が高い。だからこそ、藤原氏の末裔が東国のここときがわにやってきて、藤原の祖である鎌足の遺髪を祀り、その権力を誇示したのだろう。
 
 いま、多武峰神社は柔らかな陽射しに包まれて、清浄なオーラが広がっていたように思う。
 下山して鳥居をくぐり、入口に差しかかったところで、車で来た参拝者の方とすれ違った。
 挨拶をして、立ち話をした。すると、この神社について、いろいろなことを教えてくれた。
 立ち話をしている側に、天狗の石碑があることや、この神社が山の上の武藤家によって管理されていることなどなど……。
「この神社は、ふつうの人が来れるところではないよ。修験道の修行者のための山なんだよ。力を貸してくれる」
「武藤というのは、武蔵の藤原という意味だよ。場所の名が前に来て『藤』が後につく名字は、先祖が藤原氏なんだよ」
「上の神主さんのところに寄っていらっしゃい。白装束なんかも展示してあって、前にあった観音様の像もあるかもしれない」
 その知識は、この神社の話題を超えて、霊的世界の状況、パワースポットの種類や場所などについても詳しかった。かなり長い時間の立ち話だったが、多武峰神社について理解が深まった。たまたま立ち話をしているところには、「天狗の泊木大桧跡」と書かれた石碑もあり、「こういうところには天狗が活動しているんだよ」とも教えてくれた。
 ありがとうございます。感謝。この場を借りて、御礼します。

 


 
 後で多武峰神社を参拝したこの日のことを振り返ると、極めて稀な機会に恵まれたのではないかと思う。
 まずは道の途中で人に出会ったそのタイミングである。私が運転する車が入口に差しかかったときに人が現れた。するとその人が神社の入口と安心して走れる帰路を教えてくれた。とても助かった。
 つぎ、神社の参拝を終え、車にもどる直前で、参拝に来られた人とすれ違い、そこでこの神社についての情報を詳しく得ることができた。
 この日は日曜日だったが、多武峰神社に参る人は滅多にいない。メインの道路の分岐に2か所、神社への案内があるが、神社付近に神社を差し示す案内はない。大まかな位置しか分からない。そんなところで、まさにその入口で、二人の人に出会うという確率は、著しく低いはずだ。しかもその二つの出会いは、私にとって、道案内となり、神社の理解が深めることができるきっかけとなった。牽強付会だが、私はこの神社の神から導かれ、教えられたのだと思う。はたしてそれは、この神社の神か、あるいは私自身の内なる神の仕業か? いずれにしても、この日のタイミングは奇跡的な出来事としか考えられない。
 私の牽強付会的妄想だが、この神社の神は、私の訪問を受け入れ、その参拝記録を公開することを促していると思った。
 ありがとうございます。